父親になることのむつかしさ



 井田真木子『十四歳』は、ルポルタージュである。主な舞台となるのは、絶望の街・渋谷。まるでドキュメンタリー番組を見るような作品だ。

 なかでも29歳のプラクラ店店長の話は、インパクトがある。
父親がロクじゃなければ、子供がロクじゃないのは当たり前です。うちにくる子たち見てるとつくづくそう思います。父親ですよ、一番の責任者は。
十四歳で変わって、十五歳でこういう世界に飛び込んでくるんですよ。(十四歳という年齢は)遅すぎる年齢ですね。とりかえしのつかない年齢。(中略)もう、生まれ落ちてから14年たっているでしょう。もう手のつけようがない。自分がやってることは、よくわかってるんですよ。よくわかっていて、あの子たち、普通の女の子から、プラクラの女の子に瞬間的に変わるんです。俺自身があっけにとられるほど瞬間的に。あと、あの子たちの価値観、お金とブランドだけなんです。
(子供がぐれ始めれば)すぐわかる。そんなの十歳未満ですぐわかる。自分のこと考えればいいんですから。(そのときは)自分を責めます。一生、責めます。(中略)俺の一生を子供のめんどうを見ることに費やします。
たとえ、死ぬまで殴ろうが蹴ろうが、いったん道を間違えてしまった子供は、本当に親しい人間がすべてを捨てる気になってかからなくちゃ、まっとうになんかならないです。暴力なんて、何も解決になりません。暴力なんて無力ですよ。
 道を踏み間違えるとは、どういう意味か。
うん。ひとつには、金を貰うのが人生のすべてだと思ってしまうことですね。
 では、父親が自分の背中で子どもに"道"を教えることができるのだろうか。
そうだなあ。金を儲けて、贅沢に暮らすのが人生じゃないということかなあ。そしてそれがウソなんかじゃないということを示すために、父親自身が、たとえその日の銭が入らなくても、仕事を地道に、律儀に、信用できる人には信用されるように働いていれば、銭はあとから入ってくると、いや、入ってこなくても、そうやって生きていくことが大切なんだと考えることですかね。
 これが、結婚したばかりだけど、まだいい加減な人間なので、子どもを持つには早すぎると自称する男の発言である。どんなにりっぱな父親業の本よりも、りっぱな意見ではないか。反論できますか。
  • 十四歳 見失う親 消える子供たち 井田真木子 講談社 1998 NDC367.6 \1700+tax
     最新のレポートが読みたかったのに、井田は亡くなってしまった。合掌。
(2003-08-19)
<戻る>コマンドでどうぞ