ロシア正教会駐日ポドウォリエの歴史から

 

Святой Равноапостольный Николай Aрхиепископ Японский

    日本の地に初めて正教の種がまかれたのは、1861年函館のロシア領事館付属教会の主管者として来日した修道司祭(後の大主教)ニコライ(カサトキン)によってであった。

    50年以上にわたり成聖者ニコライはハリストスの畑で活動し、日本人を真実の光へと導いた。日本正教会の創設者、そして最初の首座としての彼の功績は日本だけでなく全世界に広く知られている。

    大主教ニコライの永眠は1912年2月16日1970年にはロシア正教会によって「亜使徒」の名で列聖された。

    大主教ニコライの後継者となったのは府主教セルギイ(チホミロフ)で、1908年にロシア正教会シノド(宗務院)によって派遣された。府主教セルギイの運命は悲運に満ちていた。つまり1940年に制定施行された「宗教団体法」により外国人は宗教団体の長にはなれなかったのである。また、府主教セルギイは1945年8月10日に永眠したが、彼は何の根拠もなくスパイ疑惑をかけられて約1ヶ月間投獄されたのである。

    1946年11月にモスクワ総主教庁は2名の主教を日本に派遣したが、占領軍本部はマーク・アルトゥール将軍の命令により日本入国は許可されず、その代わりにアメリカ・メトロポリヤから主教が招聘された。

    これに賛同できない聖職者と信徒たちのグループはニコライ堂を離れて「正統正教会」を組織し、その長となったのが主教ニコライ小野とアントニイ高井であった。

    この小さな教会の信徒数は非常に少なかったが、以前と同様にロシア正教会を母なる教会として、それを誇りとし、正教会の規則と伝統を穢れなく守ったのである。

    1957年9月30日ロシア正教会シノド(宗務院)会議はこの教会を日本の眞の正教会であると認めた。同時に、この教会が大主教ニコライが創設した日本正教会の後継教会であるとの決議を行った。

    当初この教会の祈祷所はニコライ堂境内にあった(以前ロシア人学校として使用した)施設を用いていたが、後に新宿に移転した。教会の長となったのは首司祭アントニイ高井であった。1965年に彼は高齢で他界したので、その後継者となったのが大主教(当時は司祭)ニコライ佐山で、彼は1967年12月10日にレニングラードで東京及び日本の主教として叙聖され、日本正教会の第3代首座と公示された。

    1970年4月ニコライ堂のグループは母教会のロシア正教会の元へ戻り、聖なる自治日本正教会としての活動を始めた。主教ウラジーミルが東京及び日本の主教に任命された。このようにして両教会の完全なる和解が成立した。

    これに関連して1970年4月から聖シノドの決議によりニコライ佐山主教が監督していた日本正教会の活動は新しい段階を迎え、ロシア正教会のポドウォリエとしての活動である。ニコライ佐山主教は日本正教会の首座と日本ミッションの長から解任されてポドウォリエの主管者に任命された。

    1979年5月22日、聖奇蹟者ニコライの不朽体移転祭日にポドウォリエは「日本正教会」から「ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエ」と名称を変え、宗教法人として登記された。

19917からポドウォリエの主管者は長司祭ニコライ・カツュバンとなっている。

 

本年3月6日静岡県下田市においてロシアと日本の間で締結された
「下田条約」150年祭が盛大に挙行された。

 1854年日本の下田港を目指していたプチャーチン将官が率いるロシア船「ディアナ」号が大地震によって引き起こされた津波に遭遇した。船は大破して多くの船員が死亡したり重傷を負った。プチャーチン将官は下田市民に医療と共にその他の援助を求めた。戸田村の港に向かった「ディアナ」号は深い駿河湾強い海流に流されて宮崎付近で沈没した。乗組員は地元の人々によって救助された。戸田に着いたプチャーチン将官は「戸田」丸の建造にかかわり、何度となく下田市を訪れ、様々な困難を克服しつつ日本との友好条約を調印するにいたり、これは「下田条約」として知られるようになった。当時ロシア人と下田市、富士、戸田村の人々の間に結ばれた友好関係が日ロ友好関係発展の出発点となり、両国間の信頼の発芽となった。式典を開会した下田市長の石井ナオキ氏は挨拶の中で次のように語っている:

 

    「今日この友好関係を引き継ぎ、それを守り強めるように委託された私たち子孫は下田条約調印150年記念する日露友好記念碑のオープニングに集まり、また当時死亡した人々の記憶を行うためです。先祖の委託に従って私たち両国の友好関係を強め、そして大切にしていきましょう」

