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   大地の父

 「自閉症」児大地から学ばされたこと

目次 

自閉症について

「障害」は社会がつくる

「ハンセン病訴訟判決」報道などから感じたこと

大地を通してみる「学校」

なぜ学校の体育では「整列」から教えるのか

なぜ子供を分けようとするのか。

札幌・共に育つ教育を進める会

入学の頃(ともにそだつ6月号掲載)

「願望」から「確信」へ(ともにそだつ7・8月号掲載)

全国交流集会に参加して(ともにそだつ 9月号掲載)

「教研集会」で感じたこと(ともにそだつ 11月号掲載)

DPI札幌プレ大会に参加して(ともにそだつ 12月号掲載)


「自閉症」について

   「自閉」という言葉を聞いてどんな印象をもたれますか。一般に使われる「自閉的」という言葉は、非常に暗く自分の部屋に閉じこもって出てこない、というイメージがあり、「自閉症」児というとそういう子どもと思われる方がいると思いますが、事実は全く異なっています。
 また、「自閉症」は親の育て方が悪いために発病するという説も、今ではすっかり否定されています。
詳しい説明は他の方のホームページを見ていただきたいと思いますが、我が家の「自閉症児」大地は、他の多くの子どもと少し変わった感覚を持っています。思考回路も少し変わっています。そして何より自分に正直です。自分の意思の表現方法も少し変わっていますから、理解には少し「慣れ」が必要です。理解してくれる人が少ない場所では「自閉症」は「障害」と呼ばれます。
 ですから、家の中では大地は「自閉症児」ではあっても「障害」児ではありません。外に出るとき「自閉症」がハンディ(障害)になります。

 

「障害」は社会がつくる

 私は「障害者」あるいは「障害を持つ人」という言い方が好きではありません。 というのは、「障害」というのは絶対的なものではなく、社会によってつくられた相対的なものだと考えるからです。本人が障害を「持っている」のではなく、本人の状況が社会的にハンディキャップになっているということだと思います。

 事実として、「完全な人」と比べると、「障害者」と言われる人はなにかが欠落もしくは違っています。でも、眼鏡をかけている人を「障害者」と呼ばないわけですし、毛髪に不自由な人もそう言わないわけです。

 例えば、現在の日本が狩猟社会で眼鏡が発明されていないとすれば、視力右0.1、左0.03の私は明らかな「障害者」です。たまたま今の社会では、「障害者」と分類されていないだけです。境目は社会によってつくられているのです。

 大体「完全な人」というのはいるのでしょうか。もしいたとしてそれは「正しい」のでしょうか。すべてが「完全である」社会が「良い社会」なのでしょうか。一人一人違っていて当たり前。それぞれの多様性が認められる社会のほうが暮らしやすいと私は考えます。

 ほかの人と違っているところが多い人は、この社会で生きていくためには、何らかのサポートが必要です。行政からサポートを受けようと思ったら「障害者」と名乗らなければなりません。そうしないとサポートが受けられないからです。だから、ほかの人と違っているところが多い人は、この社会では「障害者」と呼ばれます。

 

「ハンセン病訴訟判決」報道などから感じたこと

 先日ハンセン病訴訟の判決があり原告が勝訴しましたが、その関連の報道の中で、施設内での虐待、施設周辺や家族を取り巻く差別の実態が取り上げられ、「分離と隔離が差別を生む」ということが明らかにされています。

 「障害者」を取り巻く現状をみれば、「共生」「ノーマライゼーション」の方向に向かっていることは確かですが、まだまだ「障害者」はその専門の「施設」にいればいいという考え方がなくなった訳ではありません。「障害児教育」については、「その子にあった教育」の名目で分離して教育しようという考え方がまだまだ多数を占めています。「障害」がある子どもを持つ親の中には「『統合教育』の方が望ましいとは思うが条件が整備されない中では不安」と考えている方も多いようです。

 でも分離と隔離が差別・偏見・虐待を生むということは、何もハンセン病患者収容施設に限ったことではないと思います。

 統合教育に対する不安や条件面の不備などまだまだ不充分なことはあっても、「だから分離でもやむを得ない」と考えるのではなく、まず統合があって、その中で理解を求めていく方が「将来も社会の中で生きていく」為には必要であり、「楽な方法」だと私は思います。

※「楽な方法」:一度出来てしまった「常識」「偏見」を打ち破るのは大変です。最初から、自然に周知し、理解を求めて行く方がずっと簡単です。

 

