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新約聖書、特にその最初にある4つの福音書には、しばしば奇跡の記事が出てきます。この奇跡の記事を読んで、「こんな非科学的な話が書いてある本が、どうしてこの現代にまかり通っているのか」と戸惑いを感じる人もいるようです。
ある人は、「聖書の中に奇跡の記事がなかったら、神のことばとして受け入れられるのに」とも言いますが、よくよく考えてみると、このような考え方は、少し変だと思いませんか。この人は、「奇跡を行う神」は信じられないが、「奇跡を行えない神」なら信じられると言うのです。果たして「奇跡を行えない神」というのは、私達のような人間とどれほどの違いがあるのでしょうか。
奇跡とは、ひとことで言えば、自然の法則を超えた現象のことですが、この法則と神様の関係は、法律と人間の関係に似ています。(実際、自然法則も、法律も、英語ではLAWといいます。)
昔、アメリカで奴隷解放令が制定されたとき、長い間奴隷制度を認める法律に縛りつけられていたために、黒人奴隷の中には、本当に自分が解放されたことが信じられずに逃げ回っていた人がいたそうです。この人は、古い法律の力があまりに強かったために、「人間には法律を変える権威があるのだ」ということがわからなかったのでしょう。
国会や議会は、法律を制定したり、廃止したり、あるいは法律の一部に例外をつくったりする権威と権限を持っています。これと同じように、神様が法則をつくり、またその例外をつくることができるとしても、何の不思議もないはずです。もし赤信号を通過する救急車を見て、「あの車は道路交通法違反だ」ととがめる人がいたら、あなたはどう思われますか。法律にも(議会の権威や権限に基づいて)例外が許されるということが理解できるなら、神であるイエス・キリストが、罪や病に苦しむ人々のために自然の法則を超えて奇跡を行ったことを「法則違反だ」とか、「あり得ない」ということはないでしょう。法律が国会をつくるのではなく、国会が法律をつくります。自然法則が神様をつくるのではなく、神様が自然法則をつくります。奇跡があるから神様が信じられないというのではなく、神様がいるなら奇跡があっても不思議ではない、むしろ当たり前だ、と考えた方がより論理的ではないでしょうか。
さて、このように書きますと、聖書は奇跡の記事でいっぱいかのような印象をお持ちになったかもしれませんが、実は聖書は、世の中の宗教の教典とは異なって、奇跡に対してかなり抑制的な態度をとっています。
イエス・キリストは、奇跡を求める時代を「悪い時代」であると非難し、またキリストの弟子であるパウロという人物も、宗教に囚われた人は奇跡を要求するが、自分はただ十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのだと手紙に書きました。
そして、聖書の奇跡は、人を驚かせたり、不思議なことを見せつけたりするために行われるのではなく、ただ人に対する神のみこころ……神が人を愛していること、人は罪(奇跡の記事にある病は、人の罪を象徴しています)を持っていること、人の罪の問題を解決するために、イエス・キリストが病(罪)を負われたこと、イエスを信じる者は、罪を許され永遠の命を持つこと……を示すために行われました。聖書の教えによれば、今の時代には奇跡は起こりません。なぜなら、かつて奇跡を通して示されてきた神様のみこころの全ては、今日、聖書の中に明瞭にまた詳しく示されているからです。聖書が完成している今日、人は神様のみこころを、奇跡を通して間接的に探る必要はありません。
今でも、クリスチャンの中には、奇跡を求める人がいるようです。しかし、たとえ病気が治ったとしても、いずれ死ぬべき私たちの人生の問題は少しも解決しません。全ての解決は、イエス・キリストと、このイエス・キリストを証しする聖書の中にあります。あなたも、聖書の中から神様のみこころを学んでみませんか。誰もが聖書を理解できます。
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