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聖書について



0.凡人の聖書観(^^;)


 このホームページの前の方にある「著名人の聖書観」をお読みになって、皆さんはどんな印象を持たれましたか? わたしには、あのように短いことばで聖書を的確に表現する能力はありませんが、わたしなりに、聖書とはどんな書物であるかについて、いくつかのことを書いてみたいと思います。

 聖書は、他の本には見られない際だった特色を持っています。思いつくものをならべて目次をつくってみたら、こんな感じになりました。

聖書とは・・・

 1.息の長い本です

 2.顔の広い本です

 3.嫌われものです
 
  (1)政治によって嫌われました
  (2)宗教によって嫌われました
  (3)思想によって嫌われました

 4.驚くほど正確な本です

 5.摩訶不思議な本です
 

 6.たまに、わからないところがあります 

 7.ラブレターです



 以下、この順序にそって、凡人流聖書観を書いてみましょう。


1.息の長い本です


 聖書が、自ら主張するように「神のことば」であるとするなら、それは最近出版された本ではないでしょう。むしろ、時代を超えて、古くから生き続けて来た本こそが、そのような主張にふさわしいと言えるでしょう。

 この点で、聖書は、他の書物に抜きん出て、その資格を有する書物です。

 ・ イスラム教のコーランが書き始められたのは、今から1300年ほど前のことでした。
 ・ 私たちに身近な仏教教典が書き始められたのは、今から2400年ほど前のことでした。
 ・ これに対して、聖書が書き始められたのは、これらよりもずっと古くて、今から3500年ほど前のことでした。

 そして、もしそれが「神のことば」であるならば、ただ古いだけでなく、今もなお人を導き続ける本でなければならないでしょう。

 実は聖書よりも古い書物がないではありません。たとえば、今のシリア地方で出土したマリ文書という文書は、約3800年前に書かれたものです。しかし、そのような文書が、今も生きていて読まれていると、果たして言えるでしょうか? 皆さんはそういう文書を手にとって読んだことがありますか。もし、今わたしたちがそのような書物を読もうとしたら、大英博物館だとか、ルーブルのオリエンタルセクションだとか、たいそうな所に行かないと、お目にかかることはできません。
 しかもそれは、ただ「古い」という理由で重んじられているだけで、わたしたちはその内容を重んじたり、従ったりするわけではありません。そのような文書(石の板)は、それを刻んだ人間と同様、死んだものであって、現代に何の力も持ってはいません。

 これに対して、聖書は「博物館の書物」でなく、今この場で生きている書物です。日曜日には、世界中の教会や集会に何億もの人々が集まり、聖書から、励ましや教えを受けています。もちろん日曜日だけでなく、平日にも、多くの場所で聖書が語られ、何億もの人々が毎日家庭でこの本を読んでいます。

 そういうわけで聖書の需要は途切れることがありません。普通ある本が百万部売れると”ベストセラー”と言われますが、1935年の統計で、聖書は実に1年間で2億5千万冊も発行されていました。

 また、ベストセラーと呼ばれるものが、1年以上その地位を保ち続けることはとてもまれですが、聖書は、それから約60年後の1996年の統計で、年間5億3千万冊が発行されました。
 実は、聖書は、印刷術が発明されて以来、何百年もの間、第一の書物であり、またこれからも、その地位を保ち続けていくことでしょう。

 こんなふうに、聖書はとても息の長い本です。


2.顔の広い本です


 その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。(ローマ人への手紙10:18)

 聖書が、自ら主張するように「神のことば」であるとするなら、それはごく一部の国の人しか読めないようなものではないでしょう。人種・民族を超え、大陸を超えて、広く読むことのできる本こそが、そのような主張にふさわしいと言えるでしょう。

 私たちに身近なお経について言えば、「仏教伝道協会」という団体が、いろいろなお経をまとめた書物を翻訳して、世界中に普及させようと熱心に努力しておられます。今のところ40くらいの言語に翻訳されているようです。しかし、世界中には、およそ200ばかりの国々があって、国の数だけカバーするには、まだまだ先があります。