大地を通してみる「学校」

 大地は1999年の4月から小学校に通っています。(現在3年生)大地を通じて「学校」を見ると、今まで気がつかなかった「学校の常識」「社会の常識」に気づかされます。

 なぜ学校の体育では「整列」から教えるのか

 「体育の時間は並ぶもの」長い間そう思ってきました。特に高校の体育ではしつこいぐらい最初は「整列」「番号」ばかりやりました。でも、実社会で、体育の時間のような「整列」が必要なときがあるでしょうか。実際保育園でも「整列」はしなくても何の不都合もなかったしないし、必要なときはそれなりに並んでいるわけです。並ばない(並べない)大地を見ると自分の「常識」が崩されていきます。
 

 なぜ子供を分けようとするのか。

 大地は地域の普通学級(「障害」に関わっていない人は「普通学級」とは言わない)に通っています。しかし、国の制度では「障害」を持った子どもは、「特殊教育」を受けることになっています。「子どものため」「子どもにあった」といいながら、本当は大人の都合が優先されているように思います。
 学校の先生も、「分ける」ことに不自然さを感じている人は少ないように感じます。「障害」に限らず、「成績」「言うことを聞く・聞かない」「男子・女子」さまざまなところで子どもたちは分けられます。子どもは本来仲間をわけません。分けるのは大人です。分けられると「分けるのが当然」という子どもも出てきます。でも子どもは不自然さも感じます。
 分けられた友達は、そのうち友達でなくなります。「無視」「排除」もでてくるでしょう。
 学校での「いじめ」「学級崩壊」も「分ける」「分けられる」ことに一つの原因があるように思えてきました。
 
 
 


札幌・共に育つ教育を進める会
 
  大地が5歳の頃から札幌・共に育つ教育を進める会に参加するようになり、同じような子を持つ方の話を聞いたり、就学をめぐっての話合いを行ってきました。
 ともに育つ会では、月一回の例会と会報の発行を行っています。今回原稿を頼まれたので、大地の入学の頃を思い出して書いてみました。
「ともにそだつ」6月号掲載

入学の頃

大地の父 

 子どもより親が緊張した入学式、大地はあっという間に有名人になった。
 並ばない、じっとしていられない大地は、自分の興味のあるものがあるとさっさとそちらに行ってしまう。入学式の日はそれがマイクだった。マイクには保育園の頃から興味を示し、「もしかしたら…」と思ってはいたが、新入生として入場した大地は、早速マイクを見つけ校長先生の挨拶の時もマイクのところにいって、戻されてもまた行って…
 
 こうして1日にして大地は、学校で知らない人のいない存在になった。
 入学後、一番大変だったのは担任の先生だったろう。ただでさえ言うことの聞かない入りたての一年生を扱っているのに、すぐ大地は教室から出ていって学校探検に行ってしまうのだから。理科室や、給食室に勝手に入り込み、机の上から飛び降りたり…。そこで総務の先生が危険だからと「監視」役としてつくようになった。
 教室から出ると、捕まえて連れ戻す。連れ戻してもまた、飛び出すの繰り返し。大地は追いかけられると逃げ、追いかけられるのをやめると、じっと追いかけられるのを待っていて、まるで鬼ごっこを楽しんでいるようだった。
 
 担任の先生が一番困惑していたのは、「怒っていいものか」「どんなしかり方をしたらいいのか」ということだったと思う。他の子もいる中で大地をどう扱ったらいいのか、だいぶ悩んで、毎日のように家に電話が来た。
 クラスの子どもたちは、自然に大地を受け止めたようだった。保育園から一緒の子は一人だけで、他の子が大地をどう思うのか心配もした。はじめのうちこそ、遅い、遅れる大地の世話を焼き、それがかえって大地にたたかれたりかじられたりしていたようだったが(そのたびに家に電話がかかってきた)、そのうち大地の扱いもわかってきたようだった。
 大人の方が、大地の理解に時間がかかっていたようだった。特に「大地担当」の総務の先生は、運動会の練習でも何とか大地を他の子と一緒に行動させようと、お遊戯(今は「表現」というらしい)の練習では、大地の手を取りみんなと一緒にあげたり下げたりしていた。大地は仕方なくされるままの「ロボット大地」になっていた。
 
