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七福神

2010.05.23

七福神ってご存知ですよね!宝船にのったおめでたい神様!では、その神様の名前は?
大黒さま、恵比寿さま、弁天さま、毘沙門天さま…

七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神である。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

恵比寿:古くは「大漁追福」の漁業の神であり時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす、商業や農業の神となった。

・日本古来の神(漁業の神・市神・福神)としての変遷
現在では一般に七福神の一員として日本古来の唯一(その他はインドや中国由来)の福の神であるが、それは中世以降の信仰で、由来をたどると非常に複雑な経緯を持つ。「えびす」を称する神は複数あって、イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされることが多い。そのため、えびすを祀る神社でも祀られる神は必ずしも同一ではない。また少数であるが、えびすを少彦名神や彦火火出見尊とすることもある。

・外来の神(客神・門客神・蕃神)としての変遷
様々な記紀神話の神に当てられるえびすだが、いずれの神も後世の付会であって、元来の姿ではない。えびすの漢字に戎や夷などが当てられている事は、中央政府が地方のまつろわぬ民や東国の者を「えみし」や「えびす」と呼んで、戎や夷の字を当てたのと同じことで、いずれも異邦の者を意味する。「えびす」という神名の文献における初見は平安時代後期の『伊呂波字類抄』であるが、そこには「夷 エビス 毘沙門」と記されている。少し時代が下った『諸社禁忌』には「衣毘須 不動」とある。古い時代、えびすは毘沙門天や不動明王を本地仏とする神格として信仰されていたことがわかる。えびすの神像も古い時代のものほど威厳に満ちたものとなっており、この時代のえびすは「荒々しい神」として信仰されていたものとみられる。端的にいえば記紀神話以外の外来神・蕃神である。
・クジラ(海神・漁業の神)としての変遷
本来の神格は異邦より村に時たま訪れる外来物に対する信仰(神)であり、海の向こうからやってくる海神である。日本各地の漁村では近年までイルカやクジラやジンベエザメなど(これらをまとめてクジラの意味である「いさな」と呼ぶ)を「えびす」とも呼んで、現在でも漁業神として祀っている地域も多数ある。クジラなどの海洋生物をえびすと呼んだ理由としては、それらの生物は餌となる小魚群やプランクトン群を追うところ、人間の漁獲対象であるカツオなどの魚もしばしば同じ餌を追って行動を共にしている点にあるのではないかと推測される。つまり、クジラなどが出現すると漁獲対象魚も一緒に出現する相関関係があるため、クジラが豊漁をもたらしてくれると理解されていたのではないかと考えられる。
・寄り神信仰(漂着神)
主に漂着したクジラを指し、古くは流れ鯨・寄り鯨(座礁鯨)といった。予期せぬクジラの到来により、思わぬ副収入を地域が得たり、飢饉から救われたという話が数多くあり、「鯨 寄れば 七浦潤す」「鯨 寄れば 七浦賑わう」などといわれ、日本各地で似たような話が伝承されているが、特に能登半島や佐渡島や三浦半島で、寄り神信仰として残っている。特殊な例として、海外からの漂着物(生き物の遺骸なども含む)のことを「えびす」と呼ぶ地域もあり、漁のときに漂着物を拾うと大漁になるという信仰もあるという。漁業に使う網の浮きに神が宿り正月などに祀る地域があるが、四国の宇和島周辺や隠岐などでは、その浮きのことを「えびすあば」(あばとは浮きのこと)と呼んでおり、えびすが漁業神であることを示す好例である。九州南部には、漁期の初めに海中からえびすの御神体とするための石を拾ってくるという風習があるという。これらの民俗信仰は、えびすの本来の性格を比較的とどめているものと考えられる。

●大黒天:インドのヒンドゥー教のシヴァ神と日本古来の大国主命の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。

・ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラは、インド密教に取り入れられた。“マハー”とは(もしくは偉大なる)、“カーラ”とはあるいは(暗黒)を意味するので大黒天と名づく。あるいは大暗黒天とも漢訳される。その名の通り、青黒い身体に憤怒相をした護法善神である。密教の伝来とともに、日本にも伝わった。日本で大黒天といえば一般的には神田明神の大黒天(大国天)像に代表されるように神道の大国主と神仏習合した日本独自の神をさすことが多い。

・日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためである。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話(大国主の神話#根の国訪問を参照)から、鼠が大黒天の使いであるとされる。


●毘沙門天:元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神で、これが仏教の神のヴァイシュラヴァナ(多聞天)になり日本では毘沙門天と呼ばれる。

・インド神話の財宝神クベーラを前身とする。 ヴァイシュラヴァナという称号は本来「ヴィシュラヴァス (vizravas) 神の息子」という意味で、彼の父親の名に由来するが、「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため、多聞天(たもんてん)とも訳される。日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。

・その姿には様々な表現があるが(後述)、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。持物は宝塔が一般的。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。 例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。 ただし、東大寺戒壇堂の四天王像では右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている(奈良當麻寺でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている)。インドにおいては財宝神とされ、戦闘的イメージは殆ど無かった。この頃の性格についてはクベーラの項を参照の事。中央アジアを経て中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになった。そして帝釈天の配下として、仏の住む世界を支える須弥山の北方、水精埵の天敬城に住み、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち北倶盧洲(ほっくるしゅう)を守護するとされる。また、夜叉や羅刹といった鬼神を配下とする。また、密教においては十二天の一尊で北方を守護するとされる。また日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、特に勝負事に利益ありとして崇められる。


●弁才天 (弁財天):七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。七福神の一柱としては「弁財天」と表記されることが多い。

・弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の1つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では「才」が「財」の音に通じることから財宝神としての性格が付与され、「弁財天」と表記する場合も多い。弁天とも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂弁天社などと称されることが多い。本来、仏教の尊格だが、日本では神道の神とも見なされ、七福神の一員である。仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがある。また、宗像三女神と同一視されることも多く、古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神またはイチキシマヒメを祭っているところが多い。

●福禄寿:道教の宋の道士または、道教の神で南極星の化身の老子である寿老人の別名または同一神とされる。

福禄寿(ふくろくじゅ)は、七福神の一つ。道教で強く希求される3種の願い、すなわち幸福(現代日本語でいう漠然とした幸福全般のことではなく血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものである。宋の道士天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもある。 福禄人(ふくろくじん)とも言われる。

●寿老人:道教の神で南極星の化身の老子。

寿老人(じゅろうじん)は道教の神仙(神)。中国の伝説上の人物。南極老人星(カノープス)の化身でもある。真言(サンスクリット)は、オン バザラユセイ ソワカ(普賢菩薩の延命呪と同じ)。 酒を好み頭が長く、白髪で赤い顔をした長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から(猩猩が入る)はずされたこともあった。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている。

●布袋:唐の末期の明州に実在したといわれる仏教の僧。

布袋(ほてい)は、唐末の明州(現在の中国浙江省)に実在したとされる伝説的な僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では七福神の一柱として信仰されている。
本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。四明県の出身という説もあるが、出身地も俗姓も不明である。図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである大きな袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという。
雪の中で横になっていても布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかった、あるいは人の吉凶を言い当てたなどという類の逸話が伝えられる。彼が残した偈文に「弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、云々」という句があったことから、実は布袋は弥勒の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。
その最期についても不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類している。天復年間(9世紀末)に奉川県で亡くなり埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたというのである。その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある。
なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である。10世紀後半に記された『宋高僧伝』巻21「感通篇」に立てられた「唐明州奉化県釈契此」(布袋)の伝には、彼と禅との関係について一切触れていない。布袋と禅宗の関係が見られるのは、時代が下がって11世紀初頭、『景徳傳燈録』巻27に「禅門達者雖不出世有名於時者」として、梁の宝誌や、天台智顗、寒山拾得らの異僧・高僧たちと共に、「明州布袋和尚」として立伝される頃からのことである。

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