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2011.2.12
敏馬(みぬめ)神社:神戸市灘区岩屋

醸造担当だったときにたくさんの商品をつくりましたが、その中の一つに「敏馬の浦」(山田錦45%精白、生?純米大吟醸)があります。数多くに見られる香りだけを主張している商品ではなく、味にも十分にこだわった(香りはひかえめ)の大吟醸を造ってきました。その商品名の由来が「敏馬(みぬめ)」という地名です。はずかしながら、神社前はいつも素通りでした(すみません)。お参りしていろいろ勉強になりました。

   
 @拝殿  A万葉集(柿本人麻呂)

敏馬神社(みぬめじんじゃ)は、神戸市灘区岩屋中町にある神社。式内社で、旧社格は県社。敏馬は、古く、?売、美奴売、三犬女、見宿女等の文字で書かれることもあった。
現在は素盞嗚尊を主祭神とし、天照皇大神・熊野坐神を配祀しており、江戸時代までは「牛頭天皇」と称していた。
本来の祭神はミヌメ神(美奴売神・敏馬神)であった。ミヌメ神はその神名から水神の弥都波能売神と同神とみられ、現在では境内社の水神社に弥都波能売神が祀られている。閼伽井あるいは三犬女清水と呼ばれる井戸がある。この女神の名を、敏馬とする説が有力。他に、柿本人麻呂の歌「玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎へ 舟近づきぬ」からの発想であろうか、藻塩を製造する時に使用する海松(ミル)からとする説もある。
『摂津国風土記』逸文に当社創建に関する記述がある。神功皇后が新羅征伐に出発する際、川辺郡神前松原(現在尼崎市の神崎もしくは豊中)で戦勝祈願したとき、猪名川上流の能勢の美奴売山(大阪府豊能郡三草山)の神が来て、美奴売山の杉の木を切って船を作れば必ず勝利すると告げた。その通りにして勝利を納めた帰途、古代には南に突き出した岬となっていた当地の沖で船が動かなくなり、船上で占いをするとこれは美奴売山の神の意志であるとわかったので、そこに美奴売神を祀ったという。これはある程度史実を伝えている模様で、住吉大社神代記にも猪名川の女神と武庫川の女神が住吉大神の気を引くために、互いに競ったことが記されている。摂津国風土記逸文に、豊受大神が丹波国に遷座する前は、摂津国稲倉山(所在不明)に居たことが記されているが、この稲倉山は猪名川上流域(豊能郡?)にあったのではないかとの説がある。
延喜式の玄蕃寮の項には、特に、新羅より賓客が来朝したとき、生田神社で醸した酒を、当地にてふるまったことが見える。難波の鴻臚館でも酒をふるまっているので、当地で酒をふるまうことは一種の儀式だった。延喜式神名帳では「摂津国八部郡 ?売神社」と記載され、小社に列している。
都から現在の大阪を経て、西国に船で向かうときの最初の宿泊港であり、西国から都に戻る時、大和を意識させる生駒山などが見え出す地でもあることから、柿本人麻呂、大伴旅人、田辺福麻呂はじめ、多くの歌人によって、和歌が当地で詠まれた。江戸時代には、俳人の与謝蕪村も兵庫の北風家に立ち寄る途中、度々訪れている。西国街道(浜街道)に面していたので、様々な遊戯施設が設けられ、陸からも、海からも、参拝者が訪れ、賑やかであった。
明治6年(1873年)8月に村社に列格し、昭和5年9月に県社に昇格した。昭和20年6月5日、戦災により社殿を焼失し、昭和27年に再建された。
本殿のある丘の下に湧水があったが、阪神・淡路大震災で涸れてしまった。
縁切りの神古来より、この神社の前を、離縁を恐れて花嫁行列は通らない。女神が嫉妬するからだと言われているが、縁切りでも有名で、様々な縁切の方法が伝えられている。   フリー百科事典 Wikipedia より