 それでも、北野小学校には「その道のプロ」「専門家」がいなかったことが、幸いだったように思う。先生方も変に専門的な指導もしようとはせず、自然に大地のことをわかってきたように思う。
 入学前、私たちは学校に一定の「配慮」をもとめた。正直な話、配慮といってもなにをどう配慮するのか、私たちも具体的にはわからなかった。入学してみてどういう配慮が必要なのか、また不要なのかが、少しずつ見えてきた。子ども自身のみんなと一緒にやりたいという気持ちと、子ども集団の力を信じること、必要なのは「理解」であり、「援助」や「保護」ではないということ、それは「障害」のあるなしに関係なくどの子にも当てはまることではないだろうか。


「ともにそだつ」7・8月号掲載

「願望」から「確信」へ

 今でこそ「どんな子どもでも普通学級へ行くのが当たり前」と言いきれるが、自分の子どもが「自閉症」だとわかったときは多くの人と同様に「障害児=養護学校又は特殊学級」という固定概念に私もとらわれていた。「お兄ちゃんと同じ地域の学校に通わせたい」という願望はあったが、なにをして良いかわからなかった。
 
 少しでも子どもに良い影響があればと保育園に通わせるようになって、自分の「思いこみ」が次々と崩されていった。特別な方法でなく普通のやり方で「言葉がなくてもオムツはとれる」し、「専門家の療育・指導」がなくても「子ども集団の力」が意欲を引き出し、大人が分けなければ子どもは仲間を分けないこと。さまざまなことを学ぶ中で小学校は普通学級に入れたいという気持ちがますます強くなった。
 
 「学校・学級は親が選べる(希望が完全に通るかどうかは別にして)」「何もしなければ普通学級に入れる」ことを知った。「普通学級に行ける」ことがわかると同時に「勉強についていけるだろうか」「いじめられないだろうか」という「小学校に行ってからの不安」も生まれてきた。
 「何もしなければ普通学級に入れる」とはいっても何もしないのは不安だった。「就学相談」は就学してからの条件整備の相談ではなく、子どもを振り分ける場でしかなく、相談に行くと面倒な思いをしなければならないことはわかってので行かないと決めていた。しかし、学校には受入態勢を取ってもらうため事前に知らせておいたほうが良いのでは、と入学前の秋、のこのこと学校に出かけた。しかしそこでは就学相談を勧めるだけで早く行ってもなんの意味もないことを知らされただけだった。
 
 就学相談を勧める人や、「子どものためにはその子にあった教育が必要」「小人数でじっくり見てやったほうがこの子は伸びる」などアドバイスする人に対して「普通学級に行かせたい」という思いを伝えているうちに、自分の小学校時代のことを思い出した。
 小学校へ入学したとき、クラスには「頭の悪い子」がいた。「お勉強のできる子」だった私にとってそのクラスメイトは友達ではなくどちらかといえば「いやな存在」だった。でも同じクラスの「仲間」だった。2年生のときだったと思うが、その子が特殊学級に移ることになった。特殊学級に行ってしまうと、「仲間」であったことを忘れた。普段から無視し、遠ざけた。クラスの仲間といじめたこともあった。大人によって分けられたことで、自分とは異質な存在だと「安心して」差別していた。「交流」で時々その子が戻ってきてなにか一緒にやるとき、なんだかいやな気持ちになったことを思い出した。
 分けられると「仲間」ではなくなる、分けることが差別を作り出す。それを思い出してから、「手厚いケア」と「地域での生活」のメリット・デメリットを比較するのではなく、まず「分けないこと」を前提にしなければならないと確信をもって言えるようになった。
  
 確かに入学後の受け入れ体制を考えるといろいろ不安な面はあるが、「分ける」「分けられる」ことをやめることからはじめていきたい。
 

「ともにそだつ」9月号掲載

全国交流集会に参加して

 7月28,29日東京でおこなわれた「障害児を普通学校へ・全国連絡会第10回全国交流集会」に参加してきました。

 全体会の記念講演では、落合俊郎氏より「学校は未来の社会」であり「今の『別離』の姿が2030年後の社会の姿」という提起を受け、「障害児教育」だけでなく今進められようとしている「教育改革」についてもしっかりとみすえていく必要を感じました。

