映画は語る



 とても印象に残る映画がある。ひとつは中国映画の「正義の行方」、もうひとつは黒沢明の「デルス・ウザーラ」。

 「正義の行方」は、中国の四川省のある山村を舞台とした映画だ。村長は、30年間共産党支部の書記もつとめてきた。彼は村を家族と見立て、家長のような慈愛と厳しさで村民に接してきた。中央の共産党の方針を信じて、それを実現すべく粉骨砕身の努力をしてきたのだ。個人の自由を尊重すれば、悪が栄える。そのことを彼は体験的に知っていた。だからこそ厳しく村民に接したのだ。それでも村人たちは、あれこれ文句をいいつつ村長を慕っていた。

 ところがそのやり方が、近代的な法律により否定されてしまう。この映画は、そんな人治主義と法治主義の相克を描いている。山奥の村は、先祖代々続いてきた自己完結した小宇宙。それが近代文明の象徴である先生とか検察官と接触することにより、やがて崩壊していく。

 ひとりひとりの村人の描き方がとても自然だった。それに対して都会人である女性検察官がみごとに浮いていた。それはともかく、ほんとうに心にしみる作品だった。中国映画のベストテンにはぜひ入れたい。

 一方の「デルス・ウザーラ」は、ロシアの東の外れ、中国国境近くのシベリアの森が舞台である。地図の測量にやってきた将校と、自然を知り尽くした猟師との心の交流を描いている。

 氷結した湖の上で道を見失い、日没を迎えてしまったときの吹きつける風と雪のすごさ。ほとんど真っ暗に近い夕暮れ時の、地平線に沈もうとする太陽の美しさ。もう見事としか言いようない。いったいどうやって撮ったのだろうか。

 年老いて鉄砲を打っても当たらなくなってしまった猟師を、将校は大都会の自宅へ引き取る。しかし、彼はそこの暮らしになじめなかった。水は買わなくてはいけないし、毎日何もやることがない。都会生活に疲れ果て、やがて森へ戻ろうと決意する。そんな彼に将校は、猟がしやすいようにと最新式の銃をあげるのだった。

 やがて将校のもとに猟師の死を告げる手紙が届く。あわてて現場に駆けつけてみると、なんと銃が目当ての泥棒に殺されたという。つまり将校の善意が彼を死に追いやったのである。なんたる不条理。

 この2作品を取り上げているのが『予言された二十一世紀』。本書では、映画が描いた歴史と描き忘れた歴史について語っている。アジア編では「デルス・ウザーラ」、「赤ひげ」、「椿三十郎」、アメリカ編では「五つの銅貨」、「イヴの総て」、「博士の異常な愛情」、ヨーロッパ編では「僕の村は戦場だった」、「ドクトル・ジバゴ」、「自転車泥棒」など、どれも名作ばかりである。

 「映画は生きた歴史学である」と語る広瀬隆は、たとえば「正義の行方」、「ラストエンペラー」、「項羽と劉邦」、「新北京物語」などを手がかりにして中国の歴史をひもといていく。同じように、黒人問題の事件史、ジャズの歴史、ハプスブルク家の悲劇について整理してくれる。「五つの銅貨」の章で語られるレッド・ニコルズ、ルイ・アームストロングの話がとくにおもしろかった。

(2003-02-12)
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