Takoyakiatama'HP

愛宕山(愛宕神社)

JR保津峡→水尾の里→愛宕山(神社)→清里→松尾大社

2010.9.19

運動不足で、無事登山できるか心配でしたが、何とかお参りすることができました。約10年ぶりです。
清里ルートが一般に知られていますが、本日は柚子で有名な水尾ルートを歩いてみました。
どちらのルートもしんどいです(笑)

   
 JR保津峡駅  保津峡(嵐山方面)
   
 水尾の里  柚子(の木)

○柚子の里 水尾
 水尾は、昔は山城と丹波の両国を結ぶ要所に当たり、早くから開けていたらしく、東の八瀬・大原に対し、西の水尾も大宮人には、よく知られていたようである。源氏の、ご祖先清和天皇は御退位後、水尾に住まわれ、この地を大変お気に召されて、ここを終えんの地と定められた。そのご遺詔により水尾山上に葬ったのが今の水尾山陵である。水尾には、千百余年の歴史や、風俗習慣が今も残っている。古老制(右家、左家)とか頭式祭、侯中式事等・・・又、鎌倉初期から庶民の間に広まった盆行事の一つである「盆灯籠」も、現在も続けられて水尾円覚寺で行われ、灯籠建てが終ると、この灯籠の前で六斉念仏が始まる。六斉が行われるのも決して、お盆だけでなく、供養念仏、門念仏にも出かけ、山里の生活にとけこんでいる。又水尾は山林が大部分で、耕地は少ないが、風土が適しているのか、栽培法が良いのか、各種の果樹が繁茂し、柚子、梅、柿、びわ、山椒、南天等四季を通じて産出したが、現在は、柚子と梅が特産物とされている。柚子風呂は、輪切りにした柚子を二、三十個木綿の袋に入れて、湯舟に浮かべ入浴する。これは古くは、聖武天皇が冬至の賀に始められ、身を清め邪気を払い、心身共に清浄化すると云われている。今では十数戸の家で、予約制であるが、入れてもらえる。
うつくしき、山あり、水あり、人のあり
また訪ねみん、柚子の里
平成十六年十月 水尾地域振興委員会(看板説明文より)

     
 水尾の別れ  黒門  ようやく到着しました

愛宕神社、京都市右京区の神社である。山城・丹波国境の愛宕山(標高924メートル)山頂にある。旧社格は府社。全国約900社の愛宕神社の総本社である。旧称阿多古神社、通称 愛宕さん。
古くより比叡山と共に信仰を集めた。古くから火伏せ・防火に霊験のある神社として知られる。3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。また、上方落語では「愛宕山」「いらちの愛宕詣り」という噺が存在する。
火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は殆どと言ってよいほど京都の家庭の台所に貼られており、飲食店の厨房や会社の茶室などにも貼られていることが多い。
大宝年間(701年-704年)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって創建され、天応元年(781年)に慶俊僧都、和気清麻呂によって中興され、愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺を建立したと伝える。9世紀には神仏習合の修験道の道場となっており、本殿に愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現在の若宮)に愛宕山の天狗の太郎坊を祀っていた。
平安時代に近衛天皇が亡くなった後に、院政を行っていた鳥羽法皇が天皇の甥である重仁親王を擁立しようとしたところ、親王の父である崇徳上皇が藤原頼長に命じて愛宕神社で呪詛を行わせて天皇を呪い殺したという噂が広まり、これに激怒した法皇は重仁親王の代わりに後白河天皇を即位させ、これがきっかけに保元の乱が発生したとされている。
1582年(天正10年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため籤を引き、3度の凶の後、4度目に吉を引いたという。翌日、同神社で連歌の会を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めたものとされる。
明治の神仏分離により白雲寺(勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊があった)は廃絶されて愛宕神社となった。勝軍地蔵は京都市西京区大原野の金蔵寺に移された。1881年(明治14年)に府社に列格した。第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。
明治期には参詣道の途中にいくつか茶店があり、休憩する者や名物の土器(かわらけ)投げで賑わったという。また、茶店では疲れた客への甘味として、しん粉 (うるち米の粉を練って作った団子) が振舞われていた。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

   
 京都市内方面  清滝登山口(一の鳥居)

○愛宕神社と愛宕山

「おのぼりやす」「おくだりやす」 七月三十一日から八月一日にかけて愛宕山は大勢の参拝客で、にぎわう。「千日詣」である。 俗に「お伊勢七度 熊野へ三度 愛宕さんへは月詣り」といわれているが、この日にお参りすると、千日分のご利益があるといわれから、こう呼ばれるようになった。千日詣のもうひとつのいわれは、三歳までの幼児がこの日お参りすると、一生火難にあわないということ。この伝説は今も続き、幼児を背負って、参拝する父親の姿をよく見かける。愛宕山は、京都西北の聳える霊山である。京都の周辺では、ひときわ突き出た峻峰で、標高九百二十四米。東の比叡山と相対し、比叡山は八百四十八米で、愛宕山がわずかに高い。
二山にはおもしろい話が伝わっている。
昔、比叡山と愛宕山が喧嘩した際に、比叡山が愛宕山を殴った。殴られた愛宕山には、こぶができ、この分だけ愛宕山が高くなったと云われている。
愛宕神社は昔も今も、しきみの枝を神花とし、参拝者に授与されている。月参りの総代は、これを受けて帰り、町内各戸へ配り、神棚に供えて防火を祈る。もし出火した場合には、即刻神前へ参って、お詫びするという風習が今も続いている。
古代は、枝葉が繁茂する常磐木をすべて「栄え木」(さかき)といっていたが、その中でしきみは芳香があって、四季に芽を出すので、「四季芽」(しきみ)といい、芽出度い木とされていたので、愛宕神社繁栄の神の神花とされたと云われている。平成十六年十月 水尾地域振興委員会(看板説明文より)

     
 渡月橋(嵐山)  嵐山から見た愛宕山  松尾大社

清滝からバスに乗り、嵐山までおりてきました。
松尾さんまで足をのばし、平成22年酒造年度の安全醸造をお願いしてきました。

散歩道メニューへ戻る
ホームページへ戻る