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雲太和ニ京三

2010.5.16

”雲太和ニ京三”ってご存知ですか?
先日、大神(三輪)神社にお参りしたあと、思い出しました。
「雲太和ニ京三」
これは平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎)を元にしている。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


もう少し詳しい説明文を引用しますと…

出雲大社
現在の本殿は延享元年(1744年)に作られた。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。これは平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎)を元にしている。
16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もあるが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ない。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もある。
平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まった。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

平成12年の発掘調査の結果、巨大な柱跡がでてきたのは有名ですね!おおきく新聞にも載っていました。
平安時代の口遊(くちずさみ)は、事実であった可能性が…
やはり天皇家(天照大御神)は、大物主大神にかなり遠慮があったということなんでしょうね…

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