 分科会は第2分科会「学校とどうつきあうか」に参加しました。

 親の付き添いの要請。そこから支援制度を勝ち取ったところ。介助が付くために他の子との自然な関係ができにくいという問題。介助員がいても、「医療的行為」はできないと結局親が付き添わなければならない現状。「いるだけでいいんだろう」と必要な支援をされずほっておかれる。「お宅の子は世話されるだけの存在。ウサギと同じ」と学校から言われた。

出きるだけの世話をしたいという介助員のアルバイトをしている学生。介助は必要最低限でいいという親たち。二日間でさまざまな実態が出され、議論がされました。

 札幌では「介助員制度」はありません。就学にあたって親の付き添いを条件とされたり、「ほっておかれ」たりする例は数多くあるようです。また就学前にそういう話を聞き普通学級に通わせることに不安を感じる親も多いようです。私の子の場合は介助員は不要であり配置がなくて良かったと今はいえますが、入学前は「○○市は介助員が付くらしい」という話をうらやましく聞いていました。介助員が「その子の先生」になってしまい自然な関係作りが阻害されるという傾向はあっても、「制度として」介助員(教師の加配)がつくというのは札幌でも必要だと思います。(求めたときに必要なだけというのが望ましい)

 それ以前に「付き添いが強要され」たり「ほって置かれる」のは、障害児が普通学級に行くことが当たり前ではなく、「本来いるべきでない子」を「特例で入れてやっている」という「制度」「思想」「意識」から来ていると思うのです。学校のみならず親もそういう意識から抜け出せないことが多いようです。

 多くの障害を持った子どもが普通学級に通うことで、「普通学級に通うことが当たり前」という意識もひろがっています。(自分の子も通うことで周りの意識を変えてきたし、私自身も確信を持てるようになった)でも制度が「原則分離」である以上、あくまで特例であり「本来いるべきでない」という意識も再生産されていくし、「分離が当然」という考えに「お墨付き」が与えられていくのです。

 最後の全体会で大谷恭子さんが「原則統合」へ法制度の転換を図らなければならないと提起しましたが、「普通学級に通うのが当たり前」という意識を広げ、サポートを権利としてうけるためにも、具体的事例を解決する運動とともに、制度の転換を求める運動が必要だと感じ札幌に戻ってきました。


ともに育つ11月号掲載

「教研集会」で感じたこと

 札幌の教育研究集会にレポートを出したのがきっかけで、10月27、28日と北見市で行われた「第51次合同教育研究全道集会」参加してきました。26日の全体会には参加できなかったので「障害児の教育」という分科会への参加でした。

 この集会に参加するまで、私は「交流教育」というものを誤解していました。というのは、私の聞いていた交流教育は、「行事だけ」「給食だけ」「図工だけ」といった限られたものです。そして給食交流についても、きれいに、時間内に食べられる子しか参加できない、といったほかの子に迷惑がかからない範囲で「交流」するといった形だけのものだったです。

 ところが、全道教研の場で報告された交流教育は、程度の差はありますが「みんなと一緒にいる」ということの意味を評価し、かなり多くの授業を同じ場でうけているのです。その中で障害を持った子もクラスの仲間という意識ができているのです。学校の方針はともかく、教師みんなが「分けないほうがいい」と思っているわけではないので、見学など学校を離れる行事などでは、「分けたほうがいい」という教師と、「一緒に」という教師(報告者のことが多い)や、「なぜ分けるの」という子どもたちとの間に議論があったりするわけです。報告の中には「共同教育」と呼んで、朝から帰りまでのほとんどの時間を「協力学級」で過ごす例も報告されていて、同じ北海道でもずいぶん違うもんだと驚かされました。

 そういう実践の報告を聞く中で、いくつかの疑問が浮かびました。

 その一つは、そこまで一緒にやっているのに、なぜ「国語」と「算数」は別の場だったり、別課題だったりするのか。ということです。「ついていけないから」ということでしたが、本人に聞いてみたわけでもなく、また「ついていけない」子は他にもいるわけです。「分けない」教育をしているつもりでも、どこかに「分けることは当然・仕方がない」といった意識が残っているのだと感じます。

 また、どうして「特殊学級籍」なのか、ということです。このような交流教育が実践されている学校は小さな学校のことが多く、担任外の先生はほとんどいません。教員の加配を受けるためには現状では「特殊学級籍」にしなければならない、ということもあるのかも知れませんが、「籍」が別である限り校長次第、担任次第という不安定さは解消できないし、「分けるのが当たり前」という意識も払拭できないのではと思います。

