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作者のプロフィール
なまえ : pisgah(もちろん仮名です)
住 所 : somewhere in Japan
家 族 :
尊敬する愛妻、かわいい一人息子と三人でなかよく暮らしています。
好きなことば : 新約聖書ピリピ人への手紙4章12,13節
わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。
わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、
ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
趣 味:読書。昔は水泳、ジョギング
好きなもの:ドリア、海老フライ、納豆巻き、とうもろこし、コーンスープ、イチゴ、エクレア、モーツァルト交響曲第25番ト短調K.183の第1楽章
苦手なもの:たこ、いか、いくら
聖書とわたし(つまらないひとりごと)
1.きっかけ
高校生のとき、現代国語の授業の中で、矢内原忠雄という戦前・戦後を通じて活躍した経済学者、聖書研究者のことを知りました。矢内原は、新渡戸稲造が国際連盟事務局次長に転出した後を受けて東京帝国大学の助教授、教授となりましたが、信仰のゆえに戦争への協力を拒んで帝大を追われ、以後終戦まで伝道者として活躍しました。その活動も軍部・警察によって著しく圧迫されました。戦後、5度懇請されて大学に復職、以後、経済学部教授として現在の国際経済論の講座を開き、教養学部長、経済学部長、総長として、東大の再建に尽力しました。
わたしは、戦時中の彼の生き方、特に、軍部や政府に逆らってまで自らの信念を貫く強さ、しかも、歯を食いしばって強がるのではなく、歓びながら所信を貫く彼の「不思議な強さ」に強く惹かれ、彼が一生涯、そのあゆみの基盤とした聖書に興味を持つようになりました。
彼の同僚であり、社会主義者・無神論者であった大内兵衛は、矢内原を始めとする聖書読者について、次のように述べています。
東大につとめるようになってから、私はたびたびいろいろの事件を起こしたり、また関係したりした。(註1)
そしてそのたびごとに、多くの同僚のうち何人かがマゼものの入っていない本当の人間であるかについて、
分別を試みなくてはならぬ立場におかれた。済々たる多士のうち、最上級の品質として私がよく出したもの
に、法学部に田中耕太郎、南原繁、高木八尺があり、経済学部に矢内原忠雄、江原万里があった。
この人々はいずれも私より年少であったけれども、そのバック・ボーンが私自身の何倍も強かった。
私は彼等の骨を私の支柱としつつ、その強さがどこから来るのかをいぶかった。多年の分析と分別によっ
て、彼らのヴァイタリチーまたはヴィタミンは、彼らが若かったときに、内村という男(註2)が彼らに注ぎこん
だものであることを、私は遂に発見した。
わたしが心を惹かれたのも、聖書を読む人間の、この不思議な「骨」でした。
註1 社会主義経済学者であった大内は、戦前戦中の思想弾圧により、何度か大学追放や検挙などの難を受けた。
註2 明治・大正期を代表するキリスト者・内村鑑三のこと
2.聖書を読んでみる
聖書を読んでみて、すぐに、なにごとかがわかったというわけではありません。だいいち、すぐに読めるほど薄くありません。初めて読まれる方は、新約聖書の福音書から読まれる方がよいでしょう。
アブラハム・リンカーンいわく、
魚や肉を食べていて骨があったら、それを出して、食べられるところを食べるでしょう。
聖書もそのように、わからないところはそのままで、先へ読んでいきなさい。
皆さんもこんなふうに聖書を読んだらいいと思います。読んでいるのは同じ本ですが、読むたびに内容が新しいのは驚くばかりです。
また、後になって、アドバイスしてくれる友人が得られたことも幸いでした。聖書に興味をお持ちになったあなたのために、そういうお手伝いができれば・・・パソコン素人のわたしがキーボードやマニュアルと格闘しながら(^^;;)このページを開いた動機はここにあります。
3.聖書にも間違い??