 これに対して、聖書はいくつくらいのことばに翻訳されていると思われるでしょうか? 100でしょうか、200でしょうか?
 実は、聖書は全部で2000を超える言語に翻訳され出版されています。世界中の国の数のさらに10倍以上、ちょっとした小さな部族の言語にいたるまで、聖書が語るメッセージはまさに「全地に響き渡り、地の果てまで」行き届いています。

 こんなふうに、聖書はとても顔の広い本です。


3.嫌われものです (>_<)


 ここまでは、聖書がどれほどたくさん発行され、どれほどたくさんの人々に読まれているかを書きました。でも、聖書は決して人々に歓迎され、推薦されて、このような地位を得たわけではありません。
 かえって、聖書は何千年にもわたって、おそろしい迫害やはげしい反対を受け続けてきました。

 簡単に言えば、まず始めに、政治的な権力が聖書を滅ぼそうとしました。次いで、宗教が聖書をおおい隠そうとしました。そして今では、「人間が万能である」という思想が聖書に立ち向かっています。今にいたるまで、人間が聖書を好んだ時代は、ひと時もありませんでした。

 

(1)政治によって嫌われました

 聖書が完成した時代に、一番力があったのはローマ帝国でした。そして、このローマ帝国では、皇帝を神(主)として礼拝させていましたから、「主なる神」を伝える聖書は、まことに都合の悪い書物でした。

 そこで、ローマ皇帝の多くが、全力をあげて聖書を滅ぼそうとしました。クリスチャンは「人類の敵」という罪状により、残忍な方法で処刑されました。獣の皮をかぶせ、猛犬に襲わせて噛み殺させたり、十字架に釘づけにしたり、瀝青を注いで火をかけ、庭園を照らすたいまつの代わりにしたり、ありとあらゆる残酷な方法がとられました。

 聖書を葬り去ったと考えたある皇帝は、「キリスト教はここに葬られる」と刻んだ記念碑を建てたり、「神々の礼拝は回復された」と刻んだ記念硬貨を発行したりしました。

 しかし、このような激しい迫害にかかわらず、後になって見ると、葬られたのはローマの神々と皇帝たちでした。政治の迫害に関わらず、聖書はかえって広まって行きました。

 

(2)宗教によって嫌われました

 次に、中世までヨーロッパを支配していたのは、ローマ・カトリック教会でした。カトリック”教会”といえば、聖書を重んじているように思われるかもしれませんが、よくよくその中身を調べてみれば、意外にも、聖書からは大きくかけ離れたものであることがわかります。

 地球のかたち(聖書と科学)のページにも書きましたが、中世のローマ・カトリックのなりたちをひとことで表現すれば、聖書とギリシャ哲学という二つの柱によって組み立てられていました。ですから、”キリスト教”と称しつつも、実際には、聖書にまったく反することも教えられていました。お金を出すことによって、罪のゆるしが受けられるという免罪符(代祷による免償)などは、そのよく知られた例です。

 このため、ローマ・カトリック教会は、人々が自分で聖書を読むことや教えることをきびしく禁じました。聖書を重んじる人々、聖書の教えを説く人々に対して、ローマ帝国なみの激しい迫害が繰り返されました。

 また、民衆の理解できない難解なラテン語以外の翻訳を制限していましたから、聖書を他の言語に翻訳するのも大変なことでした。
 ・ 聖書を、始めて英語に訳したティンダルという人は、絞首刑に処されました。
 ・ もうひとり、聖書を英語に訳したウィクリフという人は、生きている間は迫害をまぬがれましたが、驚くべきことに、教会は後にウィクリフの墓をあばき、骨を焼いて川にまくということさえしました。
とにかく、聖書を読むことも訳すことも、命懸けでした。

それでもなお、聖書は広がり続けました。

 

(3)思想によって嫌われました

 さらに近代になると、「人間万能」という考え方が主流になりました。人間は進歩するものであって、聖書のような古くからあるものは間違っている、という考え方が強くなりました。

