魂の揺さぶりを求めて 〜僕が言葉を愛する訳は〜

 文章を読むという行為を僕は十年以上続けている。
 初めて読んだ本はなんだったのか。今はもうはっきりと覚えてないけれど、僕は本によって育てられた。
 幼いころ、僕がまだまだキタナイ大人になる遥か昔のかわいい(本人はそう思っている)頃、母は細腕一つで僕と兄を育ててくれた。
 父親がいないぶん何不自由なくさせてあげたい。父親がいないことで悔しい思いをさせたくないという思いから、僕らは幾分過剰な愛情を注がれた。ま、僕から見れば兄にその愛情の多くは流れていたと思うけれど、それでも他の家族よりは多く受けていたのだろう。
 母は毎月おこづかいと称して僕らに本を買い与えてくれた。また、じいさんも給料日ともなると本を買ってくれた。とにかく本ばかりを買ってくれた(無論オモチャも買ってもらったけど)。本当ならそんなにお金をつかえるほど余裕がないのに、本だけはと買ってくれた。
「お金より本を取れ」
 じいさんは僕にそう言っていた。こづかいを大事に取っておくよりも、それを使って本を買え。そしてそれを大事にしろと本を読まないじいさんは僕になんどもそう言っていたのを覚えてる。
 母とじいさんは偉人伝をよく買ってくれた。
 ベートーベン、シューベルト、ニュートン、ライト兄弟、ベンジャミン・フランクリン、ケネディ、ナイチンゲール、ファーブル、コロンブス、夏目漱石。
 今思い出してもそれだけ覚えている。今だに忘れられない。僕はその本を読み、ある時はその偉人たちの境遇に泣き、励まされ、様々な夢を夢想した。
 今それが糧になっているかと言えば、あんまりなってないかもしれない。
 むしろ読書するという行為だけが僕の中で残っている。

 はじめて小学校で借りた本を僕は今でもよく覚えている。読書をすることを覚え、本を読むことに夢中になりかけた僕にとっては図書室は宝の宝庫だった。どれにしようとさんざん迷ったあげく、僕は一冊の本を手にした。
「クレーン」
 タイトルだけよく覚えている。作者は確か外人だ。青い、それこそ鮮やかな一面の青に描かれた黄色いクレーンの絵は僕を魅了してやまなかった。
 内容は覚えていない。小学生の低学年のクセに高学年の本を借りたものだから読めない字が多くて僕はあきらめて絵ばっかりみていた。
 今でも僕はふと薄暗い、本の湿気た独特の臭いのなか、一際鮮やかな青い本を僕はどうにかした拍子に思い出すのだ。

 中学に入って僕はいよいよ本にお熱になる。手当たり次第に本を読み耽った。無論僕も普通のオトコの子だからマンガも読むし、ちょっとエッチな本も読む(というより見るかな)。
 その中で徐々にSFに傾倒しだす頃、僕は国語の教科書である小説を読んだ。
「セメント樽の手紙」
 作者は失念してしまったけれど、僕はこの暗く短い小説に激しく心を打たれた。
「ああ、酔いてぇなあ。何もかも忘れて、へべれけに酔いてぇなぁ」
 セメント樽の中にあったセメント工場の少女の手紙を読み、恋人の肉片が混じっているやもしれぬセメント樽に手紙を男は読み、狭いわが家に戻り、ぎゃーぎゃー騒ぐ子供たちに囲まれた男はそうつぶやく。
 中学の、しかもオツムの足りない僕はどうしてそう男がいうのか全く理解できなかった。けど、その言葉はなんだか不思議な余韻を残して僕の中に染み付いてはなれない。
 僕は何度も口にした。
 飲めもしないし、大人でもないくせに。
「酔いてぇなぁ、何もかも忘れてへべれけに酔いてぇなぁ」と。

 高校ではどっぷりとSFにはまった。
 アーサー・C・クラーク、アイザック・アシモフ、シオドア・ジョーンズ、星新一、マイクル・ムアコック、ロバート・シェイクリイ、レイ・ブラッドベリ、横田順彌。
 僕はとにかく読んだ。昼飯のお金を全て本(古本だけど)につぎ込んで読んだ。
 そしてそのSFの傾倒もぶっつりと音を立てて切れた。
 三国志。
 僕はこの本にかなり参った。もうお手上げ状態。
 とち狂ったように読んだ。無論お金はないから何度も図書室に通い、読んだし、足りない部分は本屋の立ち読みで補った。
 いわば男臭いこの小説で、僕はまた文学の道に戻った。小説はそうなったけど、マンガはSFがメインのままだった。

