ナポリさん
僕はナポリタンが嫌いだ。
見るだけで吐き気がする。
生まれてから大学卒業に至るまで、母は毎週のようにナポリタンを作り続けた。嫌いになるのは当然だ。どんなに嫌な顔をしてみせても、母は作り続ける。そして食卓に並べるときに必ずこういうのだ。
「これはね、家族を愛し、食べることを愛し、平和を愛したイタリアの家庭料理なのよ。これを食べて元気に育っておくれ」
そんな母は、このご時勢にボンゴレもミートソースもペペロンチーニも知らない。しかもスパゲティにはナポリタンしかないと断言していたのである。おめでたい僕は高校時代までそれを信じていた。
初めて友人たちと喫茶店に入ったときだ。
「あれ、ミートソースって?」
僕は喫茶店のメニューを見てナポリタンがなくて、ミートソースしかなく、そう声を漏らした。そりゃ僕も高校生だから、ミートソースぐらいは知っていた。けれどミートソースは邪道だと思っていたのだ。
友人は怪訝そうな顔をして僕を見る。
「スパゲティじゃないか」
「ナポリタンがない」
「それがどうしたの?」
当時密かに思いを寄せていた女の子が聞いてくる。僕は水を飲んでここぞとばかりに母のご高説を得々と話したのだ。
ミートソースなんてスパゲティじゃない、と。そしてめでたく恥さらしになり、密かな思いは密かなままになったのである。
「ナポリタンしかないなんてウソじゃないか。この嘘つき!」
家に飛んで帰り、のんびりと大相撲を見ていた母に開口一番そう言った。母の悲しそうな顔を見て、それ以上は言えなかった。僕は喫茶店でメニューを見るたびに思い出す。
母一人、姉と僕の三人家族。父は幼い頃に家を出た。女二人に男一人、そんな環境の中では当然、僕の味方はいなかった。姉は母の味方だ。その日の夜、しょげかえっている母を問いただした姉は、僕をつるし上げ、鼻血で畳が赤くなるのではないかと思うほどビンタをくれた。
「あんまり和雄を叩かないでおくれ。アタマ変になったら大変だから」
頬が風船のように腫れ上がった僕を見て、母はそう言った。
「これ以上バカになるわけないわ。親をなじるなんてバカ以下よ」
「まあ、そうなのかもしれないけど……」
空手道場に通う女三四郎に殴られ、気が遠くなるのを必死にこらえている僕に、なぐさめの言葉はこの家に存在しない。三つ年上の姉の腕力にかなうほど、僕の腕は太くなかったし、度胸もなかった。
そんな事があっても母はナポリタンを作り続け、姉と僕はそれを食べていたのだ。
大学を卒業し、晴れて社会人になると僕は家を出て、東京へと上京した。一人暮らしの生活は、平和としかいいようがなかった。確かに仕事は忙しくて、部屋に帰るのに月に何度もタクシーを使うハメになったけれど、僕には姉の鉄拳とナポリタンから逃れられるだけで幸せであった。
不景気だという言葉が挨拶がわりに使われるようになり、会社も以前の忙しさがなりを潜めはじめた。東京に出てきて五年目の春、僕に一本の不幸の電話がかかってきた。
ある日曜日の朝だ。前日深酒をしてしまった僕は、八時にけたたましく鳴る目覚ましを忌々しく止め、昼まで寝ようと決めた時であった。安い電子音が部屋中に鳴り響く。その電話の音は、酒の残っている頭に容赦なく突き刺さる。布団をかぶってやりすごそうとしたが、留守電機能が壊れている電話は一向に鳴り止む気配はなく、僕は布団をはねのけ、苦り切った表情で受話器を取った。
「和雄?」
受話器の向こうから、女性の声でいきなりそう聞こえてくる。僕は寝ぐせのついた髪を掻きながら、どちらさま? と無愛想に聞いた。大体人の家に朝早く電話してきて名前を呼び捨てにしやがるなんてどんなオンナだこいつは。そう思いを巡らせる。すると受話器の向こうの女性はぶっきらぼうに答えた。
「アンタ、姉の声も忘れたの?」
その言葉で一瞬にして目が覚める。僕はその場で素早く正座をし、あっ、オハヨウゴザイマスとぎこちなく答えた。