写真A 玉藻かる 敏馬をすぎて 夏草の 野島の崎に 舟ちかづきぬ

◎「古代の敏馬の泊と敏馬神社」他 パンフレットより 
    敏馬神社 宮司 花木直彦 

(1)「敏馬神社」の読み方は、「みぬめ」?「みるめ」?
世間では「みるめ」と呼んでいますが、正しくは「みぬめ」と読みます。古代には美奴売、美奴面、見宿女、三犬女などとも書かれています。日本に漢字が伝わると、漢字の音を当てはめ記したと考えられます。古い言葉・地名です。

(2)「敏馬神社」は、いつごろ創建されたのでしょうか?
奈良時代(8世紀)の「摂津風土記」に”神功皇后が、朝鮮出兵に先立ち、神前松原(今の神崎川)で神様のお集めになり占ったところ、能勢の美奴売山(今の三草山)の神様のお告げにより、美奴売山の杉の木で船を造って出兵したところ大勝利を収められた。ご帰還の際にこの地で船が動かなくなり、再び占い問うと「神の御心なり」と。よって美奴売山の神様をこの地におまつりし、船も献上した”と当社の縁起が記されています。この記述から推測すると、201年のご創建で、平成23年でご鎮座1810年となります。平安時代(10世紀)編纂された「延喜式」にも「生田、長田、敏馬」と記載され(延喜式に登録された神社を、式内社といい、格式の高い神社)市内最古の神社の一つでもあります。ご祭神は素盞嗚尊、天照皇大神・熊野座大神の三柱です。

(3)なぜ「敏馬」が、全国に知られているのですか?「敏馬の泊(とまり)」の話
@日本最初の和歌集「万葉集」に敏馬を詠んだ和歌が9首もあり、大和地方以外で、こんなに多く詠まれた場所は、大変珍しいと言われています。
※玉藻かる 敏馬をすぎて 夏草の 野島の崎に 舟ちかづきぬ (柿本人麻呂) 以下省略…
A万葉の和歌から分かるように、神社の東側に、大和時代・奈良時代(5〜8世紀)「敏馬の泊(とまり)」という全国的に知れ渡った港がありました。
当時の都は、大和の飛鳥地方にあり、都人が文化の高い中国(遣隋使、遣唐使ら)や朝鮮・九州へ行く時、当時は日中しか航海できず、浪速津から船出し、敏馬の港で一泊しました。また「新羅人が来朝すると、生田社で醸した酒を敏馬でたまう」とあり、都へ入るための「けがれを祓う」また「饗宴・もてなしする」性格をもつ港でもありました。日本で最も古い国際港でした。
Bなぜ「敏馬」に関して多くの歌が詠まれたのですか?
航海技術未熟な当時、大陸への航海は全く死と隣り合わせで、大変な勇気と覚悟とひたむきな向上心がなければ旅立てなかったのです。その彼らが旅立つ時、畿内の一番西端ある敏馬の港は、ふるさと大和近くの生駒連山を望める最後の港であり、また帰還の際は、懐かしい生駒連山を望める最初の港であったと考えられます。故に、敏馬の神様を讃える和歌を詠み、航海安全を祈って旅立って行かれました。
C奈良時代の中頃より、港は「敏馬」より「大輪田(兵庫)」へ移ります。その後、「敏馬」は歴史上どのように登場するのですか?
平安時代以降は、白妙青松の美しい海岸「敏馬の浦」として都人の称賛する所で、「みぬめ」の地名と「見ぬ眼」を掛け詞にして、多くの有名な歌人が和歌を詠み讃えました。藤原定家(百人一首撰者)兼好法師(徒然草作者)らを始め、現代では谷崎潤一郎、冨田砕花まで50首余あります。
また明治時代以降、外国人や大学のボートハウス・料亭・芝居小屋・花街などがあり、海水浴場としても賑わいました。
Dでは、「敏馬の浦」は、いつころなくなったのですか?
昭和6年頃より、阪神電車の岩屋〜元町間のトンネル工事の残土で、敏馬の浜は順次埋め立てられ、財閥鈴木商店の子会社の神戸製鋼所の工場となり、60年間神戸のの産業を支えてきました。しかし、阪神淡路大震災で工場は撤退し、HAT神戸として大きく変貌しました。