 そういう人間観が正しいかどうか、人間は聖書以上に力があるのかどうか、過去の歴史を見ると、私たちは面白いことを学ぶことが出来ます。

 哲学者と呼ばれる人々は先頭に立って、聖書を攻撃しました。18世紀の有名な哲学者であったボルテールは「100年もたてば、人々は聖書について、何も聞かなくなるだろう」と評しました・・・。
 それから100年はおろか200年以上がたちますが、聖書は依然として、私たちの手元にあります。かえってボルテールの住んでいた家が、ジュネーブ聖書協会の施設となって、聖書の普及のために一役買うという皮肉なできごとが起こりました。

 科学者の中のある人々も、聖書に立ち向かいました。1861年に、フランス科学院は、「聖書を否定する科学的事実が51もある」という内容のパンフレットを出版しました。ところが驚いたことに、その後100年の間に、聖書を否定するはずの51の「科学的事実」の方が、一つ残らず、科学者自身の手によって否定されてしまいました。

 このように政治の迫害であれ、宗教の迫害であれ、人間万能の思想であれ、どのような反対や批判にかかわらず、聖書はその地位を保ち続けています。


4.驚くほど正確な本です (@o@;)


 聖書が、自ら主張するように「神のことば」であるとするなら、それは人のことば以上に間違いのない、正確なものでしょう。

 少し前にボルテールのお話を書きましたが、特に近代になって「聖書の間違い」なるものが主張されるようになりました。

 例えば、聖書が「地球は平らである」と言っているとか、天動説を教えていると、言われることがしばしばあります。しかし、そのような批判が誤解に基づくものであることは、地球のかたち(聖書と科学)で触れたとおりです。

 こういう聖書に対する批判は、自然科学以外の分野でも行われました。



 例えば、旧約聖書のダニエル書は、実際の歴史とは異なる後代の創作や想像であると酷評されました。ダニエル書5章には、次のような記録があります。

そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した。その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。(29〜31節)

 この記事は、数十年前の「聖書学者」から口をきわめて酷評されました。というのは、バビロニアやギリシャの多くの古代資料には、どれ一つベルシャツァルの名前がなく、すべて「ナボニドス」が最後の王であると記録されていたからです。
 それゆえ、ダニエル書は、はるか後代に書かれた空想の産物であり、実際の歴史を反映していない創作であるということが”定説”となっていました。

 ところが、その後の考古学上の発見によって、ベルシャツァルがナボニドスの息子であり、王権を付与されていたこと、そしてバビロニア滅亡時には、父親のナボニドスは退位しないままアラビアに退いており、ベルシャツァルが帝国を統治していたことがわかりました。聖書の記述は正確だったのです。
 そしてさらに、この発見によって、どうしてダニエルが「第二の権力者」ではなくて「第三の権力者」(29節)と呼ばれているのかが、数千年ぶりに明らかになりました。彼は、ナボニドスとベルシャツァルという「二人の王」に次ぐ第三の権力者とされたのです。

 このダニエル書に限らず、聖書のいろいろな章節が、「誤りだ、あり得ない、後代の創作である」と酷評されました。ルカ3章のルサニアについて、使徒13章の地方総督セルギオ・パウロについて、列王記第二19章のセナケリブについてなどなど、一つ一つ例を挙げていたら、1冊の本が書けるでしょう。ところが、考古学者が土を掘り起こすたびに、喧伝された”誤り”はいつの間にか消えていきました。

 ピラミッドで有名な吉村作治さんという考古学の先生がおられます。この吉村先生は、最初、考古学者ではなく歴史学者を志していたそうです。ところが、途中で歴史学者になることをやめました。なぜかといえば、「歴史は嘘をつく」からだそうです。
 世の支配者が歴史を書くと、自分につごうの良いように曲げて書き、学者が歴史を書くと、「いかに目新しい説を打ち出して評価されるか」という視点から、確かめようのない推論を作り出します。こういう意味で確かに「歴史は嘘をつく」と言えるでしょう。
 ところが、土の中から出てくるものは絶対に嘘をつかない。そこで吉村先生は、土を掘ることにしたそうです。

 聖書学者、宗教学者と称する人々によって、”定説”だと喧伝されてきたものが、どのようにして次々と覆ってきたか、そういう過去について、当の学者さん自身が語ることはほとんどありません。しかし、”聖書の誤り”と称されてきたものを、実際の証拠に照らすときに、私たちは、聖書の記録が驚くほど正確なものであることを知ることができます。

