私 の 電 脳 史
若い方はご存じないようですが、われわれロートルは
パソコンの使用には苦労したものなのです。
お暇な方は私の記録をお読み下さい。


(1)1973年頃(昭和48年)−大型コンピュータの時代−
 私がコンピュータとつきあい始めたのは昭和48年頃でした。その頃大学の研究室で、時々、学会演題の統計処理を手伝っていました。当時は計算尺か手回しの機械式計算機を使っていましたのでとても時間がかかり、計算 ミスも多いので大変でした。そこで本学の電算センターの大型コンピュータを使えばもう少し早く正確に出来るだろうということになり、使い方を研修することになりました。

 その頃は現在と違いキーボードからタイプしてディスプレイに表示するなどということは出来ず、データとプログラムを記録するための穴の開いたカードを作る、それを電算機にかけるという作業が必要でした。カードにパンチする機械が統計学教室にあり、出かけていっては打ち込む作業をしていました。
 
その上、現在のようにソフトウエアはありませんのでそれも自前で作るという状況でした。学会の直前に戻ってきた結果がプログラムミスで作業不能ということがあり、冷や汗をかいたことが幾度かありました。…その頃のプログラム言語のフォートランは数字の定義が厳格で小数点以下の設定を間違うと計算してくれませんでした。
(2) 1975年頃(昭和50年)−電卓の時代
 研究室ではセイコ−の計算機を購入しましたが、とても大きく、スーパーのレジ位の大きさで、表示はニクロム線のようなもので上から0−9までの表示部分が積み重なっているものでした。この表示部分が断線して、数字が表示されなくなるというとんでもない計算機でした。

おまけに計算精度は悪く、桁数が多くなると演算不可能となりました。しかし、当時は現在の電卓と比べると桁違いの高価なものでした。その後キャノンから統計計算専用(ワープロを一回り小さくしたくらい)の電卓を購入した先生がおられ、それを時々使わせてもらいました。

その計算機も液晶表示部分はなく、レジのように打ち込んだデータが紙に印字されるというタイプでした。しかしその後1−2年で有名なカシオの電卓が破格の値段で発売されセイコーの計算機はゴミ扱いとなりました。
(3)1976年頃(昭和51年)−ミニコン時代
 その頃から呼吸生理学という分野が盛んになるようになり、呼気ガス分析を行うようになりました。現在では酸素消費量も即座に計算されますが、当時は複雑な計算を電卓で行っていました。ですから計算間違いが起こり2−3回はやり直さなければなりませんでした。

昭和50年頃、統計学教室にオリベッティ(あのタイプライタで有名なフランスのオリベッティ社です)のミニコン(ミニコンピュータ)がおかれていました。それでこれを使って計算をやらせようということになりました。しかしこのコンピュータはなかなかの難物で、大型コンピュータに使われているのはフォートランという高級言語でしたが、このコンピュータにはもっと低級言語が使われていました。

記録にはJRの定期券を3枚くらいつなぎあわせた位の大きさの磁気カードを使用し、自動改札機のようなものに入れて読み込ませていました。実際に使ってみるとデータを打ち込むと一発で結果がプリントされ感激しました。

しかし、このミニコンも計算能力は少しは向上したとは言えカシオの電卓以下で桁数が多くなると精度が落ちてしまい、とんでもない計算結果が出てびっくりすることもありました。依然としてソフトは売られておらず、自分でプログラムを作らなければならない時代でした。

その後、キャノンのミニコンが購入されました。これがまた小型で、オリベッティの3分の1くらい、現在のオアシス・ワープロ3台分くらいの大きさでした。これで統計学教室へ出向かなくてもよくなりました。このミニコンは当時としては珍しいサーマルプリンタを内蔵していました。
シャープのプログラム電卓PC-1300 \99500-
(3) 1978年頃(昭和53年)−プログラム電卓からパソコンへ
 昭和53年頃から呼吸機能検査を手伝うことになりました。しかし、その当時のスパイロメータはドラム(正式にはベルといいます)を逆さまにして水の中にいれたもので、その動きをペンで記録し、それを物差しで測って温度補正係数を掛けて算出するという作業が必要でした。
 そのころシャープがプログラム電卓(記憶装置として20mm×70mmくらいの磁気テープの付いたプラスッチク性の板を手動で差し込んで使用)というのを売り出しましたので早速それを購入し、計算作業はかなり短縮されました。しかし、このプログラム電卓もソフトは自分で作らなければならないという状況は変わりませんでした。 このプログラム言語はBASICに近い言語になっていましたので、プログラミングには手間はかかりませんでした。
 