    この式典はゲクセン寺のロシア船「ディアナ」号の乗組員で遭難者となったワシリイ・バカエフ、アレクセイ・ソボレフ、アレクセイ・ポシェチキン、フィリップ・ユージンが埋葬されている墓碑の傍で始められた。最初にお墓を管理している仏教寺院の村上住職が祈りを捧げ、その後のロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエの主管者ニコライ・カツュバン長司祭が永眠者のためにパニヒダを捧げた。

     この式典とパニヒダには駐日ロシア大使館代表者、衆・参議員、下田市市長、外務省職員、下田市の関係者、日本有名大学の教授、下田条約調印150周年式典準備委員会関係者、その他、市と公共団体関係者が出席した。

    パニヒダ終了後、上記出席者と多くの招待者たちを前にして、ディアナ号が沈没した駿河湾の海岸で日露友好記念碑の除幕式が行われた。

    この式典は下田市の文化会館で駐日ロシア大使館の生徒、横須賀のアメリカ基地内の生徒、下田市の生徒たちによるコンサートで幕を閉じた。

 

横浜のプロテスタント神学校の先生や学生がポドウォリエを訪問

 

    本年3月28日横浜のプロテスタント神学校の先生や学生が正教会見学のため駐日ポドウォリエ教会を訪問した。ポドウォリエ主管者のニコライ・カツュバンは簡単にポドウォリエ創立の歴史と活動について説明した。訪問者たちは聖堂を見学し、ポドウォリエにあるイコンの歴史にも見識を広めた。見学者の中にはロシアを訪問した人も数人いて、その印象などについて会話が弾んだ。

 

 

ポドウォリエ主管者は府主教ダニイル座下と奉事する。

    2006年4月2日大斎第4主日、楷梯者イオアンの記憶日に駐日ポドウォリエ教会の主管者・長司祭ニコライ・カツュバンはニコライ堂で行われた聖体礼儀でダニイル府主教座下と一緒に奉事した。聖体礼儀のあと主管者はダニイル府主教と面談してポドウォリエの信者であった故クラフツォヴァ・スサンナ姉が遺言した都内の土地がポドウォリエに遺贈されたことを報告した。同時に、この土地に1年半から2年後には聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキーを記念する教会堂が建設されることも報告した。これに対し、府主教ダニイル座下は祝福を与え、教会建築に神のご加護を願って下さった。

 

 

ロシア外務大臣ラブロフのニコライ堂訪問

    2007年10月23日ロシア外務大臣ラブロフは駐日ロシア大使ベールィと代表団員を伴って日本自治正教    会の首座であるダニイル府主教座下に表敬訪問を行った。

    ダニイル府主教座下は来賓を歓迎し、簡単に日本正教会の様子や活動について話された。外務大臣と代表団はニコライ堂としてよく知られている復活大聖堂を見学した。この会見に駐日ポドウォリエの主管者ニコライ・カツュバン長司祭も加わり、サプリナ女史が出版した日本における正教150周年記念本を大臣に寄贈した。

 

ポドウォリエで東京男声合唱団が教会音楽を歌う。

    2007年11月11日ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエ教会で「東京男声合唱団」が教会スラヴ語で教会音楽を歌った。

    この合唱団は40年以上の歴史を持ち正教徒や一般の団員で形成されている。

    ポドウォリエ主管者ニコライ・カツュバン長司祭は出席者を代表し合唱団の指導者と団員に長年の活動の結実 ある今日の公演に対する心からの感謝の意を述べ、今後の活動にも実り多いことを願った。

 

2008年ポドウォリエの降誕祭


    2008年1月7日9ロシア正教会駐日ポドウォリエ教会では主イイスス・ハリストスの降誕祭を祝った。

前日には徹夜祷を行い、当日はポドウォリエ主管者と他の聖職者によって聖体礼儀が執行された。

聖体礼儀にも徹夜祷にも多くの信徒が集まった。聖体礼儀では子供を含めて多くの信徒が領聖した。ロシア正教会駐日ポドウォリエの主管者ニコライ・カツュバン長司祭はモスクワ及び全ロシアの総主教アレクシイ二世の降誕祭メッセージを代読した。

聖体礼儀の後に祭日モレーベンが行われ、その中でアレクサンドル・ネフスキーを記念する聖堂建築開始の祈りも捧げられた。

モレーベンの後ポドウォリエの主管者は集まった信徒に説教をし、祭日のお祝いの言葉を述べ、子供たちにはクリスマスプレゼントが渡された。

 

 

ポドウォリエ主管者と府主教ダニイル座下との会見

 