 こんなふうに、聖書は、自然科学の面でも、あるいは歴史の面でも、人間の書いた本にまさって正確な書物です。


5.摩訶不思議な本です (@o@;;)


”摩訶不思議”なお話の前に

 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。(イザヤ46章10節) 

 ここでは、聖書に書かれているいわゆる「預言(予言)」について、お話します。
これを取り上げることには、少しばかりのとまどいを感じます。というのは、この手の話には、通常二つの極端な反応が伴うからです。一つは、興味本位に扱われること。聖書の持つ性格や背景、書かれた目的を無視して面白半分に扱われる、という反応です。もう一つは、これとは正反対に、日常の経験則を超えることは一切受けつけない、という反応です。これを書いている私としては、読者の皆さんに、この二つの両極端を避けていただければと強く願っています。

 「ふしぎな」物ごとについて、ある心理学の大家は著書の序文に次のように書きました。

「証明なくしては何物をも容認せず アプリオリーに何物をも否定せず」

 心理学の世界と全く同じというわけにはいかないでしょうが、社会においても職場においても、私たちが物ごとを考えたり評価したりする上で、こういう姿勢は大切なものではないでしょうか。幸い、二一世紀に生きている私たちは、二千年以上前に書かれた聖書の記述が、その後の歴史の中でどんな結果に至ったかを調べることができます。


ダニエル書の預言

 聖書の中にはさまざまな預言がありますが、ここでは一つの代表的な預言について、お話したいと思います。それは聖書の主人公であるイエス・キリストに関する預言です。

 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週と六十二週。その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。
(ダニエル書9章25、26節)

 イエス・キリスト── 私たちはこの呼び方をイエスのフルネームのように考えがちですが、実は『キリスト』というのは姓や名前ではありません。いわば職名(肩書き)で「油そそがれた者」という意味です。旧約聖書の中で、国を統治する王や神に仕える祭司たちは、その任務につくときに油をそそがれました。そこから、やがて世に来られる救い主のことを、人々は「油そそがれた者」(ヘブル語でメシア、ギリシャ語でキリスト)と読んで待望しました。ダニエル書9章は、この来るべき救い主・キリスト(油そそがれた者)の到来を予告する預言でした。

 ここで「週」と訳されている語「シャブア」は、数字の「7」を意味する言葉です。ちょうど英語で「12」を「ダース」と表現するように、ヘブル語では「7」を「シャブア」と呼びました。ですからこの預言は、ダニエル書が書かれた当時(BC6世紀)には全く荒れ果てていたエルサレムの都が、後の時代に再建されること、そしてその再建命令が出されて69シャブア(69×7)=483年後に、キリスト(油そそがれた者)がエルサレムに来る、ということを予告するものでした。

 イギリスのロバート・アンダーソン卿は、ダニエル書の研究の中でこの預言をくわしく説明しています。エルサレムの再建命令はペルシャのアルタシャスタ王(アルタクセルクセス一世)によって紀元前445年3月14日に出されています。ロンドン警視庁の総監であったアンダーソン卿はグリニッジ天文台長の協力を得て、当時の暦と現代の暦の違いや「うるう年」を考慮したきわめて厳密な計算を行ないました。その結果得られた日付はAD32年4月6日、およそ30歳で公生涯に入ったイエスの活動期の一日でした。

 しかし、この預言の「ふしぎさ」は、その日付よりもむしろその内容にあります。それはこの「油そそがれた者」の運命に関する予告です。
 どうしてこんなに大切な預言が、旧約聖書をよく読んでいたユダヤ人たちに意識されなかったのでしょうか。それは多分、「油そそがれた者が断たれる」という悲劇的な内容によるものでしょう。イエスの弟子たちも含めて多くのユダヤ人は、キリストがその偉大な力を発揮して国を治め、王として君臨するものだと考えていました。キリストが「断たれる」などということは想像もつかない「とんでもないこと」(マタイの福音書16章22節)でした。しかし、それは私たちの罪があがなわれるためにどうしても必要なことでした。同じ旧約聖書のイザヤ書も、このキリストが断たれることをくわしく予告していました。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

(イザヤ書53章4、5節)

 キリストと呼ばれる方がいつ現われるのか、そしてそのキリストをどんな運命が待ち受けているのか、そのことははるか昔から予告され、そして書かれている通りに実現しました。


6.たまに、わからないところがあります (^^ゞ


 ここまで、聖書が時代を超えて生き続け、全ての民族人種に行きわたり、人間よりも力があり、驚くほど正確で、また不思議な書物であることを書いてきました。皆さんはどのような感想をお持ちになったでしょうか?

