夏の始まりに
そう、それは夏の始めであった。
一年前の同じ日、同じ時間、この場所で、僕は彼女と付き合いはじめたのだ。夏だというのに薄寒さの残った夏の始めに。
そして、一年後の今日、僕はあの日と同じように会いにいくのだ。あの時と違うのは、暑さと始まりではなくて終わり、別れるということ。
八月十日。その日は一年前とは異なり、日差しの強い、暑い日になった。最後の最後まで行くのをためらったが、結局僕は行くことを決めた。電車に乗り、僕は流れ去る風景を見ながら彼女の言い訳は聞くまい、言葉を信じまい。そして彼女を許そう。そう心の中で自分に言い聞かせた。
しかし、電車が横浜の関内駅に着くと僕の中でそこまで頑愚に、神聖化された思いはたやすくなえてしまった。
くだらない。
そんな言葉が頭をかすめる。
くだらない。そうだ、くだらない。
彼女は待ち合わせの場所にもう来ていた。柱に寄りかかり、本を読んでいた。抜けるような青いスーツを着て、髪を束ねた彼女を見ると、僕の心は何ともつかない激しい感情に揺れた。
「ごめん、待たせた?」
ぎこちない僕の声に、彼女もぎこちない微笑でこたえた。
「ううん、ついさっき来たばかり……」
並んで歩きながら、僕達は会話を交わさなかった。いや、交わせなかったといったほうが正しいのかもしれない。
信号待ちをしている時、その沈黙が崩された。
「私、実はね……」
その出だしを聞いて僕はヒヤリとした。どんな言葉にせよ、それは僕と彼女の間に大きな隔たりを作るだろうし、聞いてしまえばもう一生彼女と会えなくなるだろうと思った。
聞くまい。
そう考えつつも、僕は黙って待っているだけであった。
信号が青になり、僕と彼女の会話は途切れ、幸いにも僕は彼女の話を聞かずにすんだ。
「映画を観終わったら、別々の方向に歩いて別れるの」
映画館につくと彼女は開口一番そう言った。まるで映画のストーリーを語るように。僕は黙って彼女の言葉を聞いていた。
「気取ったやりかたかもしれないけど、そうしたいの。いいでしょう?」
僕は沈黙のまま、彼女に従うことにした。
映画は甘ったるい恋愛ものであった。僕はやけに白っぽい画面を見たまま、僕は彼女に対してまだ一言しか話していない事を考えた。話したい事は、聞きたいことは山ほどある。けれどそう思って口を開いてみたところで多分に僕は関係のないくだらない話をしてしまって、本当の言いたいことは出てこないだろう。ましてや話したり聞いたりすることで、すべては解決できるのだろうか。
一年間、僕は彼女と何を話してきたのだろうか。何を聞いてきたのだろうか。そして僕が本当に言いたいことはなんだったのだろうか。
僕が彼女、小倉千夏に出会ったのは梅雨が明け、もうすぐ夏が始まろうという時であった。大学三年であった僕は試験が終わると図書館に直行していた。別段試験勉強をするわけでもなく、ただ閉館時間まで本をひたすら読んでいるだけだった。一年の時、図書館にある文学書をすべて読みきろうと心に決め、三年目で書棚を三つほど片付けていた。
そんな僕と図書館で会話をしてきたのが彼女であった。その日、いつもの通り書棚に直行し、本を取るとき、彼女が声をかけてきた。
「ここにある本、全部読む気なの?」
僕は彼女を見ると、いぶかしげにうなずいてみせた。彼女は口元にぎこちない、照れた笑みを浮かべた。
「突然声をかけてごめんなさい。私、小倉千夏」
「はあ」
「一月前、あなたがこの書棚の本を隅から一冊ずつ読んでいるのを見て気になったの」
「はあ」
僕は自分の行為が急に恥ずかしくなり、生返事しかできなかった。
「一目惚れだったんだから」
彼女は恥ずかしそうにそう言っていたのを僕は鮮明におぼえている。
そんな事があって僕は彼女と話すことが多くなり、やがて付き合うようになった。今にして思えば彼女のペースにすっかりはまってしまったのだが、別にそれが悪いとも思わなかった。むしろ無精な僕にとってはそれがまた心地よかった。
