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岩清水八幡宮散策

娘の夏休みの宿題(社会:地域巡検レポート)をネタにしております(笑)
岩清水八幡宮さんへは、京阪八幡市駅下車、表参道約40分(ケーブル:15分)くらいです。
(Mapは:八幡市観光協会HPより)

       
 @岩清水八幡宮本殿  A2009.5.3浅野温子
「日本神話への誘い」
 B南総門  Cエジソン記念碑

写真@ 岩清水八幡宮
男山山頂にある石清水八幡宮は、応神天皇、比メ大神、神功皇后をまつる旧官幣大社である。八幡宮の遷座以前は、男山山中から湧き出る清泉を神としてまつっていた。
859年(貞観元年)、奈良大安寺の僧、行教が、九州・豊前国の宇佐八幡で「吾れ深く汝が修善に感応す。敢えて忍忘する可からず。須らく近都に移座し国家を鎮護せん」との八幡大菩薩の神託をうけた。その後、平安京に向かう行教が山崎離宮(大山崎町)で、再び「王城鎮護のため、男山に祀るように」との神託があった。行教はこのことを朝廷に報告。時の清和天皇の命を承け、木工寮権允橘良基が宇佐宮に准じて、正殿三宇、礼殿三宇からなる神殿六宇の造営に着手し、翌860年(貞観2年)4月3日に「石清水八幡宮」は鎮座した。
以来、朝廷の崇敬を得て、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟と崇められ、源氏もまた八幡神を氏神として仰いだため、八幡信仰は全国に流布した。なかでも、源義家は7歳にして石清水八幡宮において元服、「八幡太郎義家」と名乗り、源氏一門を隆昌に導いた。(八幡市観光協会HPより)

神宮皇后、応神天皇は日本書紀などでも有名ですよね。よくわからないのが比メ大神…
宇佐八幡のHPによると、天照大御神(あまてらすおおみかみ)素戔嗚尊(すさのうのみこと)のウケヒによってあらわれ、素戔嗚尊の劔を物実(ものざね)としたとあります。
(ウケヒ:占いのこと?、物実(ものざね):物事のもとになるもの)
またあの有名な”卑弥呼”ではないかとう説もあるようです…やはりよくわかりません(笑)

・黄金の樋(おうごんのとい)
石清水八幡宮が所蔵する数多くの宝物の中にあって、特に際だっているのが本殿に架かる黄金の樋である。この樋は、八幡造りといわれる外殿と内殿の谷にかかっており、その大きさは長さ21.6メートル、外径0.6メートル、深さ0.21メートルで、厚さは実に3センチメートルもある。
『信長公記』には、石清水八幡宮の黄金の樋について次のようなことが書かれている。
「天正7年(1579)12月10日、信長公は山崎に陣を移し、翌11、12の2日間は雨天のため京都山崎の宝積寺に滞在していた。そのとき、石清水八幡宮の内殿と外殿との間には昔から木製の樋が架かっていたが、それが朽ち腐って雨が漏り、損壊寸前であり難儀していることを聞き、早速、造営を決めた。天正8年(1580)3月、仮遷宮があって、ほどなく社頭・神殿の屋根をふき終え、築地・楼門の工事もすみ、金ぱくや七宝をちりばめ、わずか9か月で、造営をすべて終えた。」 信長はこのあと、正遷宮に訪れ、武運長久と家門繁栄を祈ったという。(八幡市観光協会HPより)
・目貫の猿(めぬきのさる)
石清水八幡宮の現社殿は寛永8年(1631)から寛永11年(1634)にかけて三代将軍徳川家光の造営によるもので、楼門、舞殿、幣殿、外殿、正殿、回廊からなっており、すべて重要文化財に指定されている。楼門は、入母屋造り、桧皮葺で、左右に回廊を出して外囲いを作り、前方に唐破風の向拝(ごはい)をつけた珍しい建築である。また、本殿は八幡造りといわれる建築様式で、外陣(外殿)と内陣(正殿)とに分かち、三間社を一間づつあけて1棟とする「11間社八幡造り」の形になっている。
建築の細部にわたって、極彩色の華麗な桃山風透かし彫りが多数施されており、その数は152点にも及ぶ。そのほとんどは花鳥などをモチーフにしたものである。
特に西門上にある蟇股(かえるまた)と呼ばれる部分の彫刻は「目貫きの猿」と呼ばれている。これは、あまりにも彫刻が見事なため、猿に生命が宿り、夜な夜な社殿を抜け出してはいたずらをした。そこで、これを封じるために右目に細い釘を刺し逃げ出さないようにしたという伝承が残っている。(八幡市観光協会HPより)


