ナイスボール
「ナイスボール」
響きのいい、どこか甘く懐かしい声が澤村武志の頭にこだました。
夕暮れの差し迫った私道の奥に小さな人影がある。もう夕日も沈み、空は紺色の比率を高めていた。暗がりにいる小さな人影はもう一度、
「ナイスボール」と言い、小さく、薄汚れた野球の球を投げてきた。
武志は咄嗟によけようとしたが体が動かない。
ああ、ぶつかるな。そう思い、目をぎゅっとつぶったが球はぶつからなかった。少しの間のあと、そっと目をあけると球は足元に転がっていた。それを拾いあげようと武志は屈む。視線の先には球と足が見えた。
「もう止める?」
その甘い響きの声を頭越しに聞き、武志は顔を上げる。
そこには夕闇に消えかかった母の笑顔が見えた。
「おい」
こつんと頭を叩かれ、武志ははっと目を覚ました。明るい白色が目にささる。
『次は新横浜、新横浜でございます』
その声を聞いて武志は自分が新幹線に乗っている事を思い出した。そしてゆっくりと右を向く。車窓からは線描のような風景が流れている。そしてその前にはむくれたような顔をした息子の恭司がいた。
「もうすぐ着くぜ」
「おい、父親にそんな言葉使いするなよ」
武志は首をかしげて首をならし、頭を掻いた。今年中学生になったニキビっ面の恭司はフンと鼻をならして景色に目をやった。
「口、ヨダレふけよ」
恭司の声に武志は気の抜けた返事をして手の甲で口元を拭いた。それをチラと見やって恭司はチッと舌打ちした。武志はふうと溜め息をついて外を眺める恭司を見た。
舌打ちしたいのはこっちの方だ。
武志はそう胸の内でつぶやいた。そして欠伸をひとつすると見慣れた景色を眺めた。
ちょうど一週間前。妻は突然出て行った。前の日までいつもと同じように話し、食事を作り、恭司とテレビを見て笑っていた妻は書き置きを置いて出ていってしまった。
「好きな人が出来ました。その人と暮らします。さようなら」
たった一行の書き置きを武志は何度も見た。そして封筒に同封された離婚届を広げた。
そこには達筆な妻の字で名前が書いてあり、その横には決意にあふれた判が押されていた。武志はもう一度部屋に戻る。そこには妻の衣類は残されていた。必要最低限の荷物だけを持って、妻は姿を消したのだ。
「中学生の恋愛ごっこじゃあるまいに」
武志は書き置きを眺めながらそうつぶやいた。
息子の恭司にはその日に話した。母親は出ていってしまった。もう帰ってこないかもしれない。そういうと恭司は一瞬表情を曇らせたが取り乱すこともなく、ああ、そうとだけ言った。そして武志をチラっと見、
「オヤジに愛想つきたのかもな」と憐れむように呟いた。
妻に突然出ていかれ、息子に憐れまれ、それでもオレは会社に行って仕事をして、生きていかなかきゃならないのか。
武志は自分の立場に呆然としたが、不思議と怒りは沸いてこなかった。ただ、何もかもがバカらしくなってしまった。有給をまとめて出し、会社を休んだ。恭司を学校に行かせるとただゴロゴロとしてテレビを眺め、カップラーメンをすすり、そして離婚届を眺めた。そして恭司が戻ってくれば出前を取り、会話のない食事をし、寝た。
そんな生活を一週間続けたある日、武志はふいに実家に帰ることを考えた。どうせここにいても近所のおばさん連中がうるさい。一週間なら旅行だの何だのと言い訳も立つが、それ以上となったら言い訳も出来ない。それなら少しここを離れたほうがいいだろう。武志はそう考えた。でもそうなると恭司の学校はどうするか。一人でここにいても良くない。本人はそれでも構わないというだろうが、武志はそれよりも世間体が気になったのだ。
一週間、学校を休め。武志は一週間ほど実家に帰ってのんびりしようと提案した。恭司は別にかまわないよ。と別段反対もせずに武志の意見に賛成した。学校へは妻が急病で少し学校へいけないと伝え、休みを取った。