 高校を卒業後、僕は働いた。大学に落ち、女にフラれ、なんだか現実に打ちのめされた時代だ。僕はその時から甘い夢を見るのをやめた。現実でしか人は生きれないのだ。僕はそう思い、ひたすらに仕事に汗し、友と語り合った。
 でもふと時間が空いたとき、僕は本を手にしていた。
 芥川龍之介「地獄変」
 中学時代、一度読んだきりのその作品を僕はもう一度読もうかなと手にしたのだ。
 燃え盛る牛車の中の自分の娘を老人画家は異様な執念で描きあげる。
 この世の地獄とはなにか。
 老人はわが子を焼き殺し、その姿を活写しつくすのだ。
 僕はその恐ろしさと切なさに感動した。
 そしてまた読書の日々が始まった。

 あれから今まで、僕は活字中毒が定期的に襲ってくる体質となった。この活字中毒がはじまるともう手がつけられない。自分の手元にある本を手当たり次第に読みあさり、それでも足りないと新聞を隅から隅まで読み、そして風邪薬の効能や説明書を一心不乱に読み、CDの歌詞を読み倒し、果てはチラシのコピーまで読んでしまう。全くアホなヤツである。
「読書なんて呼吸と一緒だ」とは敬愛するSF作家の横田順彌さんの言葉だが、僕もそう思う。趣味なんてものじゃない。読書は呼吸だ。仕事や環境に流されまくると息苦しくなる。そして僕は呼吸がしたくて読書をするのかもしれない。

 どうして僕は本を読み続け、こんな駄文ばっかり書くようになったのか。
 答えは明白だ。
 確かに呼吸をしたくて読書をしているのだけれど、それだけじゃない。
 魂の揺さぶられるような感動と希望と癒しを求めて要るのだ。
 技法ではなく、理論ではなく、説明ではない。
 純粋にそこにそんなものを吹き飛ばし、心の奥にある魂に食い込むほどの激しい感動が欲しいのだ。
 オナニーなんて見たくない。そんなものは影でコソコソやるべきだ。
 そんなものを見て喜ぶなんて3流ワイドショーのやることだ。
 言葉はそんなものじゃない。どんなに朴訥でもいい。舌足らずでもいい。
 素直に人を感動させる言葉をみせつけてほしい。
 言葉にはそんな強い生命力溢れるものなのに、僕らはいつしか無闇にあやつり、下世話なハナシに使う。そしてそんな言葉に僕らは酔っているのだ。

 言葉に酔うなんて最低の行為だ。そんな言葉を羅列したところで人に感動を与えるものなど書けはしない。
 現実の中で、それこそイノチを削って生きる人々に、希望を与え、心を癒してくれるもの。
 それは言葉ではないか。
 それを成し得るのは言葉ではなかったか。

 僕はいつだって求めてる。
 この魂を激しく揺さぶり、感動させてやまない言葉の数々を。
 母が、じいさんが、先生が、友が与えてくれたのはそんな言葉ばかりだ。
 どしようもない僕を励まし、叱り、癒し、希望を与え、泣くこと、怒ること、笑うこと、正義を教えてくれたのは数限りない、言葉たちだった。
 有名、無名の数々の人達が織り成してきた言葉たちは、ハスにかまえれば偽善となるかもしれないが、正面から受け取ればそれは一滴の知恵となる。

 馬鹿で直情型で理論や技法なんて一切持ち受けない僕にあるのはそんな膨大な言葉を与えてくれた人達への恩返しである。繰り返し読み、そしてそれを咀嚼して昇華させて僕は作品を書く。
 書くことも、そして読むことも僕にとっては魂の揺さぶりを求めることである。
 母とじいさん、そして兄と友、そして僕の師匠に心から感謝したい。
 こんな僕に沢山の魂に響く言葉をありがとう。

 とそんな大層なことを書きつつ、それでも未だ見えてこない目的地の遠きを嘆き、僕はタバコをふかしてコーヒーをちびちびと飲むばかり。
 こんなことダラダラ書いたところで何も変わりはしない。
 そう思いながら壁にある書き写しのゲーテの言葉を見やる。

 形作れ! 芸術家よ! 語るな!
 ただ一つの息吹だにも汝の詩たれかし

 ああ、そうだ。作品を書こう。そしてもっと沢山本を読もう。

(了)


 

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