上記の2つの写真を撮りたかったのですが、本殿内部にあり、また撮影禁止の案内もありましたので断念しました。

・本殿裏には、 摂社若宮社(御祭神  「仁徳天皇」):これは応神天皇の息子さんですよね。
          摂社若宮殿社(御祭神 「応神天皇の皇女(名前は不明)」…これがよくわからない…なんで不明なの???
写真A 浅野温子語り舞台「日本神話への誘い」の時の写真です。
古事記より「ヤマタのおろちースサノオの悔恨と成長ー」「天つ神の御子、地上の国へー高天の原から遣われし者たちの声ー天孫降臨」そして「はちまんさま」のお話がありました。
写真B 南総門(特に説明はございません(笑)
写真C エジソン記念碑
1879年にトーマス・アルバ・エジソンが灯火の革命ともいえる炭素白熱電球を発明しこの岩清水八幡宮境内に生えている竹が電球の命ともいえるフィラメントの材料として最も適していることを知り、電球発明の翌年から十数年もの永い間この竹を使ってたくさんの炭素電球を造り世界の人々に電灯のありがたさを知らされました。つまり、この八幡の竹が炭素発熱電球の実用化に大きな役目をつとめたのです。(看板説明文より)

       
 D三ノ鳥居  E岩清水社  F松花堂跡(碑)  G二ノ鳥居

写真D 三ノ鳥居
現在われわれが目にする三ノ鳥居が建てられたのは、昭和37年12月、今からわずか40年ほど前のことです。それ以前、ここには江戸時代に建てられた石造鳥居がありましたが、昭和36年9月16日午後1時55分、当地を直撃した第二室戸台風により、一瞬にして倒壊してしまったのです。倒壊した元の三ノ鳥居は、他の鳥居と同様、古くは木造でしたが、江戸時代前期に相次いで石造鳥居に改められたものです。一ノ鳥居は寛永13年(1636)、ニノ鳥居は同19年(1642)、三ノ鳥居は正保2年(1645)建立。ただし、この三ノ鳥居は、安永3年(1774)に昭和度と同じように大風で倒れ、同7年に再建されたものであったといいます(『男山考古録』による)。:(岩清水八幡宮HPより)

写真E 岩清水社
岩清水八幡宮は、もともと男山山中から湧き出る清泉を神として祀ったのが起こりと伝え、平安時代の貞観年間(859〜876)に奈良大安寺の僧行教が神託により宇佐八幡神を勧請し、岩清水八幡宮と称したことに始まります。岩清水社は、岩清水八幡宮の摂社の一つで、天御中主命(あまのみなかぬしのみこと)を祀っています。現在も岩間から清水が湧き出しており、社前の鳥居は寛永12年(1636)京都所司代板倉重宗が寄進したものです。(看板説明文より)
天御中主命:古事記では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている。その後高御産巣日神神産巣日神が現れ、すぐに姿を隠したとしている。この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)という。ウィキペディア(Wikipedia)より

つまり859年(貞観元年)に八幡宮が鎮座されるまで、この男山ではこの清泉を神として祀っていたということです。しかし、なんでここのお社には天御中主命が祀られているのか、わかったようなそうでないような…(笑)

写真F 松花堂跡(碑)
江戸時代前期の文化人松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)が晩年庵を結んで隠棲した跡地で、その庵の建物は明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で撤去されましたが、現在、八幡市松花堂庭園の一画に茅葺宝形(かやぶきほうぎょう)造りの茶室松花堂等が移築されています。松花堂昭乗は、真言宗の学僧で、小堀遠州や近衛信尋、沢庵宗彭(たくあん漬の考案者?)などと交遊を結び、書や画を能くし、茶人としても著名です。寛永三筆の一人に数えられ、松花堂流(滝本流)の開祖となりました。(看板説明文より)

 写真G 二ノ鳥居
裏参道の坂道が太子坂(奉行坂)と呼ばれたのに対し、表参道の坂は、古来「大坂」と称されていました。表参道は、大雑把に言うと一ノ鳥居〜ニノ鳥居が下院、ニノ鳥居〜三ノ鳥居が上下両院を結ぶ大坂、三ノ鳥居から先が上院というふうに分けられます。すなわちニノ鳥居は、下院の平坦な道が終わり、ここから大坂道に入るという、その境目の位置に立っているわけです。現在のニノ鳥居は、寛永19年(1642)、それまで木造であったものを石造に改めたもので、高さ約8.5メートル(四間四尺)、柱間約5.7メートル(三間八寸)あり、これは高さ約9メートル(四間五尺七寸)、柱間6.6メートル(三間三尺七寸)の一ノ鳥居に比べ、全体に一回り小さいです。:(岩清水八幡宮HPより)