「小倉千夏と付き合ってるって聞いたけど本当か?」
ある日、僕が食堂で昼食をとっていると友人の吉村がそうやって声をかけてきた。
「ああ……。でもどうして千夏の事を?」
「文科系サークルの密かなアイドルなんだぞ、彼女は」
吉村は僕の横に座り込むとおかずのハムを一枚頬張った。
「へえ、知らなかった。彼女、アイドルだったのか」
「お前、随分とのん気なんだな。彼女をねらってたやつなんてゴマンといるんだぜ」
「ふうん」
僕はそういうとメシを頬張った。
「まんざらでもなさそうな顔しやがって」
吉村はそう言うと煙草に火をつけた。
「無色透明」
「え?」
吉村の言葉を僕はもう一度聞き返した。
「彼女な、お前の事を無色透明な人だって言ってたぜ」
「無色透明……なあそれって良い意味か、悪い意味か……」
「知らんよ。まあ、うれしそうに言ってたから多分に良い意味だろうよ。……さて、オレ用事があるから次の講義代返頼むわ」
吉村はそう言うと僕の肩をポンとたたいて足早に食堂を出て行った。残った僕は煙草を吸いながら昔の事を思い出した。
高校の頃、付き合っていた恋人に同じことを言われた。それは別れるきっかけであった。『あなたは無色透明な人』
『何?』
『あなたは無色透明なのよ。何を考えてるかわからないの。だから会っていても不安になるだけで私、もう疲れたの』
今回も良い意味で言ったんじゃないぜ、たぶん。僕はそう一人ごちると煙草をくわえたまま食堂を出た。
小倉千夏はとにかく僕の話すこと全てに興味を示した。
文学、旅行、思い出話、雑誌の論評、ゴシップ、哲学、宗教……。その一つ一つが僕の口から出る度に彼女は目を輝かせ、それで?とかどうして?といった疑問符を投げかけてきた。僕は彼女がそう聞いてくる度に喜び、怯えていた。それは彼女との共通の認識や、僕の事を見ていてくれている事の幸福への喜びであり、いつしか彼女が僕の話、否僕自身に飽きてしまわないかという事への怯えであった。それは多分に吉村の言葉が悪い意味として僕の胸に貼りついてしまったからかもしれない。
僕はいつしか彼女に夢中になっていた。声も、仕草も、キョロキョロとせわしなく動く潤んだ瞳も、僕をどぎまぎさせた。
「私、あなたに夢中なの」
この言葉を僕は実に複雑な気持ちで受け止めた。
このときから僕の中で実に陳腐な感情が芽生えてきた。
彼女にとって僕はどんな存在なのだろうか。彼女にとって何番目に位置されているのだろうか。僕は彼女に会う度に、その横顔に心の中で聞いてみるのであった。
それは当然の行為だ。男としての行動の中でそんな事を聞く自体野暮ったく、ましてや見えざるものへのつまらない嫉妬であるそんな行為はしなかった。もし仮に僕がそのような行為を彼女の前で見せてしまったら、僕は途端に彼女の前で無邪気な坊やとなってしまうだろう。そうなってしまえば彼女がひどく神聖な輝きをおびてしまい、慈愛に満ちた瞳で僕を見るだろう。
僕はそれがたまらなくイヤであった。彼女に会う度に僕は虚勢をはり続け、何ともない知らんふりな表情を作ってみせた。多分、そんな安い仮面を被ったところで彼女が黙ってしまえば僕はすんなりとその仮面をとっていただろう。
だが、はたしてその仮面を僕は取ることがなかった。
一年。一年とはこれ程までに短いものであったかと僕は思う。否、彼女と一緒にいた一年だったからこそ短かったのかもしれない。
梅雨入り宣言がいつもより早めに出された年のある日、僕は講義の代返を友人に頼むといつものように図書館へと足を向けた。霧雨は体にまとわりついてひどく陰鬱な気分になり、僕はいつもより早足で図書館へと急いだ。湿った空気を抜けて図書館に入ろうとすると、入り口に傘をさして立っている女性がいた。それはまぎれもなく小倉千夏であり、僕に気がつくと微かな笑みを浮かべた。
「どうしたんだい?」
「あなたを待っていたの」
彼女は伏し目がちに、そう言うと傘をくるりと回した。