「来週の土曜日、そっちに行くから」
「ハイッ!」
「アンタいつまでも帰ってこないから、母さんとそっちに行く。その日は開けときなさい」
「ハッ!・・・・・・って、えぇっ?」
姉の言葉に反応が遅れ、素っ頓狂な声を出した。それでも受話器の向こうは冷静で、来週の土曜日にそっちに行くと繰り返した。
「いや、ちょっと姉貴、そりゃ急で・・・・・・」
慌てて僕はそう切り出したが、姉は聞く耳持たず、絶対に開けときなさいよ。と凄味をきかせてガチャンと電話を切ってしまった。僕は切れてしまった受話器に何度も呼びかけをしたが、受話器は脳天気なツーツーという音しか伝えてこなかった。僕は呆気に取られたまま、受話器と時計を、無意味に交互にみつめた。
母はおとなしい人だ。寡黙だけれど、話しかけられればそれなりに応える。会話を弾ませられる人だが、あえて自分はしゃしゃり出ない。近所のおばちゃん連中との付き合いは上々でイヤミのない人だ。
反転、姉はおしゃべりで性格はキツイ。女三四郎は男に厳しい。おまけにスカートを履いたところを見たことがない。母が買って来ても絶対に履かなかった。母もいつしかあきらめ、スカートは一度もはかないまま、親戚の子にあげてしまった。
母は僕に対してはどちらかというと放任であった。長女の姉ばかり気にしていた。あの子は本当に結婚出来るのかと心配し、空手の道場に通うと言い出したときも、僕に止めさせるように説得をしてくれと言った。それが出来るのであれば、苦労はしないと僕は断った。姉が道場からケガもなく帰って来ると、それはもう嬉しそうにしていたものだ。僕がケガをしても救急箱止まりだが、姉は病院であった。
僕にとって地上でもっとも恐ろしい存在。それは姉貴とナポリタンである。その姉が来週この平穏な部屋にやってくる。ナポリタンを作る母を連れて。五年ぶりの再会は懐かしさや暖かさではなく、恐怖と鉄拳を伴ってやってくる。
「・・・・・・参ったなあ・・・・・・」
僕は頭をばりばりと掻きむしり、そうつぶやき、そのままベッドに倒れ込んだ。
「ふうん、お母さんとお姉さんが来るんだ」
電話のあった日の夕方。僕は恋人の真理子と食事をしている時に母と姉が上京してくることを話した。彼女はワイングラスをユラユラと遊ばせる。
「じゃあ来週はデート出来ないね」
「ああ、そうか……そうだなぁ」
確かに真理子は有名商社のキャリアウーマンで、家庭向きな女性ではない。けれど、恋人の家族が来ても一緒に会おうかな? なんて可愛らしいことを思わないのかと、幾分がっかりしながら生返事をした。
「ねえ、お姉さんてまだ空手やってるの?」
前に話したことのある、姉の鉄拳の事を聞いてきた。さあ、今はどうなんだろうな。僕は頬杖をつき、窓の外の景色をみながら答えた。
「なあ、ナポリタンって好きか?」
「何、トツゼン」
「いや、食べたことくらいあるだろう」
僕はワインを一口飲む。赤ワイン独特の酸味が微かに口に広がる。彼女は小さく笑うと昔は時折食べたと答えた。
「でもあれ、どうしてどこでも同じ味なのかしら。べちゃっとしててパスタは必ずぶよぶよで」
「具もピーマンとタマネギ、そしてペラペラのハム」
僕は煙草に火をつけ、またワインを飲む。彼女は嬉しそうに、そうそうと相槌を打ち、銀の安い皿にのっているのだと言った。
「聞いた話だけど、あのナポリタンってイタリアにはないっていうじゃない」
「え、そうなの?」
「らしいわよ。日本独特のスパゲティらしいわよ」
僕はその話を聞き、あやうく口に出してしまいそうになった言葉を飲み込んだ。そして煙草をせわしなくふかした。そんな僕を見て彼女はどうかしたの? と聞いてきた。別になんでもないよと僕は言いながら、グラスのワインを開けた。
ナポリタンはイタリアで最も愛されている家庭料理だ。ナポリさんという人が初めて作ったからナポリタンというのだ。
