3人家族



 『ぼくは勉強ができない』の主役は、時田秀美17歳。桃子さんという年上の彼女がいる。サッカー部に在籍。顧問の桜井先生は、ちょっとさばけてる。母と祖父との3人暮らしで、母親が編集者として一家を支えている。
「ずい分遅いんじゃなーい、秀美くんたら、不良じゃん」
「桃子さんとこで、焦燥感を味わっていたのだよ。母さん、焦燥って言葉、知ってる?」
「あら、馬鹿にしてんじゃないわよ。今朝なんて、会社に着く前にお手洗いに行きたくなってさ、駅で焦燥の塊だったのよ」
 こんな母親に育てられた秀美は、勉強はできないけど女にはもてる。このキャラクターがうけたのか、映画化されている。

 『光ってみえるもの、あれは』の主役は、江戸翠高校1年生。平山水絵という同級生とつきあっている。母と祖母との3人暮らし。戸籍上の父はいないが、遺伝子上の父がときどき遊びにやってくる。北川先生は、40代になっても独身で、ちょっと変わってる。幼なじみの花田と平山の3人でいつも昼飯を食べる。

 こうやって2つの作品を並べてみると、同じ系統に思えてしまう。前者がオーソドックスな青春ものになっているのに対し、後者にはいろんな仕掛けがある。ひとつは、詩の引用が唐突になされること。もうひとつは、夏休みに長崎県の小さな島に旅行に出かけてしまうこと。これは新聞に連載されたことと関係があるのかもしれない。ひどくまとまりのない作品になってしまった。

 川上弘美の文体は好きだ。とても読みやすい。会話の一部が「」に入っていないので、最初はとまどった。でも、そのほうがリズム感がでるのだ。一方山田詠美の文章は、あまりにも自然すぎて印象に残らない。ということは、作品に没入しやすいということか。あとがきで書いている。
主人公の時田秀美は高校生だが、私は、むしろ、この本を大人の方に読んでいただきたいと思う。何故なら、私は、同時代性という言葉を信じていないからだ。時代のまっただなかにいる者に、その時代を読み取ることは難しい。叙情は常に遅れてきた客観視の中に存在するし、自分の内なる倫理は過去の積み木の隙間に潜むものではないだろうか。
 同感です。
(2004-03-23)
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