わたしの歌謡曲



 最近はリバイバルソングがはやっているので、『失われた歌謡曲』なんていう本を読んでしまった。書いたのは、あのガメラ映画の監督金子修介である。彼の個人史と歌謡曲の歴史が重ね合わせて書かれていて、眺めているだけでも楽しい本だ。そして意外な発見が待ちうけている。ただし、井上陽水や中島みゆきは取り上げられていない。

 デュエットの定番「銀恋」と同じ年に出た西田佐知子の『コーヒールンバ』('61)は、大好きな曲。陽水も歌い出しの切り口の鮮やかさをほめていた。このころの歌謡曲はアメリカだけではなく、ヨーロッパの影響も強かった。

 ザ・ピーナツの『恋のバカンス』('63)のハーモニーを聞くと、脳髄がしびれてしまう。彼女たちは、『ウナ・セラ・ディ・東京』('64)も歌ってる。都はるみが『アンコ椿は恋の花』('64)で鮮烈なデビューを果たしたころ、まだ演歌という言葉はなかった。

 西郷輝彦の『星のフラメンコ』('66)とタイガースの『花の首飾り』('67)をへて、由紀さおりの『夜明けのスキャット』('69)が登場する。この曲と新谷のり子の『フランシーヌの場合は』('69)が同じ年だったとは。

 加藤登紀子の『知床旅情』('70)ではじまった70年代、渚ゆう子『京都の恋』('70)のベンチャーズ・サウンドはかっこよかったし、『17才』('71)を歌った南沙織は最強のアイドルだった。当時、娘に沙織という名前をつけようとして役所で受けつけてもらえず、涙を飲んだのは泉谷しげるである。小柳ルミ子の『わたしの城下町』('71)だって歴史に残る曲だ。

 チビまる子が大好きな山本リンダの『どうにもとまらない』('72)を知っているので、ピンク・レディーの『ペッパー警部』('76)を見てもさほど驚かなかった。どちらも、阿久悠と戸倉俊一のゴールデン・コンビの作である。そのころ、大学を卒業したばかりの女子社員が新人歓迎会でピンク・レディーをやると、おじさんたちは喜んだものだ。そして学校の先生がピンク・レディーをやらないと、話を聞かない子どもたちの出現もこのころである。もうすでに学級崩壊の兆しが見える。

 国内で最大のヒット曲、子門真人の『およげ!たいやきくん』('75)は忘れられない。田中星司の『ビューティフルサンデー』('76)を殿様キングスが歌うと、変にエグくておかしかった。そして田中星司が歌った『オニのパンツ』は、菅野美穂の思い出の曲でもある。

 サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』('78)をひっさげて登場し、西城秀樹が『YOUNG MAN』('79)でYMCAを有名にした。のちに金子修介は、この歌をもとにして映画『卒業旅行・ニホンから来ました』('93)を監督している。

 薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』('81)は、来生えつこ作詞、来生たかお作曲。松田聖子の『風立ちぬ』('81)は、松本隆作詞、大滝詠一作曲。80年代の前半は、こんな人たちが歌謡曲を作っていた。そして83年以降、私は歌謡曲を聞かなくなった。72年の吉田拓郎と80年の松田聖子の登場は、たしかに歌謡史を変えた。80年代といわれて思い出すのは、小泉今日子と中森明菜とチェッカーズくらいで、あまりよく覚えていない。

 ずっと大ヒットのない時代が続き、やがてさくらももこ作詞の『おどるポンポコリン』('90)からCDが売れ出す。そして歌謡曲という言葉はもはや使われなくなった。それにしてもYMCAとポンポコリンは、宴会向きの歌としては画期的だなあ。
(2001-06-22)