母はどこで仕入れてきたのかはわからないが、幼い僕にそう言っていた。鼻をたらしていたコドモは大抵母親の言葉を信じる。僕はずっと信じていた。そう、今のいままでだ。イタリア家庭の代表的な素朴な料理。それがナポリタンであると、ずっと認識していたのだ。彼女の話を聞いたとき、あやうく僕はナポリタンって家庭料理なんだよなと言いそうになったのだ。
また恥をかくところだったじゃないか。
僕はそう胸の中で毒づき、小さく舌打ちした。彼女にはその舌打ちが届かなかったらしく、ナポリタンがいかにまずいかを説明していた。僕はぼんやりと聞きながら、またあのむかつきを覚え、ワインをグラスに注いだ。
「ワタシ、来週一緒に会おうかしら」
店を出る際、彼女はそうつぶやいた。僕は煙草をくわえながら手を左右にヒラヒラと振った。彼女はなんで? 会わせたかったんじゃないの? と聞いてきた。
「そこまで押し付けがましくないさ。オレの家庭の話だしね」
きつい赤の口紅を塗った、少し薄い彼女の唇はトンガリ、ヒマだからいいと思ったのにとつぶやいた。僕は溜め息をついて彼女のオデコを軽く突いた。
「人の親と会うのヒマ潰しみたいにいうなよ」
「……ゴメン」
僕はいや、いいよと言って笑うと今日はちょっと寄りたいところがあるからと、彼女をタクシーに乗せ、そこで別れた。
雑踏の中、僕は煙草をふかしながらフラフラと駅に向かって歩く。来週、あの姉や母の相手をするのが非常に億劫に思えてきた。多分母は腕によりをかけて食事を作るだろう。そしてあのナポリタンも作るだろうな。僕は母が足をさすりにながら台所に立っている姿を思う。そして姉に説教されながら食事が出来るのを待っている、貧弱な自分の背中を思い浮かべた。
仕事が忙しいと言うのは簡単だ。遅く帰れば母は寝てるだろうが、姉は起きていて小言を言われるだろう。どうやった所で僕はこの家族の絆を切ることはできないのである。
僕は駅に降りると、いつも利用する喫茶店が開いているのをみつけた。そこに入ると珈琲を頼んだ。店内には二人の客がいて、どちらも疲れた顔をしたしがないサラリーマンであった。
そうだ。そこで僕はふいに思いつく。どうせなら二人を食事に連れてってやろう。おいしいものを食べさしてやろう。店にいるあいだは姉も小言をいわないだろうし、鉄拳も出ない。母ともこの五年の空白を埋めるのに気まずい会話をしなくてもすむだろう。そうしよう。外に出ればいいのだ。疲れた二人は食事をすませたらスグに寝てしまい、会話は少ないはずだ。
ナポリタンなんてメニューにない、イタリア料理店で、母が知らないミートソースやボンゴレを食べさせてやろう。僕はそんな自分の考えが、大層立派な親孝行に思えて来て、なんだか嬉しくなってきた。どこがいいかな。イタリア料理の店は沢山あるしな。
母と姉が少し困りながら食事をする光景を思い浮かべ、すっかり冷めてしまったニガイだけのコーヒーをすすった。
店の予約を確認して受話器を置くと同時に内線が鳴る。受話器を取ると、女子社員が3番に電話ですと言う。それほど大きなオフィスじゃないから、サラウンドのように受話器と後頭部のほうから同時に声がする。僕は気の抜けた返事をしながら3番のボタンを押す。
「あ、ゴメンね。会社に電話して」
電話は真理子からだった。なんだかやけに騒々しいし、声もなんだか変に高く聞こえる。ケイタイかららしい。時折雑音が混じる。
「いや、別に」
チラとすぐ近くに座っている上司を伺い、返事する。上司は書類を読むのに熱中している。僕は少しカラダを上司からそらし、背中を向けた。
「どうしたの?」
「今日、お母さんとお姉さん、来るんでしょう?」
「ああ、そうだけど」
