快楽主義はやめられない



 赤ちゃんに高い高いをすると喜ぶように、私は小さいころ、高いところが好きだった。とくにタンスの上から飛び降りるのが好きだった。胃袋に感じる無重力感がたまらなかったのだ。しかしジェットコースターは苦手だった。がたがた揺られ、いすに縛り付けられ、強制的に落とされるからだ。それに落下時間も長すぎる。

 タンスからの飛び降りは、一瞬のことであり、下には布団があり、それに慣れ親しんだ我が家であるという環境、そういう安心感が陶酔感を与えたのかもしれない。そしてタンスのてっぺんまで登るときのあのワクワク感がたまらなかった。クライマックスは、布団めがけて宙を舞う。まるで、胎内に返るかのように。

 そんな飛び降り願望も5歳くらいまでには、消えていた。そして小学校の高学年となったとき、快感志向は鉄棒で復活した。それは無重力ではなく、回転によるめまいだった。

 鉄棒にジャンパーやセーターをぐるぐる巻きにして、足をかけてただひたすら回転するのだ。ふだんは見ることのできない、天と地がぐるぐると回る景色を見るのは、なんとも心地よかった。

 自分史を振り返れば、だれしも黄金期というものがあると思う。私の場合は少し早すぎたのかもしれない。そのおかげで、中学生まではある意味で一目置かれる存在でいられた。しかし、今のいじめのはびこる学校にぽんと自分が置かれたなら、はたしてどうなるのだろうか。

 いじめに関する報道を聞くたびに、かつてのいじめられやすいタイプの同級生の顔が思い出される。と同時に、今はだれでもがいじめの対象になる可能性があるという現実を思い起こす。
「いじめられる奴が悪いんだぜ」
「あなただっていじめられるかもしれないのよ」
 今は、いじめること自体が快楽になってしまっているのだろうか。そして、いじめというものに無関心ではいられない自分がここにいる。

(1999-04-05)
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