リテラシーがほしいはじめてITという言葉を聞いたときに、とてもいやな感じがした。昔の高度情報化社会を言い直しただけなのに、そこに何か新しい夢でもあるかのような詐欺の匂いがしたからだ。やがてITバブルが生まれ、気がついてみるとはじけて飛んでいた。 唯一正しい使い方は、IT革命という用語だ。つまりインターネットが生活の隅々にまで行き渡り、その結果企業や日常生活だけでなく、社会のあり方を根底から変えてしまうだろうという予測の概念としてだけは使える。 大人にとってパソコンとインターネットは、たしかに便利である。しかしそれを子どもにも使わせようというのは、むちゃな考えだ。しかし現実にはそんな動きが進行している。その理由が景気対策なのかIT信仰なのかわからないが、これで子どもが賢くなると思ったら大間違いである。 『コンピュータが子供たちをダメにする』は、まさにその答えになっている。 国民を総白痴化したいのなら、テクノロジーを学校カリキュラムの中心に据えればいい‐ビデオ教材やコンピュータやマルチメディア・システムを使って授業すればいい。音楽や美術、歴史といった、就職の役に立ちそうもない科目をわきに押しやってしまえばいい‐そういう教育をしていたら、国民がみんなバカになること受け合いだ。科学者である著者は、教育の目的を「自分の頭で考え批評する能力の養成」であると考えている。まったくそのとおりなんだけど、自分の頭で考えるなんてことは、簡単なようでとてもむつかしい。子どももさることながら、まず自分がそうありたい。 さらに本書の後半では、コンピュータ文化論を展開している。テクノロジー幻想を打ち砕き、ソフトウェアの製品テストの大変さを嘆き、コンピュータが雇用を提供してくれないことを指摘する。 多くの企業が採用したいのは、インターネットの知識を持つ人材というよりは、独創的な問題解決能力を持ち合わせていて、ソーシャルスキルを有し、外国語も使える人材のほうであることは確かだ。そして言うまでもなく、時間をきちっと守れ、性格が粘り強く、人柄が誠実で、仕事に対する倫理観をしっかり持っている人材だ。これらの特性のどれひとつとして、インターネットで身につくものではない。このように当たり前のことを述べている。もっとも、こんなスーパー人間なんてめったにいるものではないのだけど。 そしてインターネットをマクドナルドにたとえる。インターネットは、マクドナルドと同じように安価で、手軽で、スピーディーだけど、極上のサービスや品物を提供してきた図書館の存在をあやうくしていると。「図書館はもぬけのカラ」という章では、 書物と図書館は、自由と文字の読み書き能力(リテラシー)を手に入れる戦いのなかで、僕らが獲得した最大の武器だ。僕らはこの武器を利用しなければならない。その価値を正しく評価しなければならない。そしてその存在を後押ししなければならない。さすがにアメリカ人。日本とは図書館の規模も役割も違うようだ。あまり外国には行きたいと思わない私でも、ニューヨーク公共図書館はぜひ見学してみたい。
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