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奈良町 元興寺

2010.2.14

”がごじ(がごぜ)”という言葉をきいたことがありますか?
辞書によると…
がごぜ:《昔、奈良の元興寺(がんごうじ)の鐘楼に鬼が出たという伝説から》鬼。また、鬼のような顔をして子供を脅すときに言う語。
この元興寺にお参りするため、奈良まで散歩に行ってきました。
今年は遷都1300周年。奈良は活気がありますね!たくさんの観光客を確認することができました。
時間がなかったので本日は、奈良町周辺だけですが、ブラブラしてきました。
また日を改めましてゆっくりと奈良は歩きたいですね…


◎猿沢池

 
猿沢池の七不思議


昔々から猿沢池には不思議ないい伝えがあります。
「澄まず濁らず出ず入らず
  蛙はわかず藻は生えず
     魚が七分に水三分」
                       看板説明文より 

◎奈良町
こどものころ散歩したことがあるのですが、あまり記憶に残っていません。
もっと暗くて寂しい印象がありました。
でも今はきれいに整理されて、散歩していても楽しかったです。
最後のお店は中谷堂…あの高速餅つきで有名なお店です。もちろん草餅、買って帰りました(笑)。

   
   

◎元興寺
元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は次の2つの寺院に分かれている。
和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」、平城京の方の寺を「元興寺」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

   重文 東門
この門は鎌倉時代の建物として雄大な気風と、すぐれた意匠を持つ四脚門である。もと東大寺西南院にあった門を、元興寺の極楽坊正門として応永18年(1411)この場所に移築されたものである。東門の設置により極楽坊本堂を中心とする一画が元興寺旧伽藍から独立した中世寺院として再生したことをしめしている。
(看板説明文より)
   国宝 極楽坊本堂
(極楽堂または曼荼羅堂)
この堂は元興寺東室南階大坊(僧坊)の一部であり、本邦浄土六祖の第一祖である智光法師が感得した浄土曼荼羅を本尊とし寄棟造に大改築された極楽本堂である。極楽堂、曼荼羅堂とも呼ばれ、智光の住坊が前身という。古来浄土発祥の聖堂として名高く、内部柱に念仏講の寄進文がある。堂の外観は寛元2年(1244)改修時の姿であるが、内陣に奈良時代僧坊の身舎部を残し、西流れの屋根に見る行基葦古瓦は当寺の前身飛鳥寺から移建の際に運ばれたものである。
(看板説明文より)
   国宝 極楽坊禅室(僧坊)
この堂は元興寺東室南階大坊の四房分が残った僧坊で、禅室とも呼ばれ、念仏道場として著名であった。鎌倉時代に改築され大仏様式の手法を軒廻りによく残している。主要な構造部材及び礎石は奈良時代の創建当初のものが今も用いられている。奈良時代の官大寺僧坊遺構を伝え、内部の間取りに奈良ー鎌倉時代僧坊のおもかげをよく残す貴重なものである。本堂と同様に南流れの屋根の一部に行基葦古瓦が残る。古瓦には最古の丸瓦、平瓦を含め飛鳥時代から奈良時代のものも伝世している。
(看板説明文より)

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