「中に入ったほうが……」
「あれから一年だよ」
僕の言葉を遮って彼女はそう言った。
「そうだね。もうすぐ一年だ」
「憶えてる?」
「八月の十日。おぼえてるよ」
「横浜の関内で映画を見たんだよね」
「初めてのデートだ」
僕がそう言って微笑むと彼女はふいに哀しげな眼をした。
「ねえ」
「うん?」
「同じ日、同じ場所で映画を見ましょう?」
「いいよ」
「……それで、お別れ」
彼女はそう言うと僕の言葉を待たずに霧雨の中、逃げるように消えていった。
僕は何も言えないまま、その場に立ち尽くすのみであった。
この時に、そうこの時にこそ僕は自分のかぶっていた仮面をとるべきだったのだ。そして彼女を追いかけるべきだったのだ。
「……それで、お別れ」
僕の頭の中にはこの言葉だけが繰り返し繰り返し響いていた。
間抜けな事に僕は彼女が時折吉村と会っている事に気がつかなかった。それは示唆されていたはずなのに、僕はそれに気づく術をもっていなかった。それが恋愛感情に発展すること。吉村が彼女を好きだった男の一人であったこと。彼女が僕に対して何も話してくれなかったこと。そして僕は気がつかないうちに同じ轍を踏んでいたこと。
今になってわかる僕は、やはり間抜けで盲目なピエロであった。
そう、それは以前から示唆されていたのだ。
映画の画面はいつまでたってもしろっぽく、内容も淡々としていた。幾分うんざりとした気持ちで僕はその画面をみやっていた。
結局何も解決されないまま終わってしまうのだろうか。別に吉村との仲を恨むといった感情はなかった。ましてや全ての責任を彼女に求めようなどいった憎しみも不思議とわいてこなかった。僕の心の中にあるのはただ、一つ。ずっと口に出さなかった重要な一言であった。今なら言ってもいいはずだ。
彼女は僕にとってなんだったのか。そしてその逆も。彼女は自分の事を本当に僕に吐露してくれただろうか。いつも何かを飲み込んでいなかったか。そして何かを紛らすように僕の言葉を聞くことに没頭していなかったか。そんな事に気が付かなかった僕は愚かではないか。
そうだ。愚かであった。僕は彼女のどこに目を向けていたのか。身体か、頭か、それとも僕との密やかな技巧であろうか。結局僕は彼女の事を何一つ聞こうとしなかった。だから僕は彼女を何一つ知らなかった。
「君にとって僕の存在意義は何だい?」
この一言が、全てのスタートになるはずだ。その時、仮面は必要なくなるんだと僕は思った。映画が終わった時、僕はそう言おう。そしてじっくりと時間をかけて、彼女と話をしよう。
「ごめんなさい、トイレに行ってくるね」
映画が中盤に入ってきた時、彼女はそう小声で僕に言った。僕はうんと頷いてみせると、彼女はすっと席を立って出て行った。
それが最後だった。
彼女はトイレに行ったきり、僕の隣の席に戻って来ることはなかった。僕は僕で、映画が終わるまで席を立たなかった。スタッフロールを見やりながら、僕は自分の馬鹿さかげんにうんざりした。
場内が明るくなると僕はのそのそと立ち上がり、ロビーに出た。人であふれているロビーを見回してみたが、結局彼女をみつけることが出来なかった。
僕はソファに腰を下ろし、煙草に火をつけた。次の上映が始まり、ロビーに人影がまばらになるまで僕は煙草をふかしていた。
そんな時に頭に浮かんで来ることは、滑稽なことに彼女の事はひとかけらも出てこなかった。
図書館で読む次の本の事。講義の事。卒業論文の事。旅行の為のアルバイトの事。僕はそんなことを思い浮かべながら、結局僕の中に残ってしまった言葉は永久に口に出ないであろうことを悔やんでいた。
短くなった煙草を灰皿に落とすと、僕は溜息をつき時計を見た。針は一時をすこしまわっていた。僕は覚悟を決め、陽差しがきつく照っている外にゆっくりと出た。
夏は、始まったばかりだ。
(了)
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