劇的な出会い?


Hさんのメール

私は「でも他のクリスチャンの様に劇的な出会いとか、感動とかいうものを感じた事がないんです。」と言いました。
そうすると「クリスチャンというのはバプテスマしてから育つのではありません。イエスを救い主と認めた時からクリスチャンなのです。だからといってバプテスマは必要ないのかというとそうではない。バプテスマによってさらに成長するのです。」
と、おっしゃって下さいました。

私はその言葉が今でも忘れる事ができません。
その言葉を聞いたときに神は「こんないい加減な私にもイエスは愛を与えて下さってるんだ。今のままの自分でいいんだ。」と思いすごく嬉しい気持ちでいっぱいになりました。


Hさんへのレス

読ませていただいて、わたしもすごく嬉しい気持ちでいっぱいになりました。

「劇的な出会いや感動」神話というものに苦しんでいる兄弟姉妹が実は多いのではないかと思います。
そして、その責任の多くは、福音を伝える伝道者の側にあるのではないかと思います。

キリスト教の「証し」の類の本を見ますと、感動的な出会いが多く書かれてあります。聖歌444番には、(福音書の物語を)「聞くたび、読むたび、こころ溶けゆき、感激の涙に目はくもるなり」と書いてあります。(歌っている人の目が実際に涙でくもっているのを、どれくらい見たことがあるでしょうか?)

人の性格は十把一絡げではありません、十人十色です。ある人は、信じるときにそのような感激を感じ、ある人は、そのような感激を感じることが全くありません。

ですから、「本当に信じているのならば、心に深い感激が湧くはずだ」などと称して、自分や他の兄弟姉妹を苦しめることのないように気をつけなければいけません。
救われること、キリスト者となることの唯一の条件は「信じること」であり、そしてその信仰に「劇的な出会いや感動」が不可欠であるとは、神の言葉(聖書)は一言も述べていません。

わたし自身に、劇的な経験がないわけではありません。しかし、ほとんどの場合、それを語りません。それは、神様の福音という、人間にとって最も大切で、それゆえに純粋に保たれ純粋に伝えられなければならないものに、神の言葉(聖書)からではなく私一人の経験から生じたことを付け加え、福音の内容を変えてしまったり、救いの門を狭めてしまったりすることのないためです。


第一コリント12章3節は、なぐさめに満ちた言葉です。

”ですから、わたしは、あなたがたに次のことを教えておきます。・・・聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません

文脈から言いますと、この言葉は、異言の賜物をもって信者の証とするような雰囲気のあったコリント教会の中で、異言を語れないで落胆していた信者に対して、

「そうではない! 聖霊を受けていることの証拠は、イエスを主と認めることである。聖霊がなければイエスを主と認めることはできないのだ。イエスを主と認める者は、異言の賜物があろうがなかろうが、聖霊を受けたものであり、神の喜びたもうキリスト者である」

と教えたのです。

賜物の問題に限らず、いろいろな問題が、真剣なクリスチャンの心を悩ませます。救いの喜びが感じられない、ある種の罪に陥りやすい、ある人を愛することができない・・・どれも幸いな状態ではないかもしれません、しかしどんな状態にあっても、イエスを主と認めることは聖霊によるのであり、イエスを主と認める者は神の喜びたもうキリスト者です。



関連して、最近話題の「信じる」ということについて、少し。

その昔、米国の某有名大衆伝道者の本を読んで、エライ目に遭ったことがありました。
クリスチャンとなって間もなかったわたしは、友人への証の目的で、その方の本を買い求めました。

まず神についての説明があり、次いで罪についての説明があり、そしてどうしたら救われるかということが説明されていました。
そして、彼の説明というのは、
(1)まず悔い改めであり、その悔い改めとは、@認識においてこうこう、A感情においてこうこう、B意志においてこうこうでなければならない。
そして(2)次に信仰が必要であり、信仰とは、@認識においてこうこう、A感情においてこうこう、B意志においてこうこうでなければならない。とありました。