BASICと言う言葉はBeginner's All‐purpose Symbolic Instruction Codeの略で、 BASICは基本的という意味にも当てはまりますし、ほんとうにうまいネーミングです、言語形態はフォートランに似ており、プログラミングは楽でした。

 BASICで動くというコモドール社のPET2001(モニターがあってキーボードがある)というというパソコンが発売され、さっそく購入できることになりました。付属のテープレコーダでプログラムやデータを入出力するという、なんとも原始的なやり方をしていました。その後、5インチのフロッピイディスクドライブを購入されやっとパソコンらしい形になりました。
  
 しかし輸入品なのでマニュアルは英文で書かれていまして、辞書片手に訳さなければなりませんでした。しかも辞書に適当な訳がない言葉が出てきて困りました。今でも思い出しますが、シークエンシャルファイル(sequential:継続的な.)とランダムファイル(random:手当り次第)という意味がまったく分かりませんでした。

 PETはBASIC言語で動かせるという、当時としては非常に進んだパソコンでした。これを作ったコモドール社は多国籍企業でが安い部品を世界各地から取り寄せていました、内部を見ると台湾日本などいろんな会社の部品が使われていました。かし現在その会社名を見かけることはなくなりました、数年前日本橋の電気屋で安物の時計にコモドールという名前を見かけたことがありました。残念ながら一流のコンピュータ企業にはなれなかったようです。

 これを使って呼吸機能の計算は数分で済み、検査結果も印刷出来て、おまけにデータの自動解析まで行えるようになりました。3年間くらいフルに働いてもらいました。その当時の解析プログラムは現在でも業者に依頼して現在ののオートスパイロ内で使用されています。(ただしC言語で書かれているそうで、私には内容が分かりません)

 しかしPETの能力はひどいもので、名簿を200人ばかりソートを行わせたら一晩かかっても終わりませんでした。マニュアルにgarbage collectionのため作業に時間がかかるという記述がありましたが、またこの意味が分からず頭を悩ませることになりました。

 後日、雑誌でこのことが書かれてありまして、この当時のコンピュータは現在ほどメモリが多くなく、作業が進行するに従い、記録する部分が減ってくる、丁度黒板と同じでいっぱいになったら消さなければ次の言葉が書けないのでした。それでメモリのゴミ掃除をして書き込める部分を作る、これをgarbage collection(ゴミ掃除)というのでした。そのガーベージコレクションに時間がかかっていたので、フリーズしたわけではなかったのです。

・・最近、HP620LXを買いましたが、そのメモリー管理がこんな形になっているのでなつかしく感じました。
なんと驚くなかれPETの5インチフロッピードライブが28万円したのです。信じられないでしょう。当時、個人では到底手がでない金額です
(4) 1980年頃(昭和55年)−8001,8801から9801時代へ
 NECからPC8001が発売され早速購入することになり、コモドール社のPETはその座を譲ることになりました。いよいよパソコンという言葉が本格的に使われる時代になりました。

 BASICもほぼ完璧なものになり実用的なソフトも発売されるようになりました。この頃、電子カルテなどという、当時としては誇大妄想的なことが論文に発表されていました。そこでこれが自前で出来ないものかと考え、あまり分かっていないBASIC言語を使ってプログラム化を行いました。

 カルテというのは無理なので退院サマリーを目標とすることにしました。なんとか出来上がりましたが、当時はまだ現在のFEP(フロントエンドプロッセッサー:ワープロの漢字変換部分だけと考えていただければよいと思います)がないためローマ字かカタカナでしか入力できず、入力には手間がかかりました。