そんなことまでして、舌打ちをされた。武志はなんだか自分が最近出てきた腹のたるみのようにだらしなく、哀れなヤツだと宣言されたみたいで溜息しか出なかった。
新幹線はするすると新横浜に到着し、二人は手荷物を持って駅に降りた。どうしてあんな夢を見たのかな。駅構内にある喫茶店に入り、遅い昼食をすませると武志は冷めてしまったコーヒーをぼんやりと眺めながら考えた。向かいの席では恭司がカレーを食べている。武志はその姿とコーヒーを交互に眺めながら先ほど見た夢を思い返した。
武志の母、百合子は小柄でキレイな顔立ちの人だった。ちょこまかと家の中を動き回り、炊事洗濯をこなしていたのをよく覚えている。父はそれに反して寡黙で動きの遅い人であった。これと言って目立たない、ごく平凡なサラリーマンだった。百合子の親族はこのごく平凡で勤勉な父を大層気にいっていた。母も口にはださなかったが父を愛していたに違いない。武志はそう思っていた。
母はやさしく、そしてお喋りであった。静なのが我慢出来ない性格なのか、食事ともなれば武志や父親に向かってよく一人で話していた。
「母さんね、兄弟が多かったから寂しいのキライなのよ」
武志が小学四年生の時、父親は家を出ていった。書き置きはなかった。衣類も置いていった。スーツ一着、仕事に行くための鞄だけを持って父親は武志たちの前から消えた。夕方に一本の電話、伝言だけを残して。
「すまない。もう帰らない」
母はその電話を聞いた夜、一人部屋の隅で電話の前に座ったまま、肩を震わせていた。武志はそれを襖越しに見ていた記憶がある。小柄な母が更に小さく見えた。
翌日の百合子はいつもの母の姿であった。ただ違ったのは何かを決意した、毅然とした目だった。小学校から戻ってくると母は大量の新聞を部屋一杯に広げて見ていた。
「お母さん、あしたから働くから、タケシ、お母さんが働けそうな場所、一緒に探そうね」
そして何度も武志にごめんね、ごめんねと謝った。
「オヤジ、どうするんだよ。」
ふいの恭司の声に、武志は我に返った。長くなった煙草の灰を灰皿に落とすと時計を見た。恭司はカレーをたいらげ、コーラを飲みながら武志をじっと睨んでいた。
ちぇっ、この表情はオレにそっくりだ。武志は苦笑し、恭司に口にカレーが少しついてるぞと言った。恭司は口を尖らせたまま、手の甲で口元をごしごしとこすった。
「なあ、時間もあるんだ。少し散歩しないか」
新横浜は初めてだろう。武志はそう言うと少し歩くと土手がある、そこまで行ってみようと恭司を誘う。息子は少しイヤな顔をしたが、別に、と答えた。
武志は会計をすませ、恭司と二人で店を出た。駅前の広場を抜け、環状二号線を渡る。駅前はずいぶんと栄えた。武志がいた頃はほとんど野っ原のような場所であったのに、いつしかビルが乱立し、ホテルが幾つも建ち、洒落た店も出来ていた。
駅から真っすぐに歩くと土手に出た。多少は整地され、小さな公園のたたずまいとなっていた。ふと右を向くと大きな病院が見える。何年か前に出来た労災病院。そしてそのすぐ脇には国際競技場が見えている。道路をへだてて病院側の土手はきれいな市民公園のようになっていて、アベックや親子が歩いているのが見えた。それだけ洒落た整地をしていても、川は雑草に覆われて、水は濁り、まるで用水路のように貧相に横たわっていた。
「ここまでくると川とはいえないな」
武志はつぶやく。
「きたねえ川」
恭司はそう言ってベンチに腰掛けた。武志はしばらく川を眺め、恭司の横に座り、煙草をくわえた。
昔の土手はこんな感じだった。武志はそう思い、この川の先にある実家を思い返した。