煙草をくわえて火をつける。じじっと音がしてゆるゆると煙が上がる。僕は目をこすって煙を吐く。彼女は今日、仕事が早く終わったからもし良ければお母さんとお姉さんの観光案内でもしようか、と提案してきた。僕は時計を見る。もうすぐ母と姉が東京駅に到着するころだ。
「でも、顔、わからないだろう?」
「わかるわよ。だって和雄クンの部屋でアルバム見せて貰ったから、覚えてるよ」
へえ、よく覚えていたなあ。あんまり興味なさそうに見ていたから真理子は覚えていないと思っていた。タバコの灰を歪んだアルマイトの灰皿になすりつけて考える。今すぐにでも会社を出ることは可能であった。でも姉も母も、どこか駅の喫茶店で適当に時間を潰すから、会社が終わってから来てくれてかまわないと昨日の電話で言っていた。その言葉に甘んじて、少し遅く行こうとしていたのだ。
「ダメ?」
受話器の向こうで彼女が言う。家庭的でない、それこそ料理も出来ないキャリアウーマンの典型のような真理子を、母と姉に会わせるのはどうかなと、ずっと内心思っていた。姉から小言をいわれるのはイヤだし、それで彼女の機嫌を損ねるのもイヤだ。僕はちょっと考えあぐねた。
「ダメじゃ…ないけど……」
「じゃあ、いいかな?」
少しじれったそうな口調で彼女が言う。僕は曖昧に返事をして、じゃあ頼むよと答えた。
「あと少ししたら姉さんから電話がかかってくるから、待ち合わせ場所を確認してケイタイに電話をするよ」
彼女はわかったと少し張り切った口調で言って電話を切った。不安だなと思いつつも少しでも自分の負担が軽くなったのを喜んだ。案外面白い組み合わせかもしれないな。まるで部外者のように僕は真理子と姉の対面の姿を想像する。また時計を見る。そして僕はお茶をすすってからキーボードに向かった。
会社を出たのは定時を少し回った頃だった。電車に乗って真理子が指定してきた駅に向かう。駅を降りてすぐの喫茶店にいるというのだ。僕は真理子と姉、母がどんな会話をしているのかな、とぼんやり思いながら電車の吊り広告を眺めた。
駅の改札を抜けると目の前に小洒落た喫茶店があった。母たちはそこにいる筈である。僕は店を覗き見る。大きな窓ガラスから見える店内には客が多く、母たちの姿が見えなかった。確認が出来なかった僕は肩をさっさっとはたき、ネクタイを締め直した。そして髪をかきあげてから店に入った。アルバイトの生気の失せた表情の女の子がいらっしゃいませと言う。僕はクセになった営業スマイルを見せ、さっと店内を見回した。窓際の、大きな植木の影になっている席に母の背中が見えた。なんだかひどく小さく見える。僕の姿に真理子は気づき、小さく手を振った。真理子の表情は明るい。なんとか上手く行ったのかと思い僕は足早に近づく。
「おっ……ま、たせ」
僕は言葉につっかえた。振り返った姉の顔に驚いてしまったのだ。
姉が化粧をしている。うっすらとだが化粧をしていて、唇は淡いピンクの口紅を塗っていて、僕を見てにこやかに笑っているのである。
五年前のあの女姿三四郎が、である。今目の前にいる姉の姿を見て記憶障害を起こしても不思議じゃない。
「どうしたの? 早く座りなさいよ」
真理子のその言葉に押され、僕は姉の真向かいの席に座った。
「和雄、久しぶりねえ」
母のその声ではっとする。母は少し痩せていた。そして五年前はまだ艶のあった黒髪は白いものが混じりはじめ、艶もなくなってきていた。随分と小さくなったんだな。近くで見ても小さいままの母を僕はぼんやりと見た。母は相変わらずにおっとりと口元に微笑を浮かべていた。
「良かったねえ、こんなキレイな人が和雄の恋人だなんてねえ」
コーヒーを注文したあと、母はそう言った。真理子は俯いて顔を照れ笑いを見せた。なんだこんな幼い表情もあったのか。僕は真理子のことを横目で見て思った。
「姉貴、どうしたんだ? 化粧なんてして」
僕は出てきたコーヒーに砂糖を一サジ入れながら聞いた。姉は化粧くらいするわよと言って紅茶を飲んだ。