       
 H一ノ鳥居  I高良(こうら)神社  J航海記念塔  K杉山谷不動尊

写真H 一ノ鳥居
室町将軍の足利義満は参詣の際、この一ノ鳥居前で牛車を降り、本殿に向かった。木造りによる鳥居の建立は、たびたび行われた。応永8年(1401)の造り替え時は、9月21日に山崎八王寺で二本の杉を伐り、24日、大勢の人夫によって宿院河原へ運ばれた。10月7日に2本の柱を立て、19日に笠木が上げられて、21日にようやく完成した。また、鳥居の造り替えのための材木料や人夫の特別徴収が行われたため、応永29年(1422)には大山崎離宮八幡の神人が、社務所の坊舎へ押し寄せ、乱闘になったと『看聞御記』は伝えている。鳥居は、元和元年(1615)に木造りで建てられたのを最後に、寛永13年(1636)に寛永の三筆とうたわれた松花堂昭乗の発案によって石造りに改められた。鳥居の額は、平安時代に書道の名人とうたわれた藤原行成が一条天皇の勅願により書いたもので、「八幡宮」の「八」の字は、鳩の姿を形どってあるといわれている。石造りに改められた折、松花堂昭乗が行成の筆跡をそのまま書き写したものであり、惣胴板張りに金字で現されている。(八幡市観光協会HPより)

写真I 高良(こうら)神社
石清水八幡宮の麓の頓宮横にあり、行教律師が建立した神殿の跡に鎮座している。もとは、河原社と称し、馬場先本道を挟んでその前方を流れる放生川の側にあった。貞観3年(861)に行教によって建立された古い神社である。同社は慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いによって消失してしまったが、明治15年(1882)に再建された。
高良神社の有名な逸話として、元徳3年(1331)、兼好法師が著した徒然草に見ることができる。「ある日、仁和寺の和尚が石清水八幡宮を詣でようと訪れ、極楽寺、高良神社を詣でた。参詣を済ませ、さて帰ろうとしたとき、人々は山頂をめざして階段を登っていく。何だろうと思ったが、私は今回の旅の目的である石清水八幡宮に参詣を済ませたのだからと帰ってしまった。後で石清水八幡宮が山頂にあることを知って、どんな小さなことでも、案内人は必要だと痛感した」というものだ。石清水八幡宮は遷座当初から国家、皇室、さらに武家の守護神として尊崇されてきたためか、もっぱら地域の人々が心のよりどころにした氏神は「高良神社」であった。(八幡市観光協会HPより)
毎年7月中旬に行われる八幡の「太鼓祭り」は、この高良神社のお祭りです。

写真J 航海記念塔
京阪八幡市駅から南へ5分程いくと、神応寺総門の左にある大きな五輪石塔が「航海記念塔」である。
この五輪石塔は重要文化財に指定されており、高さは6.08m、幅2.44mに及ぶ日本最大規模のもので、下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪という。五輪石塔は、石清水八幡宮の宮寺だった旧極楽寺の境内に建立されたものであるが、寺は廃寺となって、この石塔だけが残った。石塔建立の起源や作者は不明だが、石塔にまつわる多くの言い伝えが残されている。
八幡神を九州の宇佐八幡宮から勧請した大安寺の僧、行教の墓だといわれているが、口碑によれば平安時代の末期に摂津国、尼崎の豪商が入宋貿易帰途の海上で 大シケにあい、石清水八幡宮に祈り無事に帰国できたことを感謝し、1171〜1174年の承安年間に建立したものと伝えられている。以後、船乗りたちが航 海の無事を祈願に訪れるようになったことから「航海記念塔」と呼ばれるようになった。
また、鎌倉時代末期のこと、1274年と文永の役と1281年の弘安の役の蒙古襲来に際して西大寺の僧、叡尊が石清水八幡宮で祈ったところ、神風が吹いて 元軍が敗れ去り、叡尊は彼等の供養をするため建立したともいう。この五輪石塔の巨石を積み上げる際、石工が金テコを使ったところ、石の間から火が噴き出し た。そこで八幡の竹を使って無事完成したという。(八幡市観光協会HPより)

写真K 杉山谷不動尊
八幡宮頓宮西側の谷道を登り詰めたところにある。谷不動ともいわれ、「厄除け不動」として人々に信仰されている。
平安時代の初期、危害を加える悪鬼が出没し、人々を悩ませていた。たまたま、諸国を行脚中の弘法大師(空海)がこの話を聞き、法力によって悪鬼を封じた。そして、一刀三礼により不動明王を刻んで安置し、諸人を護ったという。
また、一説には八幡神を男山に勧請した行教律師が男山の鎮守として建立したともいわれている。
その本堂には、悪魔降伏のために憤怒の形相をした不動明王(杉山谷不動の秘仏となっている)が座し、両脇には善悪を掌るコンガラ、制咤迦(せいたか) の2童子が控えている。不動堂の横を流れる谷川には、霊泉瀧(ひきめの瀧ともいう)があり、静寂のなかに清らかな水音を聞くことができる。(八幡市観光協会HPより)

まだまだおもしろい所がたくさんあるのですが、これくらいで夏休みの宿題は十分でしょう(笑)
いったんおきますが、いずれまた…

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