母は結局昔働いていたデパートに復職した。その頃、父親は商売女と駆け落ちした事がわかった。父方の親族は泣いて母親に土下座をし、父親の非礼を詫びた。しかし、母は何も言わずに親族を慰め、自身のいたらなさを詫びていた。そして両家の親族の話し合いの結果、父方から籍を抜き、東京を離れてこの横浜に武志を連れてきた。
川沿いのまだ家の明かりや街灯もない、夜ともなれば真っ暗なあぜ道の奥の小さな平屋の借家を借りた。
母は仕事に精を出した。東京のデパートまで通い、帰ってくるのは夜九時近く。武志が顔を合わせるのは朝ぐらいであった。夕食はいつも親戚のおばさんが作ってくれ、それを一人で食べた。そして母が帰ってくるまで武志は布団にくるまり、ただじっと母が帰ってくるのを待っていた。
父親がいない分、母は随分と苦労をしたのだろう。それは幼い武志にもわかった。白くてきれいだった顔立ちは青ざめ、小さい体は更に小さく、華奢になっていた。それでも母はたまの休みには武志と一緒に買い物に出掛け、本やおもちゃを買い与えてくれた。
「ごめんね、お母さん、こんな事しかできなくてね」
買い物に行った後、必ず母はそう言うのだった。アベックの取るに足らない会話が聞こえる。武志はその声の方角をチラッと見た。高校生くらいに見える男女は肩を寄せ合い、大きな声で話していた。武志は煙草を足元に落とし、足ですりつぶすように消した。
ベンチの近くにゴムボールが落ちていた。武はそれを見つけるとその汚れた紫色のゴムボールを取ると恭司に見せた。
「なあ、キャッチボール、しないか?」
「オレ、野球しないの、知ってるじゃないか」
恭司は呆れ顔でそう言い、サッカー部、どうしようかなとつぶやいた。恭司がサッカー部に所属したものの、中々レギュラーになれないことをボヤいている、と妻が話しているのを思い出した。自分もお前もスポーツをしないほうだったから、仕方ないんじゃないか。遺伝だよと答えた。武志はもてあましてしまったボールを見つめながら、あの時の妻のにこやかな表情を思い浮かべた。
「サッカー、面白いか?」
なんでそんなツマラナイ事聞くのだ。恭司はそんな表情をしながら頷いた。そしてぼそぼそとサッカー部で試合に出れないことを話はじめた。その話ぶりは暗にもう辞めようと思っている事を示唆していた。
武志はボールを手の内で遊ばせながら恭司の話をじっと聞いていた。
「まだ、一年じゃないか。今がフンバリ時じゃないのか?」
「カンタンに言うなよ。大変なんだぜ」
子供であっても学校内は大人の人生の縮図である。前に読んだ本にそう書いてあったのを思い出す。当たり前じゃないか。同じ人間なんだから。その時武志はそう思い、その雑誌を捨てたのだ。
「なあ、もう行こうぜ。つまんないよ」
恭司のその言葉で武志は立ち上がり、ボールをベンチに置いた。
土手は緩いカーブを描きながらずっと続いている。この先は確かにあの自分の家に続いている。武志はじっとその方角を見たあと、腕時計を見た。そして駅に向かおうとする恭司を呼び止めた。
「ここからまっすぐに行くと実家に行けるんだ。なあ、歩いてみないか?」小学校の頃、家のすぐそばで、母は武志とよくキャッチボールをした。野球少年というわけではなかったが、クラスのほとんどの男子は野球をした。武志も仲間に入りはするのだが、どうにも上手くなく、横でながめるのが多かった。それを知った母は休みや早番の時などは夕食の前に必ず、武志とキャッチボールをした。
今にして思えば。
本来なら父親の役目であろうその相手を、野球も知らない母はしていたのだ。父親がいない事で息子を悲しませたくない、その一心で少ない収入でボールとグローブを二つ買い、相手をしてくれてたのだ。
夕闇が迫り、お互いの顔が見えなくなっても、武志はやめなかった。ただひたすらに、微かに見える母のグローブへ白球を投げたのだ。そしてどんな球でも母はしっかりと取り、あのキレイで透き通った声で「ナイスボール」と言ってくれた。