「真理子ねえ、ようやくスカート履くようになったのよ」
今日もスカートを履いているのだと母はいかにも感慨深げにそう言った。
また記憶障害。
「ス、スカート?」
「もうお母さん、こんな所でそんなこと言わなくても」
姉は困った表情で母の二の腕を肘で軽くこづいた。真理子はそれを見てふふっと笑い、「でもお似合いですよ。どうして今までスカートを履かなかったんですか?」
「それは姉貴が空手をしてて……」
「和雄、そんな事言わなくてもいいでしょう?」
姉はやや引きつった笑みを僕に向けた。いけない、これは鉄拳が飛んでくる。
「まあ、行動力のある姉貴にはジーンズのほうが良かったんだよ」
今更のフォロー。真理子は全部知っているんだ。姉貴の事を。僕は恨めしそうに見やるが、彼女は意に介さないふうににっこりと笑い、姉貴をさかんにきれいだと褒める。
「和雄、実は彰子がね、結婚することになったんだよ」
母の嬉しそうなその言葉に飲みかけのコーヒーを器官につまらせ、まるでテレビの三流コメディみたいに激しくむせる。
「本当ですか? おめでとうございます」
真理子の顔が輝く。姉は頭をペコリと下げて少しはにかんでみせた。僕はその仕草をむせて涙目になりながら見た。そこにはあの姉はいなかった。
「相手は誰なのさ」
僕は水を飲みながら母に聞く。母は中学の時、姉貴と同級生だった佐倉真樹夫だと言った。
「えっ、あの佐倉さん?」
「そうなんよお」
母は呑気な口調でそう言って笑った。佐倉真樹夫。僕はよく知っている。青白い顔をした細く華奢な体つきの文学青年であった人。およそ姉との接点を持ち合わせていない佐倉さんとの結婚は意外であった。
「結婚までの来し方、教えてくれよ」
「いいじゃないの、そんな事後で。それより食事、しましょう? お母さんたち、おなか空いているわ」
僕はああと頷いて腕時計を見る。予約した時間が近い。母と姉を促し、喫茶店を出た。
「どんな話したんだい?」
「別に、大した話してないわ」
店を出ると僕は真理子に話しかけた。母と姉は後ろに着いて来るようなカタチで歩いている。
「ただ」
「ただ?」
「和雄クンのカノジョですって言っただけよ」
後ろを振り返る。姉は足の悪い母に寄り添うように歩いている。ヒラヒラとスカートを揺らして。
「母さん、ごめんな歩かせて。もう、すぐそこにあるんだ」
「大丈夫だよ。これくらいの距離なんてへいちゃらだよ」
母はそう答え、笑った。
そういえば。母はあんまり僕には笑いかけなかったな。今までの記憶を辿ってみても母は僕にあんなに笑顔をふりまく人じゃなかった。
「ねえ、和雄クン。ここじゃないの?」
真理子の言葉で我に返る。白い外壁に囲まれた、レストランの入り口には、小さな黒板がイーゼルに立て掛けてあり、今日のおすすめメニューが書かれている。それほど高級というわけではないが、お洒落なレストランと雑誌にも載ったことのあるイタリア料理の店だ。
「母さん、姉貴お待たせ。ここだよ」
母と姉はそのレストランの佇まいを見て幾分困惑した表情をみせる。
「高そうなお店じゃないか、大丈夫なのかい?」
「大丈夫だよ、そんなに高くないよ。それに今日はオレが御馳走するんだから気にしなくていいよ」
僕は先頭に立って店のドアを開ける。店内には小さい音量でクラッシックが流れている。明るい店内はまだ夕刻だからか、数組の若い女性客しかいなかった。僕はウェイターに名前を告げ、席に案内して貰った。
母と姉は戸惑いの表情を隠せないまま、ぎこちなく席に座った。
「なんでもいいよ。好きなもの、頼んでよ」
僕はメニューを広げて母と姉に言った。真理子は母の右隣りに座り、姉と母にメニューにある料理を丁寧に説明した。
「ご注文はお決まりですか?」
ウェイターがピンと背筋を伸ばし、ゆっくりとした口調で聞いてくる。僕は赤ワインと、マグロのカルパッチョ、それとフィットチーネを頼んだ。