(4)敏馬神社近くに、今一つ万葉集に登場する所があると聞きましたが?
神社の東500Mにある「西求女塚(もとめづか)」です。国指定の史跡で、全長98Mの前方後方墳で、当時の豪族の墓です。発掘調査により三角縁神獣鏡7面(重文)が出土、3世紀後半の築造と確認されました。灘の海岸沿いには、等間隔で3つの古墳があり、この古墳関して高橋虫麻呂、田邊福麻呂が「万葉集」に、下記の内容の悲恋物語の歌を詠んでいます。「この地に住む一人の大変美しい乙女(あしやうないのおとめ)に、二人の青年(うないのおとこ、ちぬのおとこ)が熱心に求婚。美しい乙女をえるため、二人の青年は互いに武器を取り争う。乙女は苦しみ「とるにたらない私のために、立派な青年が争うのは見るに忍びない。黄泉の国でお待ちしましょう」と自ら命を絶ってしまう。二人の青年もあとを追って自殺。親類の人達は、この悲恋を後世まで語り継ごうとして、三つの墓を造った」
この物語は、平安時代の「大和物語」、室町時代の謡曲「求塚」、明治時代の森鴎外の小説「生田川」にも語られています。あとの二つの墓は、”処女塚(おとめづか)”阪神石屋川駅南西200M ”東求女塚”阪神住吉駅北側

(5)江戸時代に、神社前を「西国街道」が通っていたとききましたが?
@西国街道とは、京都から九州へ行く道。芦屋付近から2本に分かれ、海岸線を通る浜街道(庶民の道、神社前)と今の国道2号撰にあたる本街道(参勤交代の道)がありました。この2本の道は、生田神社前で合流しました。当時は浜街道沿いに発展し、特に大石・御影周辺に民家が集中し、灘で一番賑やかな所でした。

A灘といえば「灘の生一本」で有名です。六甲山の南に位置する灘地方は、米を精白する六甲山麓の水車の存在、酒造に適した宮水、丹波杜氏に代表される豊かな労働力、輸送に適した海岸などの諸条件に恵まれたため、江戸時代中頃(18世紀)より酒造業が繁栄しました。氏子地の岩屋・味泥・大石は、新在家とともに灘五郷の一つ西郷(にしごう)に属し、酒造家、江戸へ酒を運ぶ樽廻船業者が多数存在しました。当社にも樽廻船業者の奉納した6基の灯籠・航海安全を祈願し奉納した樽廻船絵馬14篇(神戸市有形民族文化財指定、17〜18世紀)が保存されています。また当社の御旅所住吉神社(大石南町)の西隣に、沢の鶴資料館があります。灘五郷とは、西郷・御影郷・魚崎郷・今津郷・西宮郷。
B江戸時代、資産家の酒造・廻船業家を頼り多くの文人がこの地に訪れました。有名な人は、俳人の与謝蕪村とその弟子達でしょう。
灘の景色を見て 「菜の花や 月は東に 日は西に」 「畑打ちに 眼をはなれずよ 摩耶ヶ岳」
須磨の海を見て 「春の海 ひねもすのたり のたりかな」
彼の有名な弟子、呉春 「いわし曳く 網をはじめて 敏馬かな」
           大魯 「広沢は いかに敏馬の 月清し」
当地にも優れた多くの俳人(松岡士川・士巧)が輩出し、当社に彼らの奉納した俳諧絵馬(天明年間・18世紀)が保存されています。

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