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2008.8.29 多賀大社参り
お伊勢さんを参ってからどうしても気になってました多賀大社…
本日お参りすることができました

御祭神
伊邪那岐大神 (いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神 (いざなみのおおかみ
)

つまり皇祖天照大御神、月読宮、そしてスサオノ命のご両親だけがお祭りされています。

下記説明文にもありますが、もともと本社東方の”杉坂山”が信仰の対象になっていたと想像されます。
つまり杉坂山が日本国の出発点になるのでしょうか?

  多賀大社は「寿命長寿」「縁むすび」の御霊徳高く、古くから「お多賀さん」と呼び親しまれた滋賀県第一の大社です。
多賀大社が文献にみえるのは、和銅5年(712年)に撰上された“古事記”で、「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」とあります。社伝によると、神代の昔、伊邪那岐大神は本社東方の杉坂山に降臨され、麓の栗栖(くるす)の里でお休みの後、多賀にお鎮まりになったと伝えています。古くから広く民衆の信仰をあつめ、ことに奈良・平安時代には公家の信仰篤く、鎌倉〜江戸時代には武家からの信仰も集め、その祈願文や寄進の品が多く残されています。
鎌倉時代から広まった神仏習合は明治初期まで続きますが、当社に於いても明応3年(1494)、天台宗の不動院が建立され、その後、観音院・般若院・成就院の社僧・坊人たちの活発な布教により多賀信仰が全国各地に広まりました。大正3年には、伊勢の天照大御神の御親神であることや崇敬が全国に及ぶ事から官幣大社に列格されました。
(多賀大社HPより)
 
   太閤秀吉が当社に寄せた信仰から、「太閤橋」とも呼んでいるが、実際は「太鼓橋」である。築造は、江戸初期寛永15年に徳川幕府の助成もあって、大僧正慈性によって本殿以下諸堂社の造営が行われた。「寛永年間多賀大社絵図并指地図」に「そり橋」も記載されていることから、この大造営の際に築造されたものである。この「そり橋」は神橋であって、例祭にはお神輿が渡られる。昭和7年の造営には、「そり橋」の附近が改修され現在に至っている。お多賀さんの表玄関にふさわしい重厚な橋である。
平成3年11月吉日 多賀町教育委員会 (看板説明文より)


また多賀大社のすぐそばには、日本で唯一の三蔵法師である霊仙が使僧として訪れた安養寺があります。

霊仙(りょうせん、759年? - 827年?)は、平安時代前期の法相宗の僧。出自については不明であるが、近江国の出身とも阿波国出身とも伝えられる。霊船・霊宣・霊仙三蔵とも称される。日本で唯一の三蔵法師である。興福寺に学び、804年(延暦23年)、45歳で入唐した。最澄・空海と同じ遣唐使である。長安で学び、810年(弘仁元年)醴泉寺(れいせんじ)でカシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受・訳語(おさ)をつとめた。811年(弘仁2年)に三蔵の号を与えられる。時の唐の皇帝憲宗は仏教の熱心な保護者であり、霊仙も寵愛を受けて大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて五台山に移る。825年(天長2年)淳和天皇から渤海の僧貞素に託された黄金を受け取り、その返礼として仏舎利や経典を貞素に託して日本に届けさせた。日本側は貞素の労苦を労うとともに霊仙への追加の黄金の送付を依頼し、また日本に残された霊仙の弟妹に阿波国の稲千束を支給するように計らった。その後、828年(天長5年)までの間に没したようで、一説によれば霊境寺の浴室院で毒殺されたという。 唐に渡ってから死ぬまで日本の地を踏むことはなかった。840年(開成5年)7〜8月、霊境寺に立ち寄った円仁が、入唐留学僧霊仙の最期の様子を聞いている。また、円行・常暁が入唐した際には霊仙の門人であった僧侶から手厚く遇されて霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて日本に持ち帰ったという。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

  安養寺
この安養寺は神護景雲3年(789)に、
霊仙山上に建っていた霊仙寺の支院として創造され、
霊仙三蔵が使僧として訪れていた一千二百有余年の歴史ある古刹 である。
(看板説明文より)


このお寺のすぐそばには”河内の風穴”という天然記念物に指定されている鍾乳洞もあり…
多賀町というところは、謎めいた場所であるのは間違いないようです。

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