インターネットは、誰もが使える道具ですから、ネット上に流れる情報はまさに玉石混交。とても良いものもあれば、「トンデモ」なネタもたくさん。その中で、「聖書にも間違いがある」といったものを見かけた方もいらっしゃるかもしれません。
聖書に対するいろいろな見方を経験してきたわたし=
@ 無縁「ナニ、それ?」
→A懐疑主義「ウソじゃないか?」
→Bご都合主義「間違いはあるかもしんないけど、信じるの」
→C合理主義「信頼できるものだから信頼する」
としては、今にしてみると、聖書に対する非難や攻撃には、ずいぶん理不尽なものが多い、しかもそれが「学問」の仮面をかぶっていたりするからこっけいでかつ始末が悪いと思います。
そのあたりは、おいおい、このホームページの中でも触れていきたいと思いますが、簡単に言えば、二つの不幸な原因があるといえましょう。
@ 一つは、宗教「学」や聖書「学」の、学問としての内実や手法の浅薄さ。すなわち、他の学問分野から見れば、とてもサイエンス(科学)とはいえない想像や憶測が、ときどきの思潮に揺られて、合理的な根拠もなく「定説」「学問上の成果」へとまつり上げられていくことです。
例えば、その手の本を読むと、創世記などにおいて、2つの神名(エロヒムとヤーウェ)が用いられていることから、最初、神名をエロヒムとする文書と、ヤーウェとする文書が、別々に存在し、後に編集されたのだとありますが、これ自体は検証のともなわない、根拠のない憶測です。同じものごとを違うことばで表現することなど、日頃わたしたちが文章を書いていてもよくある話で、神名が2つあるからといって、上のような推測を正当化する根拠にはなりません。現に、イスラム教の聖典・コーランにおいても、アラーとラブという2つの神名が用いられていますが、これをもって、「コーランは、複数の文書を編集したもの」などということを唱える学者は、一人もいません。
このように、少し考えればすぐに崩れるような想像を土台にして、その上に根拠の薄い推論を次々と積み重ねていく・・・そして、これがいつの間にか「定説」となってテコでも動かなくなる・・・というのが現代の聖書「学」や宗教「学」の不幸な成り立ちです。これを「学問」と称することには、相当な無理があります。
学者・研究者は常に、「新しい説、画期的な説」を提唱し、業績として学界に認められたい、という誘惑にさらされます。そして、それが物理学であれば実験をとおして追試が可能であり、また経済学のような分野でも、ある程度の検証や確認が可能です。ところが、聖書「学」のような分野においては、このような検証ができないために、論者の「言いたい放題」という世界が生じ、その時代の思潮に即するものが支持を得て「定説」となる−という現象が生じるのです。
こういうことは、他の分野を学んだ者として、正直「信じがたい」ことなのですが、ネット上の世界などでは、「学問的な成果」として大手を振って歩き回っています。
その昔、桑原武夫がその著書「第二芸術論」で、実験をまじえながら、「俳句は第二芸術である」(すなわち、「芸術」の名に値しない)と喝破して物議をかもしました。いわゆる宗教「学」、聖書「学」の手法や成り立ちを他の学問分野と比較するとき、これとよく似たことが当てはまります。
A もう一つは、従事者の質の低さ。聖書「学」、宗教「学」という分野が、少なくとも我が国においてはマイナーであるがゆえに、従事者の質が低いという問題です。矢内原にあこがれたわたしは東大に進みましたが、在学中に、宗教学、聖書学に携わる内外の学生と知り合う機会がありました。その際、彼らの中に、合理的な推論なり立証なりのプロセスを踏む能力が高い人物を見かけたことがありませんでした。有名な学者の説をトレースしたり、新味を出すために突飛な説を打ち出すことはできても、緻密に論理を重ね、証拠を提出し、結論を導き出すという、本来学徒が備えるべき資質や能力が、(まことに失礼ながら)他分野の従事者に比べて、非常に劣るというのが実感でした。もっとも、上に述べたように聖書「学」、宗教「学」自体が、著しく主観や憶測の学問(第二学問)であるために、仕方がないといえば仕方がないのですが。
こういうわけで、いくつかの本や情報は、ある意味で「偉大なるトンデモ本(ネタ)」といっても過言ではないでしょう。そういうものに、あまり振り回されない方が賢明です。
かく言うわたしは、始めのうちは、徒手空拳で身近なアドバイザーもいなかったために、その種の学説や本にずいぶん惑わされました。よくいえば幅広い経験、悪くいえば壮大なる時間のムダの末に、聖書が確かな書物であることを理解しました。特に、聖書と科学の問題に関して、文科系のわたしが、理、工、医、農といった学部の学部生や院生、教授から、聖書はいかに信頼し得る文書であるかを教えられたときのことは、楽しい思い出です。
4.その後のわたし
上に書いたようなことを経験したり考えたりしながら、わたしは聖書を読み続けました。初めて読む人には、すぐにはピンとこないかもしれませんが、聖書を読み進めているうちに、どこかの時点(何ヶ月後か、何年後か)で、書いてあること以上に、この聖書が紹介するイエス・キリスト・・・旧約聖書の民があこがれ、新約聖書の民が「主」として紹介するイエス・キリストという不思議な存在に対して、どんな態度をとるか、が重大問題であることがわかってきました。
「イエス・キリストとの関係をどんなものとするか」によって、人の一生は大きくかわってきます。平々凡々と毎日を過ごし、仕事をし、ご飯を食べ、いくらかの趣味を楽しみ、そして年をとって死んでしまう、それだけの人生を送るか、力強さと歓びの中で、アグレッシブな道を歩むか。新約聖書の中で生き生きと活躍する人々を支えたのは、このイエスとの関係でした。さきに掲げた矢内原を歓びと不屈の闘志で満たしたのも、まさにこのイエスとの関係でした。
わたしの人生は、決してみなさんに誇ったり自慢したりできるものではありませんが、でも、新約聖書の登場人物や矢内原が持っていたものと同じものを持ち、力を持ち、歓びを持っています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(新約聖書ピリピ人への手紙)
わたしにも、ある日、イエス・キリストとの関係が「わかる」ときが来ましたが、その詳細についてここに書くのはやめましょう。聖書の紹介するイエス・キリストとの出会いは、それぞれの経験や背景、年齢、気質により全然違うものです。何か神秘的な体験が必要とされるわけではありませんし、特別な感情・感激を要求されるわけでもありません。人によって経験はさまざまであり、ここでわたしの経験を記すのはあまり意味のないことです。どのような道筋をたどるにせよ、みなさんが聖書を読み進む中で、いつの日かイエス・キリストとの出会いを経験して下さればと思います。そして、このホームページが、少しでも、皆さんにとって聖書を読むための手助けとなれれば、と思っています。
以上、つまらないひとりごとでした。(^^)
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