    2008年1月16日ポドウォリエ主管者・長司祭ニコライ・カツュバンは日本自治正教会の首座である府主教ダニイル座下と会見した。

    主管者はポドウォリエが東京都目黒区に新しい聖堂の建築を始めたことを伝えた。また、主管者はポドウォリエの信徒であった故クラフツォヴァ・スサンナ姉から遺贈を受けた土地の経緯について簡単に説明した。彼女の希望により新聖堂は聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキーを記念して建築される。

 長司祭ニコライは府主教に建築書類などを見せつつ、1月13日に新聖堂建築の感謝祈祷を行ったことも伝えた。府主教ダニイル座下は新聖堂の安全な建築開始と終了を願ってくださった。

 府主教ダニイル座下との会談の中でニコライ長司祭は、キエフ総主教庁と呼ばれている教会のサイトがインターネット上にあり、この代表者が東京の聖公会の教会で奉神礼を行っている情報も伝えた。

 

 

2008年3月2日ロシア正教会駐日ポドウォリエの正教徒が長い間待ち望んでいた式典が行われた。

 

    2006年3月16日ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエは日本の首都東京の目黒区に聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキーを記念する聖堂建築のための土地を所有することとなった。この土地取得の経緯は以下のようなものである。

    1977年ポドウォリエ教会の信徒であったクラフツォヴァ・スサンナ姉は自己の土地をロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエに遺贈し、彼女の死後に故人である夫アレクサンドルの守護聖人である聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキーを記念した聖堂が建築されるようにする遺言を残した。

    長い年月にわたり様々な事由によりポドウォリエは故人の遺志を成し遂げられずにいたが、教会には神の恵みと教会の祈りによって故クラフツォヴァ・スサンナ姉の遺志を遂行できるであろうとの希望を持っていた。

 

    そして、その日が訪れたのである。2008年3月1日東京にロシア正教会モスクワ総主教庁渉外局局長代理のイエゴリエフの主教マルコ座下が来日された。

 

    主教座下を成田空港に迎えたのはポドウォリエ教会主管者のニコライ・カツュバン長司祭であった。空港から東京への途中、主教座下はモスクワ教区代理主教でラメンスクの大主教ニコライ佐山座下の聖ソフィア修道院を訪問され、兄弟的な会談を行った。
その日の夕方ポドウォリエ教会でマルコ主教は主管者や他の聖職者たちと共に徹夜祷を司祷された。3月2日の主日には聖体礼儀を執行された。

    聖体礼儀後、マルコ主教座下はポドウォリエの信徒たちに対して説教を行い、それに応答した主管者はポドウォリエと信徒のための渉外局局長の府主教キリール座下の祈りと配慮に感謝の意を表した。その後ポドウォリエの食堂で歓迎会が行われ、主教座下は信徒との交流を持たれた。

    15:00時にマルコ主教座下、ポドウォリエ主管者、長司祭イオアン長屋、長輔祭ウラジーミル辻、輔祭ヤコフ長屋、日本自治正教会の代理として修道司祭ゲラシム、ポドウォリエ教会の信徒、ウクライナの駐日大使クリニチ、ロシア大使館総領事リャボフ、「ロスザルベシ社」代表、ロシア大使館と商務部の関係者、駐日ロシア通信会社の人々が目黒の建築予定地に集まり、ロシアの偉大な聖人、聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキーを記念する日本で最初のロシア正教会の聖堂の定礎式が行われた。

    3月3日主教マルコ座下はポドウォリエ主管者と共に駐日ロシア大使ベールイを訪問して目黒に建築する教会の定礎式の様子を詳しく報告した。この会談には総領事のリャボフも参加した。午後に主教マルコ座下は日本正教会の復活大聖堂(ニコライ堂)を訪問し、修道司祭ゲラシムの聖堂ついての説明を受けた。その後日本正教会の首座である府主教ダニイル座下に面会し、そこでも目黒の教会建設の定礎式の様子をお知らせした。この面会にはポドウォリエ主管者、ポドウォリエの司祭イオアン長屋、日本正教会の修道司祭ゲラシムも参加した。

    この日のうちに主教マルコ座下は日本の亜使徒、聖ニコライが眠っている谷中墓地を訪れ、同時に府主教セルギイ、府主教フェオドシイ、主教ニコライ(小野)らの記憶をした。3月4日主教マルコ座下は日本からモスクワへと向かった。
 

 

東京で聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキー聖堂の成聖式が挙行された。

 

