<汲沢・戸塚 聞きかじり>
毎日多くのお客様にお話を伺いながら商売をしていると、昔のお話が出てきます
その話を書き留めてみました。
仕事をしながらで、うろ覚えで、正確ではありませんが話のネタになれば幸です
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汲沢の名の起こり

汲沢の三叉路のほうに川があり、茱萸(ぐみ)の木が生えていてそこから茱萸沢となったそうです
江戸時代の参勤交代があると、近郷近在から農家の人がお手伝いに出たそうです。
そのとき、手伝いに出た人の名を 茱萸沢村の○○と記入していたのですが、簡単に書けるように今の汲沢という字を使ったそうです。汲沢の宝寿院にそのときの書付が残っているそうです。しかし、私は確認しておりません
戸塚競馬場

県営汲沢団地のところに昭和26年まで競馬場がありました。
第2時世界戦争が終わってアメリカ軍が進駐してきて、戸塚駅東口にあった競馬場をPXとして使用したので、その代わりに移転してきたそうです。
戸塚高校のグランドが観客席でした。今でもグランドと団地と地面の高さが違うのは、その為だと思います。戸塚高校のグランドと校舎の間の崖はもっと急で90度に近かったと思います。その崖に3つほどだと思うのですが防空壕がありました。子供の頃探検と称して穴にもぐりこみに行きました。蝙蝠はいなかったが虫は結構いたような気がします
汲沢5軒衆

代々汲沢には森・角守・石井・高村・三橋の5軒の家があったそうです。
汲沢の神社は伍霊神社といい、他の御霊神社は御霊と書きこの五軒衆と関係があるそうです
東海道53次の松並木はもっとジグザグだった
大坂上から吹上までの松並木は、今でもS字カーブがきついが昭和の初期ころまではもっとジグザグで、大坂上で上り線側(下り線側は谷崖)、それから下り線に入り、又上り線側と今の松並木を挟んでジグザグだったそうです。当時は藤沢と戸塚間の乗り合いバスはT型の幌付き5人乗りで乗車客はあまりいなかったようです