「何にする?」
ウェイターは微笑を浮かべ、真理子の所に行く。彼女はボローニャ風ラザニアを頼んだ。
「お姉さんとお母さんは何にします?」
真理子の問いに、母は少し困った表情をしてメニューに目を落とした。
「あのぉ……」
「はい?」
母は顔を上げ、キレイに髪を上げ、ピシっとした姿勢のウェイターに言った。
「ナポリタンは、ないですかねえ」
「は?」
僕は一気に血の気が失せる。しまった、コースで予約すりゃあ良かったんだ。まさか母がメニューにない、あの忌ま忌ましい料理の名前を言うなんて。しかも、大きな声で。真理子は呆気に取られた表情で僕を見た。僕は青ざめた表情で彼女を見る。
「ナポリタン、ないんですかねえ」
母はもう一度そう言う。後ろのテーブルから微かに笑い声が聞こえる。顔が急に火照てる。
「お客様、誠に申し訳ございませんが、ナポリタンはございません」
ウェイターの微笑が歪む。それは明かに侮蔑の笑みだ。チラっと僕を見た。更に顔が火照るのがわかる。
「どうしてですかねえ」
「ナポリタンはイタリア料理にはありません」
ウェイターの声のトーンが変わる。あきらかに馬鹿にした態度だ。やばい、鉄拳が。そう思い、僕は咄嗟に姉を見る。しかし姉は俯いたまま、耳まで真っ赤にしていた。
「母さん、ここにはないんだ。メニューにあるものを頼みなよ」
「でもねえ、ナポリタンはスパゲッティじゃないか。ナポリタンはイタリアの家庭料理じゃないんですかねえ」
万事休す。背中越しに失笑が聞こえた。もう僕のシャツは汗でびっしょりになってしまった。それを聞いてウェイターはプッと吹き出した。
「和雄クン、出ましょう」
いきなり真理子が席を立った。その顔はあきらかに怒っていた。きっ、と鋭い目付きで僕を見る。真理子以外の母、姉、僕そしてウェイターは呆気に取られて彼女を見る。
ああ、終わった。僕はそう思う。あの時真理子は、さんざんナポリタンをバカにしてたじゃないか。そりゃあ怒るさ。こんなに洒落た店で笑い者になっちまったんだから。彼女が怒るの、無理はない。
また後ろから笑い声が聞こえる。僕はあの高校時代を思い出しながら、もうどうにでもしてくれと、捨て鉢な気分になってきた。
「お母さんも、お姉さんも出ましょう。こんな店、二度とくるもんですか!」
真理子はそう啖呵をきってウェイターを睨みつけた。僕は真理子を見た。
「お客さんをなんだと思ってるのよ。ナポリタンのどこがいけないの? 馬鹿にしたような顔して吹き出しちゃって。あんたの方がよっぽど馬鹿じゃない。こっちが吹き出しちゃうわ」
真理子の口撃は止まらない。母と姉はポカンとした表情で真理子を見ている。店の奥から、何人かの従業員が出てきた。
「あの、お客様……」
チーフか何かだろうか、幾分年を取った男が、腰を低くして来た。ウェイターは困った表情で、チーフを見やる。
「なんでもないわ。こんな最低な店だとは思わなかった、それだけよ。和雄クン、行きましょう」
真理子は上着を取り、母の手を握り、姉と一緒にスタスタと店を出て行った。僕は席に座ったまま、三人を見送るようなカッコウになってしまった。店のドアが勢いよく閉まると、僕は我に返った。ウェイター、従業員、店の客の視線が一気に僕に向けられた。その恥ずかしさに死んでしまいそうになった。
「おい、どういうつもりだよ」
あわてて外に出て、駅に向かう三人に追いつくと、僕は肩で息をしながら真理子に言った。
「どういうつもりも何も、あのウェイターがいけないのよ」
「いや、でも……。それに母さん、どうしてメニューから選ばなかったのさ。恥ずかしい思いをしたじゃないか」
僕は未だ収まっていない彼女の怒りに恐れをなし、母に矛先を変えた。母さえナポリタンのことを言わなければ、問題はなかったのだ。姉がいるのも忘れてそう言ってしまった。
「和雄!」