    2008年9月12日正教会ではウラジーミル市からサンクト・ペテルブルグ市へ聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキーの不朽体移転を祝い、同時にモスクワの聖大公ダニイルの不朽体発見を祝う日となっているが、この日に東京ではポドウォリエの新しい教会堂として聖義徳大公アレクサンドル・ネフスキーを記念した聖堂の成聖式が挙行された。聖堂建築物は1977年にロシア正教会の聖堂を建築するように遺言したスサンナ・クラフツォヴァ姉の土地に建てられた。故人の遺志を達成するために30年以上もかかったのはこの意志達成に悪意をもつ者の反対があったからだが、渉外局の計画的な仕事により東京にもう一つの正教会聖堂ができた。

    成聖式の前に聖堂に全日本の府主教ダニイル座下が到着した。日本正教会の首座を出迎えたあと、スモレンスクとカリニングラードの府主教キリール座下が仙台の主教セラフィム座下、ウスリースキーの主教セルギイ座下と共に聖堂の成聖式を行った。リガの大主教聖イオアン(ポメル)の不朽体を携えて聖堂の周りに十字行を行い、不朽体は宝座の中に安置された。新しく成聖された聖堂での最初の聖体礼儀は府主教ダニイル座下が司祷され、モレンスクとカリニングラードの府主教キリール座下、主教セラフィム座下、ウスリースキーの主教セルギイ座下、ウラジオストーク教区神品、駐日ポドウォリエの神品が倍祷した。平日にもかかわらず、日本正教会の神品や信徒が多く集まり、また日本人だけでなくロシア、ウクライナ、ベラルーシ、その他の正教国の代表者も集まった。

    奉神礼の後、渉外局局長が信徒に挨拶とお祝いの言葉を述べた。キリール座下は新しく成聖された聖堂に宝座用の福音書を寄贈し、神の言葉を忠実に守ることの重要性を説かれた。モレンスクとカリニングラードの府主教キリール座下はこの日がモスクワの聖大公ダニイルの記憶日で東京の府主教ダニイル座下の守護聖人の日でもあり、信徒と一緒に府主教ダニイル座下にお祝いの言葉を向けた。また、モスクワ及び全ロシアの総主教アレクシイ聖下の祝辞を読み上げた。70歳の誕生日を迎えたダニイル府主教には祈りの記念として府主教キリール座下はパナギアを贈った。

    渉外局局長は特に教会建設に当たり18年間尽力した駐日ポドウォリエの主管者ニコライ・カツュバン長司祭の役割を強調し、教会の勲章であるサーロフの聖セラフィム記念勲章(第3等)を贈った。またキリール府主教は他の聖職者、長司祭イオアン長屋、長輔祭ウラジーミル辻、輔祭ヤコフ長屋には祈りの記念としてイコンを贈った。また府主教座下はポドウォリエの多くの聖職者は彼がサンクト・ペテルブルグの神学校校長であったときの学生たちであることも話された。 また教会建設に積極的に援助した駐日ポドウォリエの信徒たちも総主教からの賞状が与えられた。モスクワの聖大公ダニイル記念勲章(第3等)を贈られたのはニコライ高松。総主教の感謝状を受けたのはリュボフ・シメオノヴナ・シュウェツ、マルガリータ・ワシリエヴナ・シュウェツ、エカテリーナ・ワシリエヴナ・シュウェツ、ナタリア・アンドレエヴナ・富樫らであった。

    ポドウォリエ主管者のニコライ・カツュバン長司祭は応答の言葉の中で成聖式に参祷された主教職の皆様に心からの感謝を表し、この共同の奉神礼が両兄弟教会の最も密接な関係の見本を表していると強調した。日本の正教にとって意義のある今日の祈りの交わりを記念して主管者は主教職の皆様に聖堂の守護聖人である義徳大公聖アレクサンドル・ネフスキーのイコンを贈った。祈祷に参加した信徒たちは十字架接吻のときにモレンスクとカリニングラードの府主教キリール座下の手からイコンを受け取った。

    駐日ロシア大使館で駐日ポドウォリエの新聖堂成聖式を記念した祝賀会が開催され、全日本の府主教ダニイル座下、モレンスクとカリニングラードの府主教キリール座下、他の主教職、司祭職、ロシアと日本正教会の信徒たち、日本の元首相の森氏、ウクライナ、タジキスタンの大使、ベラルーシの臨時大使、ロシア大使館職員が参加した。祝賀会の枠の中でキリール府主教とモスクワ-台北調整委員会の経済・文化関係代表者グバレフ氏との会見があり、その中では台湾におけるロシア人信者の牧会展望について話し合われた。祝賀会の後に渉外局局長は日本とロシアのマスコミ特派員たちの多くの質問に応じられた。 その日の夕方、府主教キリール座下は青山墓地を訪れ、日本の亜使徒、成聖者ニコライの功績によりハリストスの真実の光に照らされた最初の日本人正教徒で、最初の司祭パウエル沢辺の墓前にパニヒダをささげた。