救われたばかりの幼く、聖書もほとんど読んでいなかったわたしは完全に混乱してしまいました。わたしは、自分の不出来な内面(心)を使って、何とかして、2×3の合計6通りのプロセスをこなそうとしました。結果は哀れなものでした。その時分のわたしを思い起こすときに、もし今、「感激神話」や「悔い改め+信仰=2×3」というものに苦しんでいる方がおられるなら、少しでもお手伝いが出来たらと思います。


聖書の語るところは、その大衆伝道者の語るところと大いに違ってしごく単純です。

ヨハネ伝は

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが・・・イエスの御名によっていのちを得るためである」(20:31)

と書かれている通り、人がどのようにして、永遠のいのちを受けるかを詳しく詳しく語っています。

ローマ書とガラテヤ書は、人がどのようにして、神の前に義とされるかを詳しく詳しく語っています。

そして、人が救われる条件について詳しく語るヨハネ伝において、いのちを得る条件は「御子を信じる」ことであるとして、信仰について53回述べていますが、「信仰」そのものについての定義を述べません。

ローマ書とガラテヤ書において、人が義とされるのは「御子を信じる」ことであるとして、信仰について39回述べていますが、「信仰」そのものについての定義を述べません。

聖書は、人が救われるのは、信仰によると教えますが、どんな風に信じるのか、とか、どの程度信じなければならないのかということについては、一切語りません。聖書が語るのはただ「誰を(どなたを)信じるか」ということ、それだけです。信仰の様相や深さではなく、対象です。

信仰ということばには、種も仕掛けもありません。信仰は、私たちが日常行っていることです。私たちが、通勤通学の電車が「〇〇行きである」と、運転手を「信じる」のも、お金を預ける銀行を「信用する」のも、親友を「信頼する」のも、同じ信仰です。信仰それ自体に種や仕掛けや尊さがあるわけではありません。尊さがあるとすれば、それは私たちの持つ信仰ではなく、その信仰の対象である主イエス様です。対象が尊いからこそ、信仰が尊いのです。

この主イエス様を信じる者は、永遠に安全です。なぜなら、その信仰が素晴らしいからではなく、信仰の対象であるイエス様が素晴らしいからです。主イエス様が、その人の身代わりとなって死んで下さったからです。

ある人がおもしろい喩えを考えました。破産寸前の銀行に最大の信用をもって預金しても、お金はパーになります。資産状態良好の健全な銀行に、最小の信用をもってお金を預けてもお金は安全です。そして、その安全な銀行に最大の信用をもって預ける人と、最小の信用をもって預ける人は、同じように安全です。


もちろん、H兄の書いておられるとおり、救われた後の成長という、別の問題があります。
クリスチャンは成長するものです。「幼子」(1コリント3:1、ヘブル5:13)「肉に属する人」(1コリント3:1)から始まって、「信仰に始まり信仰に進ませ」(ロマ1:17)、御霊に属する人(1コリント3:1)に至ります。
その過程で、聖書をとおし、祈りをとおし、信仰生活をとおして、また神様の訓練をとおして、神への信頼(信仰)がますます深められる、強くされるという側面があります。しかし、それはまた別のお話です。


この前の投稿で書いたSir. Robert AndersonのTHE GOSPEL AND ITS MINISTRYを、出張中に読んでいて、「信仰」とか「悔い改め」という用語について、やはり同じ様な問題が取り上げられていました。
この本は1800年代に書かれた本ですが、「感動神話」の類は、現代の日本に限らず、昔から多くの兄姉の心を悩ませる問題であったようです。これらについて、著者は、一つ一つ聖書に基づいてていねいに説明を加えていました。わたしのへたな説明よりも、わかりやすく、また堅実なので、いつの日か、ホームページ上でご紹介したいと考えています。


朝起きて、一気に書き上げたので、言葉足らずなところや、わかりにくいところもあると思いますが、どうぞお許し下さい。

今日は主日ですね。愛する皆さんの上に、主様の恵み、祝福、お守りの豊かならんことをお祈りいたします。

[HOME]

[聖書館]

e−mail