そしてそれが嬉しくて、武志はまた、白球を投げたのだ。
母とのキャッチボールはいつまでやっていただろう。武志は土手を歩きながら考えた。そんなに長くはしていなかったはずだ。小学校六年生の時にはもう武志は近所のスイミングスクールに通わされていた。喘息持ちには水泳がいいという話を聞いて母は嫌がる武志を無理矢理通わせていた。
多分一年もしていなかっただろうそのキャッチボールを今頃になってどうして思い出したのか。武志は前を歩く恭司の背中を見ながら考えた。恭司はまっすぐに歩かず、右や左にフラフラと体を揺らしながら歩いている。そして左手に横たわる貧弱な川を眺めていた。歩き方は妻に似たな。いつも見ていた妻の背中を思い出した。いやな子供だな。武志は苦笑し、そうつぶやいた。
「この川、本当に鶴見川?」
恭司は振り返り、そう聞いてきた。武志は頷き、まっすぐ行けば実家の方に出るともう一度言った。
「本当かな」
「すぐそこに大きな建物が見えるだろう? あれは水道局の施設だ。あの近くまで行けばそれらしくなるさ」
歩いて十分も経っていないのに、もう息切れか。そう一人ごち、ハンカチで額を拭った。恭司は武志には目もくれずに川を見ながらさっさと歩いて行く。
母親とのキャッチボール。それは武志の心に大きく響いた。あの夕暮れの中、ただひたすらに投げていた白球。そして嫌な顔もせず、ただただニコニコと笑ってそれを受けていた母。まだ元気だった頃の母の記憶はそこで途切れている。その後の母を思い出そうとしてもなんだか記憶喪失者のようにぽっかりとあいている。そして記憶が鮮明に戻るのは武志が高校卒業間近の病弱な母の姿だった。
今までの無理が祟ったのか、母は腎臓を悪くした。仕事を辞めざるを得ず、武志は大学進学を諦め、就職口を探した。就職活動の時期は終わっていたため、中々就職口がみつからず、武志は自然イライラする。そんな中で母は武志を心配してあれこれと世話を焼こうとした。
「病人は黙って寝てろよ」
つい苛立ちにまかせてそう何度も怒鳴った。そんな時、母はいつもの気丈な態度を見せず、ただ黙って寂しそうに溜息をつくのであった。つい怒鳴ってしまった事を後悔しつつも、武志は憮然とした表情でテレビをみるだけであった。
ふいに足を止める。随分ひどいことをしたものだな。武志はそう思い、歩を止めて空を仰いだ。赤みを帯びてきた陽光が雲を朱色に染め初めている。
今でもあの時の行動を思い返すといたたまれなくなる。なぜ素直になれなかったのか。高校生という思春期だったからなんて陳腐な理由は意味がない。
「報いなのかもなぁ」
今の自分がこんな姿なのは、きっとその時の報いなのかもしれないな。武志はそう呟き、煙草をくわえた。
「なあ、親父」
恭司が大声で叫ぶ。火をつけ、ふかすと武志は返事をした。
「親父のペースで歩いたら夜になっちまうよ。川はもういいからタクシーで行こうよ」
武志の所まで小走りで戻ってくると恭司は呆れながらそう言った。武志は後を振り返り、たいして進んでいない距離を確かめ、煙をゆっくりと吐くとそうだなと呟いた。
「都合よくタクシー捕まると思うか?」
「知らないよ。でもこのまま土手を歩くより道のそばを歩いてタクシーをみつけたほうがいいじゃないか」
それもそうだな。武志は頷き、水道局の間にある小道をみつけ、そこから通りに出ようと言った。恭司は頷き、また前をふらふら体を揺らしながら歩いた。
土手を降りるとそこは太尾新道であった。新横浜と実家のある綱島を繋ぐ道で、綱島街道の裏道である。第三京浜に行くにも便利な道で裏道であってもバスも通るし、交通量もそれなりの道であった。幸い太尾新道に出てすぐにタクシーがつかまり、二人はそれに乗ることが出来た。タクシーの中では恭司は黙ったまま、窓の外を眺めていた。武志はそんな息子にかける言葉もみつからず、ただ料金メーターをぼうっと眺めていた。