 やはり、障害児教育を考えるときに、「普通学級」ってなんなんだ、という問題になります。「普通の生徒だから配慮はいらない、しない」のが今の普通学級です。「普通」の枠を狭いものに規定し、子どもをそこに合わせる、という仕組みなのです。配慮するためには「別枠」でなければならない、という制度です。

 それが、どんなに現実に対応できなくなっているかはみんな気付いています。だから文部科学省でさえも「チーム・ティーチング」だとか、「通級」だとか考えざるを得ないのです。しかし、本当に必要なのは、規格を作りそれに子どもを合わせるのではなく、子どもに合わせて学校を作るという、どの子にも必要な配慮をするという、制度・発想の転換です。「配慮」か「共に」かという究極の選択を強いられないようにするためにも、「普通学級での配慮」をあたり前にしていかなければと感じました。


ともにそだつ12月号掲載

DPI札幌プレ大会に参加して

 DPI(障害者インターナショナル)世界会議札幌大会を1年後にひかえ、11月3.4日に札幌プレ大会が開催されました。私はこの大会に教育分科会の進め方を検討する「教育プロジェクトチーム」として、また当日のパネリストとして参加することになりました。この文章は大会そのものの感想ではなく、プロジェクトに参加して感じたことです。

 1日目の全体でのシンポジウムや、2日目の分科会報告を聞いて感じたのは、「教育」以外の分野では、DPIそのものの方針だけでなく支援者や行政関係者も含めて、運動上の課題は一致しているということです。もちろん「障害」をどう考えるかとか、「権利」についての大本の考え方の違いはあるだろうし、個別具体的な細かいところでの運動の違い、解決へのアプローチの違いはあるはずです。けれども、施設から地域へ、隔離・保護ではなく地域での自立を目指すという方向性は一致しています。

 ところが、教育になると話は変わります。隔離・保護ではなくて「世間」の中で生きよう、困難があるならそれを変えていこう、「保護」ではなくて自己決定がいかされる「支援」を、という人でさえ「教育」になると、「子どもにかわいそうな思いはさせられない」「その子にあった教育は普通学級ではできない」と「分離・別学」を肯定してしまうのです。

 「教育」への関心は非常に高いものがあります。シンポジウムの参加者も、申しこみで70人以上、当日参加やスタッフを入れると100人は超えていただろうと思われます。しかし一致した運動となるとまだまだ課題が多すぎます。

 DPIの運動は明確に「分離・別学」を否定し「インクルージョン」を求めています。しかし、DPIの看板は掲げていても、教育プロジェクトチームは方向性すら一致できないところから出発しなければなりませんでした。それは、札幌の障害を持つ子の親と支援者の運動の現状です。

 そんなところから、スタートしたDPI教育プロジェクトチームですが、幾度も話し合いを続ける中で「どんな障害をもつ子も地域の普通学級で必要なサポートを受けて学ぶ」というインクルージョン教育を求めていくという方向が一致点として確認できました。また、アンケートでも「地域の学校」に行かせたいという多くの声や、「インクルージョン教育」への賛同を確認することができました。

 インクルージョン教育を考えていくと、「普通学級」のありかたそのものの問題になってきます。「一切の配慮をしない」という前提を変え、「普通学級での配慮」をあたり前にしていくことがインクルージョンの第1歩です。

 インクルージョンを唱える人の中には、「サポート体制」ができないうちはインクルージョンすべきでない、という人がいます。しかし、どんなサポートが本当に必要かは、実際に通おうとし、通ってみなければわからないのです。実際に車椅子で街へ出ることで、車椅子で移動しやすい街に少しずつ変えてきたように、実際に普通学級に通うことで、普通学級のあり方を問いかけ、そこを変えていくしかないと思います。

 札幌では、普通学級に通わせている親はまだまだ少数派です。相談できる人が身近にいない人もいます。「ともに育つ会」も、もっと多くの普通学級に通う親子を支援し、声を結集できる場にしていかなければならないと思います。


関連ホームページ
 

《生命・人間・社会》    「障害」問題の総合ホームページ。膨大なリンク集もあります。

じゃじゃ丸トンネル迷路  じゃじゃ丸自閉症研究所のホームページ

岡崎勝のページ        「おそい・はやい・ひくい・たかい」編集人のホームページ

障害児を普通学校へ!全国連絡会 

カサブーと共生・共学を考えよう        

 

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