 もちろん、聖書を読む側の人間=私たちは全知全能ではありませんから、聖書のすべてを理解できるわけではありません。やっぱりわからないところがあるかもしれません。でも、そういう「わからないところ」があったとしても、聖書が完成して後の2000年間の経験に照らせば、私たちは信頼を持ってその解明を待つことができます。

 聖書の中で、長い間「さっぱりわからない」とされてきた例を一つ上げましょう。天体に関する記述がよく出てくる旧約聖書「ヨブ記」の一節です。


 あなたは十二宮をその時々にしたがって引き出すことができるか。
 牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。
 あなたは天の法令を知っているか。
 地にその法則を立てることができるか。

                          (ヨブ記38章32、33節)

 このヨブ記38章は、神と言い争おうとした主人公ヨブに対し、神が全能者としての力や智恵を示している場面です。

 この32節は翻訳がむずかしい場所とされてきました。日本語の新改訳聖書を見ますと、牡牛座の処に*マークがついていて、欄外の説明に別訳で「熊座」と記されています。

                         牡牛座=「熊座」・・・??

 よく分からない説明ですね。それに「大熊座」「小熊座」はありますが、「熊座」なんて聞いたことがありません。


 実はこの個所の原語(ヘブル語)は、単に「熊」を意味することばとなっていて、これは今でいうアークテュールスという大変明るい恒星のことを表していました。(ユダヤ人たちは、アークテュールス星のことを「熊(熊星)」と呼んでいました)。

 そこで、1611年の欽定訳(Authorised Version)などの古い翻訳は、原文に忠実に「アークテュールス」と翻訳していましたが、その訳ではなかなか意味が通りませんでした。というのも、アークテュールスは孤独な星で、「その子の星」と呼べるような星がまわりには見あたらなかったからです。

 そこで後の時代の翻訳は、アークテュールスを含む今の「牡牛座」全体を当てて、何となくつじつまを合わせようとしました。それでも、なぜ神は他の星や星座ではなく、特別に牡牛座を取り上げて、「・・・導くことができるか」と語ったのか?、という問題が残りました。単に星の運行を言っているのならば、別に牡牛座でなくても、どの星でも良いはずです。


 ところが、その後の天文学の発達に伴って、アークテュールスのことがだんだんとわかってきました。

 私たちの住んでいる地球や太陽系は、プレアデス星団のあたりを中心にして、円を描いて回っています。いわゆる銀河系ですね。

 ところが、その中でアークテュールスは、とんでもない例外で、他の星々と全く違う軌道を描いていることがわかってきました。アークテュールスはは銀河系のほぼ真ん中から、一方向に向かって、とても細長い楕円軌道を描いて回っているのです。他の星々がプレアデスの周りを円を描いて回っている中で、アークテュールスは一匹狼(一匹熊?)のように銀河の中心から、銀河の外へと、とんでもなく細長い軌道を描いていることがわかってきました。

 もう一つ、アークテュールスの特徴は、そのスピードにありました。この星は「高速度星」といって、他の星の3倍〜12倍の早さでビュンビュン飛び回っていることがわかってきました。

 さらに、観測技術の発達によって、このアークテュールスには、「子ども」と言えるような天体が周りを回っているようだ(確認されたわけではないが、その可能性が強い)と言われるようにもなってきました。

 こうして、ヨブ記38章32節の意味するところがわかってきました。ここで神はヨブに対して、

「他の星と全然異なる軌道を猛スピードで飛び回っている高速度星アークテュールスを、おまえは導くことができるとでも言うのですか。それができるのは、全能者である私だけですよ」