ビル管理会社の清掃員見習い、つまりアルバイトではあったがそこの専務にいたく気に入られての就職であった。その晩はようやく肩の荷が降りたという思いもあり、武志はいつになく饒舌で、祝いの準備をしている母にあれやこれやとつまらない話を延々とした。母は嬉しそうにうんうんと相槌を打ち、そして何度も良かったなあ、良かったなあと言った。
「お母さん、これで一安心出来るなあ」
母はしみじみとそう言って、茶をすすった。
夜遅く、武志がトイレに起きようとした時、母の苦しむ声が聞こえた。
「た、武志ぃー、た、た、助けてー。く、く、苦し……」
横に寝ていた母は体をがくがくと震わせ、ケイレンしていた。そして苦痛に顔を歪め、まるで赤ん坊のように布団の上に体を丸めていた。
その光景を見て武志は気が動転した。一体何が起きたのか。歯をガチガチと鳴らしながら母は息苦しそうにしながら必死に武志に助けて、死ぬ、死ぬと言った。武志はすぐに母を起こして抱きかかえた。
「どうした、寒いの?」
「ち、ちが…う……」
母はそれが言うのがやっとでひきつけを起こした子供のように震えていた。
武志はすぐ横にある電話の受話器を取り、救急車を呼ぶためにダイヤルを回した。そして住所と母親の症状を出てこない声を必死になって出して説明をした。母の震えは依然止まらない。
「死ぬ、死ぬ……」
母は涙と鼻水を流しがら何度もそう言い、武志にしがみついてきた。武志はぎゅうときつく抱き、死ぬか、死ぬわけないだろう。と大声で叫んだ。
あんなにも母は小さく、そして軽かったのか。あの時の武志はそんな事を思っていた。こんなか細い体で、働いていたのか。武志は母を抱き締めながら、そう思い、ようやく楽が出来るのだ。なのに死ぬわけがないだろう。そう何度も何度も胸の内で言い続けた。
母の匂いを嗅いだのは、あれが最後だったな。そして母を抱き締めたのも、担いだのもあれが最初で最後だったな。
武志は今はもう水気のなくなってきた手をじっと見つめた。あの時の母の体温も、震えも、必死な思いも残っている。
窓に目を見やると太尾新道を抜けて綱島街道へつながる土手沿いの道に出ていた。ああ、何にも変わっちゃいない。汚い空も、川も、歩いている人達の表情も、何も変わらないんだな。新しく建ったマンションやビルがあったとしても、そこには武志が見て覚えている綱島があった。
「川、大きいだろう?」
武志は窓を見ながら恭司に言った。恭司は頷き、でも汚いなとつぶやいた。
「前に来たのはいつだったかな」
「オレ、来たことないよ」
武志は恭司を見て、そうだったかと聞き返した。恭司はもう一度来たことがないと言った。
「そうか……。連れてこなかったか」
最後に実家にいったのは恭司が生まれる前だったか後だったかを思い出せなかった。
オレ自身もひどく久しぶりなんだな。仕事だなんだと久しく来なかったんだな。武志はそう思い、また窓に目をやった。
妻は、何が不満だったのか。
仕事にあけくれて家庭を大事にしないというのなら理由にはなるだろう。だが決してそんな事はなかった。週に三度の残業、週末は早く帰ってきた。そして恭司の面倒を見ていた。日曜になれば家族三人で出掛けもした。それともそれはオレの思い過ごしだったのか。
恭司を面倒見たといってもサッカーを一緒にした覚えもない。恭司に頼まれてモノを買ってやっただけじゃないか。
妻にうるさくしただろうか。それとも邪険にしただろうか。会話をしてたといってもただ話を聞いていただけじゃないか。
武志の中で様々な問いかけが浮かんでは消えた。そして答えは出ず、倦怠感だけが襲ってくる。ここ一週間、その繰り返しだった。