姉のその言葉に、鉄拳が飛んでくる気配を感じ、僕は咄嗟に後ろへ下がる。しかし、鉄拳は飛んでこず、姉は俯いたままであった。
「和雄クン、お母さんのせいじゃないでしょう?」
真理子の言葉に僕はうなだれる。
「だいたい、あんな店を予約するのがいけないんじゃない。和食か何かにすれば良かったのよ」
「真理子だって喜んだじゃないか」
「ガッカリ。あんなお店だったなんて。それに和雄クンにもがっかりよ」
更にうなだれる。東京に来ても僕に味方はいなかった。
「ごめんなぁ、和雄。お母ちゃんが来たばっかりに、恥ずかしい思いさせてねえ。ごめんなぁ」
母はうなだれる僕の腕にそっと手をかけ、そう言った。
「どこか他のお店に行きましょう。私、怒ったらお腹、空いちゃった」
おどけた調子でそう言うと、真理子は姉と母を促した。
「そうだ、和雄クンのマンションの近くに喫茶店がありますよ。そこでナポリタン、食べましょう?」
「そんなに気をつかわんでください、真理子さん」
母は何度も頭を下げた。そして僕を見て、手招きをした。
「さあ、和雄も一緒に行こうね。おなか、空いてるだろ?」
「和雄、行きましょう」
姉は僕の肩をポンと叩いた。だんだん惨めになり、目頭が熱くなってきた。
「先、駅に行っててくれよ。オレ、店に忘れモンしちゃったよ」
「大事なものなの?」
姉は心配そうに僕を見る。無理に笑顔を作り、、平気だよ、スグにおいつくからさと言って真理子を呼んだ。
「悪い、タクシーであの喫茶店まで行っててくれよ」
サイフから金を出すと、彼女の手に握らせた。訝しげに僕を見て、金を受け取ると、時間かかることじゃないでしょう? と言った。
「うん、でもわからないや。今日はもう母さんたちに顔見せられないよ」
「一緒にいてあげなさいよね、少しでも多い時間。お母さんたち、和雄クンに会いにきたんだから」
「わかってるよ」
僕はクシャクシャになった煙草を、胸ポケットから出してくわえた。
「ゴメンな、真理子」
「気にしないで。早く戻って来て。待ってるから」
真理子はそう言い、母と姉のいる場所に小走りで戻っていった。二人は心配そうにこちらを見る。僕は笑って頷き、手を振った。
「待っててよ。ちゃんと行くからさ」
思えばまともな親孝行をしたことがなかったな。僕は三人が見えなくなるのを確認したあと、煙草に火をつけてボンヤリ考える。
姉を大事にしていた母を、恨みはしなかったが好きとも言えなかった。僕は父に見放され、母には諦められた子供だったんだと、ずっと考えていた。だから愛情を注がれなかったのだ。そして姉も僕をよそ者だと思っていたから、あんなに鉄拳をくれたのだ。そう僕は思っていた。
煙草の煙は、フラフラとゆらめいていたが、通り過ぎるクルマの勢いに煽られ、細い筋をすっと描いて流れた。僕は半分ほど吸うと煙草を落とし、大きく息を吐いて店に戻った。
「オーナーを出してください」
僕は出てきた従業員にそう言った。さっきもいた数組の客の視線が僕に刺さる。従業員も厄介者が来たという表情で僕を見た。
「お客様、先ほどは大変に失礼しました」
「別に気にしちゃいないんです。それよりオーナーを呼んでください」
「申し訳ございません。今日はオーナーが不在でして・・・・・・」
「じゃあ誰でもいいです。今日いる従業員で一番エラい人、呼んでください」
従業員は執拗な態度に呆れ、対処に困っていた。僕は別に文句をいいたいわけじゃない、ただちょっとお聞きしたいことがあるのだと言った。二人の問答を聞いていたのか、一人の男が来た。がっしりとした体格で、彫りの深い男は、自分はシェフの沖田という、と物腰柔らかに言った。そして先ほどはウチのウェイターが失礼をした。もしよろしければまた明日お越しいただけないか、と話し、どうぞ中のテーブルで話しましょうと席に座るように勧めてきた。
用件はすぐに済むからここでいいと丁重にそれを断った。