 昭和59年にそれについて学会雑誌に投稿しましたが、レフリーの某先生が『まったくコンピュータのことは解らん。2−3文献をつけたら採用しましょう』とのことで掲載してもらいました。当時のコンピュータについての認識はこんな程度でした。
(5) 1985年頃(昭和60年)−BASICからMSDOSへ
 NECも9801の時代に入り、みなさまご存じのワープロ一太郎(昭和60年発売)が登場しました。これにはBASICと違うOS(operation soft−基本ソフト)MSDOSが採用されていました。

 NHKの特集によるとMSDOSは、マイクロソフト社のビルゲイツさんが作ったのではなく他の開発者から買収して改変したのが事実のようです。MSDOSはmicrosoft disk operating systemの略で要するにフロッピーディスクをコントロールする基本ソフトということです。当時は確かにディスクを操作する事自体が大仕事であったことは事実です。

 BASICではプログラムとデータをすべてコンピュータに読み込ませないと動作しませんでした。(現在では改善されています)MSDOSでは必要な部分だけデイスクから読み込むという、効率の良い方法が取り入れられており、こちらの方にユーザーの軍配が上がるのは当然の結果でした。

 一太郎の前に管理工学研究所(現在でも桐という和製データベースを発売しています)の『松』というワープロソフトがありましたが、BASIC上で動いていることと、漢字変換がいまいちということで一太郎に軍配があがりました。

…当時の一太郎には珍しい自動変換機能というのがあり、入力すると自動的に漢字変換されました。・・・
使わなかったが幻の名器シャープの『MZ80K』
(6)1987年頃(昭和62年)−表計算ソフトとデータベース
データを整理するならデータベースソフトがよいとの助言をもらい、dBASE(ディー・ベース)というソフトを紹介されました。日本製では上記の桐というのがありましたが、カード型で形式が変更が出来ないのが難点で、結局dBASE を使うことになりました。

dBASE は少し操作が複雑なのであまり人気はなかったのですがいようですが、BASICをかじったものには扱いやすいアプリケーション開発言語がついていました。−−現在、データベースにはファイルメーカーを使っています。プログラミング(マクロと言うのでしょうか?)が簡単に出来るので楽です。ただし、プログラミングには多少不満はありますが、アクセスに比べ設定項目が少なく楽です。

dBASE Winもありますが、プログラミングが煩雑で使用を断念しました。やはりとうしろが使えるものでなければだめです。

−−−−−その頃有名だったソフトにロータス123がありました、それ以前はマルチプランというのを使っていました・・後に知ったのですが、これはマイクロソフト社が作ったソフトでした・・・というのがありました、いわゆる表計算ソフトといわれるものです。データを表にしたり、集計したり、グラフ化したりするもので使われた方も多いと思います。

しかし、現在では再度マイクロソフト社のエクセルにその座を奪われつつあるようで、ソフト業界の厳しさを見せつけられる現状です。現在、集計にはほとんどエクセルを使っています。これには統計用のプログラムも付属しており、t検定もあっと言う間にでき、昭和48年当時を考えると夢のようです。

統計処理で思い出すのは東大医学部の学生が開発したSTAX(現在はFISHERという名前になっています)というソフトがありました。いろんな統計処理が出来て便利なものでした。エクセル以前にはよく使ったものです。
(7)1989年頃(昭和63年)−ラップトップの時代
 この頃から小型のコンピュータが出現し、9801nを使うようになりました。当時、こういうタイプのパソコンはノート型とはいわずラップトップ(膝置き型)と言われていました。
それを使って処方データの整理を行うことにしました。その理由の一つは当時病院ではレセコンが導入されておらず、手書きで処方箋を作成していました。そのため、手首が痛くなることがありました。このソフトも自前でdBASEを使って作成しました。

 思いの外うまく動き、データベースの有用性を再認識しました。とてもBASICを使っていたのでは出来ない作業でした。これで少しはオートメ化され処方箋はDOで前回と同じものが打ち出せ、手書きによる手首の負担は解消されました。この後9801nは4年間ほどフル稼働してもらうことになりました。
(8)1994年頃(平成6年)−DOS/Vの台頭
 その頃新しいOS(operating system)の出現がありました。ウィンドウズです、まだ動きは不十分でしたが、98でもDOS/V機でも共通に同じソフトが使えるというメリットがありました。