「なあ、恭司」
「ウん?」
「父さんはイヤなヤツだったか?」
ふいに出たその言葉に武志は舌打ちした。なにみっともない事を息子に言ってるんだ。そして武志は恭司にいや、なんでもないとすぐさま打ち消した。
「お客さん、綱島駅でいいんですか?」
運転手が低い声で聞いてくる。武志は鶴見川を跨ぐ大綱橋を抜けたらすぐの信号を右折して道なりにまっすぐ行くとゴルフの打ちっぱなしがある。そこの駐車場でいいと説明した。そして腕時計に目を走らせる。まだ時間があるな。そうつぶやいて溜息を一つついた。
「オヤジさ」
窓に目を向けたまま、ふいに恭司が声をかけてきた。
「何だ?」
「オヤジ、イヤなヤツじゃないぜ」
ぼそっとそう言うと恭司はひでえ渋滞だなとつぶやいた。母の発作は原因不明であった。多分精神的に無理をしていたのだろう、それが緩んだか何かしたのだろう。すぐに発作はおさまりました。医師の言葉に武志はきつく唇を噛んだ。オレだ、オレのせいじゃないか。頭の中で悔恨の言葉が響いた。
個室の病室で、母は埋もれるように横たわっていた。頬はこけ、髪も艶がなかった。
あらためてみる母の姿に、初めて父親を呪ったのだった。それでも武志はその言葉を出すことは出来なかった。
「ごめんなあ、タケシのお祝いの日にね」
その言葉だけで武志は何もいえなかったのだ。
「良くなったら、ウマイもの、食べにいこうよ。給料でたらウマイもの。栄養つけなきゃ」
しばらくの間、入院は覚悟してほしい。そして今まで通りに元気な姿にはもどれない。そんな医師の言葉を思い出しながら、武志は母が眠るまで何度もそう言ったのだった。結局、それは出来なかった。 タクシーを降りるとゴルフの打ちっぱなしから気の抜けた音が聞こえてくる。そして白い小さな球が緩い弧を描きながら飛んでいくのが見えた。恭司はそれを見て何が楽しいのかとつぶやいた。
「野球のバッティングセンターと同じさ」
武志はそう言い、駐車場にある自販機でコーヒーとコーラを買った。コーラを恭司に渡すと武志は煙草をくわえた。
「サッカーの打ちっぱなしってないよな」
「ある訳ないじゃないか」
恭司は呆れた顔でそう答え、はじめて笑った。そしてコーラを飲み、ここから遠いの? と武志に聞いた。
「いや、近いよ。その前に少し寄りたいところがあるんだ」
そんなに遠い所じゃない。そう付け足すと武志はコーヒーを一気に飲み干し、歩き始めた。
周りにはマンションが建ち並び、昔の面影すら見えない。子供の声も、井戸端会議の声もない。クルマの通りも少ない。
それでも、そこは武志の住んでいた、あの寂しい田圃道のあの、場所であった。少し行くと小さいながらも一軒のスポーツ用品店がある。そこに入ると武志は恭司の足に合うサッカーシューズを一足、それとグラブを二つ、軟式の球を一つ買った。
「どうすんだよ、そのグローブ」
店から出て来た武志の持った紙袋を覗き、外で待っていた恭司は怪訝そうな顔で聞いた。
「これで芋掘りするわけには行かないだろう」
「キャッチボールなんてやらないぜ」
「いいじゃないか。キャッチボール、しようじゃないか」
それともヘタなのがバレるのが嫌なのか? 武志はそう言って紙袋の奥から箱を出して恭司に見せた。
「このサッカーシューズ、欲しくないか?」
「ちえっ、オトナは汚ねぇな」
恭司はそう言って箱を開けた。その靴は試合で使うような本格的なサッカーシューズであった。
「オレ、サッカー辞めるんだ。だからこんなの出したってやらないよ」
恭司はそう言って武志に突き返した。武志はその箱を受け取り、
「じゃあ辞めるなら野球やってもいいじゃないか」と言った。
「そんなの屁理屈だ」
「それでケッコウ。いいじゃないか。まだ時間はあるんだ」
