子どもが荒れている



 子どもが荒れている。しかし、子どもたちの現状を考えるのに、マスコミを通して入ってくる情報には偏りがあるし、どうしても自分が子どもだったときと比較してしまう。これでは現実を見ないことにもなりかねない。でも、ここ数年ずっと頭から離れないテーマだ。

 自分が子どもだったときを考えてみても、蟻を捕まえては平気でつぶして遊んでいたし、友だちをいじめたりもした。そんなふうに子どもは残酷なことをしながら、命の大切さなどを体で知っていくのだと思う。

 たとえば小さい子を公園に連れて行って、砂場で遊ばせているときに、自分ちの子がよその子に砂をかけたり、ひっぱたいたりしたときの状況を思い浮かべてほしい。自分では、子どもは少しワイルドなほうがいいと思っていても、すぐに他の母親が止めに入ったり、「いじめ」ている子の母親である自分に対して非難のまなざしが飛んでくる。そんなときに母親同士の間が気まずくなっても、子どもをそのまま遊ばせておけるだろうか。

 子育てを始めると同時に、こんなささいとも思える選択をいつも迫られるのが、今の日本の社会なのじゃなかろうか。

 ある元暴走族の人は、子どもが荒れる原因の大半が親にあると言っている。たとえば、
シンナーを吸う子供は、親の愛情に飢えている。
家庭がつまらないから、学校・仕事もつまらない。
「うちの子は大丈夫、いつかやめるだろう」は甘い考えだ。
親が変われば、子が変わる。
 私は、いわゆる非行は、かなりの部分が日本社会のありかたに起因すると思っている。

 とくに母親は子どもに対して自分の価値観を押しつけやすい。それがえてして月並みな道筋で、有名大学へ入り、一流企業へ就職することだったりする。

 ツッパリたちも自分は目立ちたいし、存在を認めてほしいくせに、他の人が同じことをするのが許せない。あるいはやたら徒党を組みたがる。とても自立した人間とはいえない。

 金融機関のゴタゴタと不景気にゆれる日本だが、問題の本質は日本社会の変動期に入ったことにある。明治維新で武士がいなくなり、敗戦で地主がいなくなり平等の原則が成立した。そして今個の自立が求められている。近代に入ってからの第3の波といってもいい。

 自己責任とか、自分探しとかの流行り言葉はこのことをさしている。言い換えれば自分の頭で考えて、自分で判断することだ。そういう訓練が小さいときからなされていないから、探す必要のない自分を探したりする。教師も個性的な子どもには冷淡だし、親は子どもを月並みな人間に育てたがる。そして社会は異質な人間を排除しようとする。

 アメリカと同じようになればいいとは、ちっとも思えないが、学ぶべきことはまだある。突出した人間の居場所のある社会にしたい。日本がオープンな社会に変貌し、個としての自立が進んだときに、今と比べて住みやすい社会になると思う。それには多様性を受け入れる心を各自で養っていかなければならない。

 女の子が薬物や犯罪に走るのは、小さいときに性的な虐待を受けたからだというデータもある。それが表面化していないのが、いまの日本の社会だ。若者が暴走やけんかを卒業したときに、社会が受け入れてくれれば、一過性の病気であったと笑って振り返ることもできるかもしれないし、そんな子が同じような境遇にいる年下の子のよき相談者になれると思う。ワルの心の支えになれるのは、元ワルなのかもしれない。
  • 子供と悪 河合隼雄 岩波書店 NDC371.4 \1200+tax
     悪とは何かという根源的な問いを投げかけている。盗み、うそ、秘密、性、いじめなどを取り上げている

  • あなたが子供だったころ 河合隼雄 光村図書出版 1988 NDC041 (講談社+α文庫 1995 に再録)
     鶴見俊輔、谷川俊太郎、竹宮恵子、井上ひさしなど10人の子ども時代をインタビュー。優等生が一人もいないのがおもしろい。
     
(1998-10-26)