−−現在はリンゴWINでほぼ問題は解決されています

−−−しかし、以前からあるマッキントシュ(マック)と比べると貧弱なものでした。マックに乗り換えてもよいのですが、マックは価格が高いことと、以前の98用データが使えないことから、DOS/VのWindows31を使うことになりました。
当時、私も値段の安さに負けて98からコンパック社のDOS/V機に乗り換えました。・・・現在も50MBのメモリ、pentium90MHZオーバードライブで現役で動いています。   値段の割には優秀な機械です。・・・・
(9)1995年(平成7年)−ウインドウズ95の出現
 マッキントッシュが平成6年より使用できるようになり、スライド作成に多大な威力を発揮しています。しかし、時々ご機嫌が悪くなり、ダウン(フリーズ)してしまいます。皮肉にも修理の人が来ると正常に動作する、こまった機械でした。

先輩諸氏に聞くとマックがおかしくなったらリセットするのではなく、電源を切って冷やしておくと治ることがあると教えてもらいました。…本当でしょうか??

 スライド作成についてはピカいちで重宝していますが、ワープロと表計算はバージョンがWindowsに比べ古く、あまり使い勝手が良くないのが現状です。また爆弾マークが時々でてフリーズしてしまいます。学会前や、データをかなり入れた後、爆弾マークが出ると本当に悲惨です。疲れがどっとでてしまい、がっくり来てしまいます。

 Windows はよくマックのものまねと悪口を言われますが、しかし95年に発売されたWindows95はマックの欠点であるフリーズをよく解消していることは注目に値します。
 
 またマックは内部をいじくれない、ハードウエアの変更・追加が難しい、値段が高い、その点DOS/V機は安く、周辺機器も多く、それらを購入し内部増設を簡単に行えるのが最大のメリットです。いじくった後、動くかどうかというこの緊張感がまたおもしろいと思います。実際動いた時は感動ものです。

*)最近教えてもらったのですが、裏で動くソフト、アフターダーク、ノートンなどを入れるとおかしくなると指摘されました。パワーポイントでスライド撮影するとフリーズ、あるいはフイルムに一本腺が入るトラブルがあり、その原因がこれらのソフトが裏で動いていることに起因しているとのことでした。
(7) 1996年(平成8年)−インターネットの時代
 当方もインターネットなるものを始めましたが、とにかく設定が面倒で手こずらされました。最近は設定が自動化されたり、はじめからセットされたパソコンもあり随分楽になっているようです。
 
 以前からパソコン通信をやっていましたが、いまいちおもしろみがないというのが感想でした。インターネットでホワイトハウスに一発でつながり大統領のメッセージや写真が出て来た時には感激したものです。

 ただ問題なのは英語の記載が多く、読むのがいやになってしまうことです。翻訳ソフトなるものを入れてみましたが、なんとも分からない訳で自分で辞書を引いた方がましという状況です。(宣伝にだまされた!)
 
 現在、かなり役にたっているのは文献検索が出来るMEDLINEで、無料で英語文献の検索が行え、要約(一部は全部)まで調べさせてくれます。検索は4−5回やれば慣れてうまくやれるようになりました、検索はかなりのスピードです。しかし日本語文献検索は出来ない残念です。

(8)1997年(平成9年)−イントラネットの時代
 平成8年の正月休みに家にある古い98機と最新のFMV機(DOS/V)をイーサネットなるもので接続してみました。雑誌にはなんだか難しいことが書いてありましたが、マニュアル通りにやれば、あっけなく成功しました。
 
しかし、たった5mくらい離れた部屋の2台のコンピュータをつないで何がおもしろいのかといわれると返答のしようがないのですが、10年前にはプロでもうまくやれなかったことが素人にいとも簡単に実現できたことに驚きを感じています。

 ただ、初期のもくろみであった相手方コンピュータのプログラムを起動するのはだめで、ファイルとプリンタの共有だけだったのは残念でした。サーバー機能と勘違いしていたいたようでした。

*)平成11年4月、コンピュータを入れ替えたので再度LANを構築、今回は相手方のプログラムも起動可能であった。???

Win98になってずいぶん設定が楽になった。かなりの進歩…・
(9)終わりに
以上、勝手なことをとめどなく書かせていただきました、年代などに少し記憶違いもあるかとも思いますが、ご容赦ください。

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