武志はそう言うとスタスタと歩きはじめた。何がなんでもキャッチボールをしたい。いやしてやりたい。武志はそう思い、懐かしいあの土手への細道まで来た。そして土手を背にして武志は振り返り、上着を脱いだ。
「本当にやる気?」
「あたりまえだ」
恭司は呆れた表情で渡されたグローブをつけた。それを見届け、武志は真新しい、まだ柔らかさのないグローブをつけ、パンパンと叩いた。そして白球を恭司に渡し、もう少し後ろに下がれと合図した。
「取れるのかよ」
恭司はボールの感触を確かめながら武志に聞いた。
「ああ、まかせろよ。お前の球、全部取ってやるよ」
「これでも体育で野球はやってたんだぜ」
「そんなの自慢になるかよ」
武志はそう言ってグローブをかまえた。全部取ってやるよ。お前の球ならなんでも取ってやるよ。武志はそうつぶやいた。
あの時、どんな球でも取ってくれた母。父親の分まで球を取ってくれた。
陳腐なハナシかもしれないが、いいじゃないか。オレも同じように取ってやるさ。母親の分までお前を全部取ってやるよ。
「なあ、オヤジ」
「なんだ? 早く投げろよ」
「これからどうすんのさ」
「何が?」
「二人っきりだぜ。何にも出来ない男がさ」
「お前が良ければ実家に越そうかと思ってるんだ」
「転校するのかよ?」
「ああ。こっちの中学に転校になるな。サッカー部やめる良い理由になるんじゃないか」
「やめないよ、サッカー」
恭司はそう言うと思いきりボールを投げた。球は右に逸れたが武志はそれを受け止めた。武志はその感触をじっと受け、そしてグローブに収まっている球をじっとみつめた。
「早く投げ返せよ」
恭司が叫んだ。
「なあ、恭司」
「何?」
恭司は少し首をかしげ、早く投げろという表情を作った。
「二人になっちまったんだ。クルマ、新しいのにしようか? スポーツカーにさ」
「馬鹿じゃないの? 金の無駄だよ。それに似合わないんだよ、オヤジには」
「そうかな?」
「そうだよ」
武志はかわいくない息子だなと言ってボールを投げた。武志の球は大きい弧を描いて恭司の上を越してしまった。
「ヘタクソだな、オヤジ」
恭司の笑い声の混じったその言葉を聞いて武志もつられて笑った。
「ああ、そうだな、ヘタクソだな」
「クルマ、買い替えるのやめなよ」
ボールを拾って戻ってくると恭司はそう言った。武志は腕を組んでどうしてだよと聞き返した。
「だっておばあちゃん乗せるだろう。二人乗りじゃダメだよ」
「おばあちゃんをスポーツカーに乗せちゃマズイかな」
「一緒にオレが乗れないじゃないか」
ボールを投げる。今度は左に大きくそれたが武志はそれをちゃんと取った。
「ナイスボール」
「どこがだよ」
恭司は口を尖らせてイヤミだなと言った。武志はボールを少し力を入れて投げた。パシッと音がして恭司のグローブに収まった。
「おばあちゃん、透析まだ終わらないのかな」
「病院はもう出ただろう。もうすぐ帰ってくるよ」
これからのことを考える。多分それは思っている以上に大変なことなんだろう。武志はそう思った。
「そんな事、大したことじゃないわ」
いつも母がいっていた。何が起きたとしても、母はそう言って笑っていた。父親に逃げられ、体を壊し、息子に怒鳴られ、つらい人工透析をしようが母はそう言って笑っていたのだ。
妻が出て行き、実家に行くと伝えた電話口でも母はそう言った。あのキャッチボールをしていたときと同じ響きで。
「どうしたんだよ、ニヤニヤして」
恭司の声で顔を上げる。
「投げろよ。どんな球でも受け取ってやるよ。お前のオヤジなんだからな」
「なんだよそれ」
恭司は力を入れて投げる。
ボールは勢いよく武志に向かってくる。また右に逸れたが武志は取った。パシン、と響き、手が微かにしびれる。
「ナイスボール」
(了)