ということを語っているようです。


 長年クリスチャンたちは、ヨブ記38章が全体として意味するところはよく理解していましたが、32節が細かに意味するところは理解できませんでした。人間が何千年もかけて天文学を勉強してきて初めて、今になって「あ、ヨブ記に書いてあることは、なるほど本当だった」ということがわかってきました(神様も、何だかイタズラ好き?ですよね)。

 翻訳者は、その時代の「科学」の水準に合わせてつじつまを合わせようと苦しまぎれの努力をしましたが、訂正が必要なのは聖書ではなく、翻訳者の方でした。

 聖書の不思議について、書けば書くほど、話せば話すほど、話題と興味は尽きませんが、もうずい分長くなってきました。そこで、最後にいちばん大切なお話をさせていただきましょう。



7.ラブレターです \(^o^)/


  ここまで書いてきたようなことをお話すると、ある人々はとても喜んでくれます。聖書がどんなにふしぎな書物であるか、といった話をしますと一生懸命聞いて下さいます。でも、ただ「面白い」で終わってしまうなら、それは単なる雑学です。

 しかし、この章で書いてきたことが、ただの雑学や耳学問に終わらないための大事なことがまだ一つあります。それは、「この聖書に書いてあることは、誰のために、また何のために書かれたのか」ということです。


 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
(ヨハネの福音書20章31節)

 

 聖書は誰のために書かれたのでしょうか。また何のために書かれたのでしょうか。

 考古学者に資料を提供するためでしょうか? 天文学者にヒントを与えるためでしょうか? 私たちが興味深い話を聞いて教養を深めるためでしょうか? 

 聖書は、もっと真剣な目的のために書かれました。それは、まことの神様から離れてしまった私たちが、もう一度神様のもとに立ち返り、イエス・キリストを信じる信仰によって、いのちを得るためでした。あなたがまことの神様を知り、イエスを自分の救い主(キリスト)と信じること、その一点のために、聖書のすべての記事が書かれました。聖書が書かれたのは「あなたのため」である、とヨハネの福音書は語っています。

 

 ある人は聖書のことを、私にあてられたラブレターと呼びました。これは聖書の性格をとてもわかりやすく表した言葉だと思います。神様は私(あなた)を愛して、私(あなた)にあててラブレターを書かれました。「そんな、歯が浮くような」と思われるかもしれませんが、実際、聖書の中には、「あなたを愛している」「あなたを愛している」という、人間に対する神のことばがくり返されています。

 

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)

 

 皆さんはラブレターをもらったことがありますか? 私は出したことはありますが、もらったことがありません(一生ないでしょう・・・ToT)。でも、もし誰か素敵な人からラブレターをもらえたなら、一生懸命読むだろうと思います。

 ところが、もしラブレターをもらった人が、せっかくの手紙を見て「可愛い便せんだな」とか「めずらしい記念切手だな」とか、つまらんところに感心して、大切な中身を真剣に受け取らないとしたら、何と野暮というか、気のきかない人だ、と思うでしょう。

 

 ところが、意外に聖書について同じことをしている人が少なくないのです。ある人は聖書をよく知っています。りっぱに解釈することさえできます。ところが、見れども見えず、聞けども聞こえず、「まさに自分のために、自分のことが書いてあるんだ!」ということに気づかないで他人事のようにして読んでいる、野暮な人もたくさんいます。

 ですから、最後にお勧めしたいことは、聖書を読むとき、どうか「自分への手紙」として読んでいただきたい、ということです。あなたは聖書を通して、神様の声を聞くことができます。そして祈りを通して、神様と語ることができます。

 

 古代の遺跡は私たちに「聖書は真実ですよ」と告げています。宇宙に浮かぶ天体も、「聖書は真実ですよ」と告げています。世界の歴史も、「聖書は真実ですよ」と告げています。すべてのことについて聖書が真実を告げているのと同じように、あなたの一生について、あなたの幸福について、聖書は本当のこと、大切なこと、信頼すべきことを告げています。どうぞ、聖書のことばを、あなたにあてられた大切な手紙として、お読みになられますように。


(おわり)

 

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