「沖田さんはナポリタンを知ってますか?」
沖田は困ったように笑い、知っていますと答える。
「僕はあのナポリタンというインチキイタリア料理が嫌いです。スパゲッティはナポリタンしかないと高校生まで思っていましたし、先週まではイタリアの家庭料理で、ナポリさんという人が作ったのが始まりだとも思っていました」
従業員と沖田は苦笑する。二人の後ろから見えるテーブルの客は僕の声が聞こえたのだろう、額をすりよせ、こちらをチラチラみながら話をし、クスクスと笑っていた。
ああ、みっともないなあ、オレ。あんなに恥ずかしい思いして、更にこんな事してら。僕は胸の中でそう思い、母の手の温もりと姉のスカートを思い出した。
「毎日のように母はナポリタンを作りました。僕と姉はそれをイヤというほど食べてきました。そして事あるごとに母はそんなデタラメな事を言ってました」
沖田は首をかしげ、何を言えばいいのか困った表情をしている。さっきのウェイターが料理を運びながらコチラを見ている。
「そんな母と姉が今日、五年ぶりに来たんです。姉は昔は女三四郎ってアダ名で、僕はよくブン殴られた。母は姉をかわいがって、僕にはあんまりかまってくれなかった。
姉は今度結婚するんですよ。それで今まで化粧もしたことないのに化粧して、履いたこともないスカート履いてきたんです。母は田舎育ちだからそんなに洒落たことが出来ない人です。それでも今日は無理してめかしこんで来て、足が悪いのにここまで来たんです。そんな日だったんですよ。それで僕はせめてもの親孝行と思ってここに来たんだ」
そこまで話すと頭の芯がチリチリと熱くなった。それで何を話していいのかわからなくなってきた。
「ナポリタン、嫌いなんですよ。高校時代に好きだった女の子に笑われて以来、あのベチャベチャなスパゲティを見ると胸ヤケがするんだ。それでも母は作るんですよ。なんとかの一つ覚えみたいに。文句を言うと姉貴の鉄拳をくらうからガマンして食べてましたよ。沖田さんもアナタも、ウエイターさんも誰だって食べたことあるでしょう」
沖田は神妙な面持ちで頷く。従業員もつられて人形のように頷いた。
「母親が作ってくれたでしょう? ケチャップで味付けした、あのぶよぶよに茹ですぎちまったパスタを、嬉しそうに食べたでしょう?」
沖田は頷く。僕は急にどうでも良くなってきた。これ以上喋ったらシラフなのに酔っ払いだと思わてしまう。
「ナポリタン食べたこと、ありますよね?」
僕はもう一度聞いた。沖田と従業員、そしていつの間にか沖田の横に立っていたウェイターも頷く。
「それだけが聞きたかったんです。お邪魔しました」
僕はそう言うとさっさと店を出た。ドア越しに笑い声が聞こえた。けれど僕は振り返りもせず、煙草をくわえて大通りまで歩き、タクシーを拾った。
しこたま酒を飲んだあと、僕はタクシーでマンションに帰ってきた。頭はじんじんとして、ノドはひりひりしている。マンションの入り口に誰かが立っているのが見え、タクシーが走り去るとこちらに歩いてきた。
「和雄クン」
その人影は僕が返事をすると、小走りに近づいてきて、真理子の姿になった。僕は煙草をくわえて、手を合わせた。
「ゴメン」
「どうしたの? 酔ってるの?]
[うん……。少し酔っ払ってる」
彼女は少し呆れた表情をした。
「待っても来ないから心配したわ。お母さんたちも心配してたのよ。ケイタイに電話しても出ないし」
「ああ、ケイタイか。捨てちゃった」
「えっ、捨てた?」
捨てたという記憶はあっても、どこでどうしたのか思い出せなかった。真理子はしょうがない人ねえと言って、僕の頬に手をあてる。ひんやりとした、彼女の冷たい手の感触が気持ち良かった。
「母さん、寝ちゃった?」
「さっきまで起きてたのよ。でももう遅いからって、お姉さんが寝かしたのよ」
それで私も遅いから帰ろうとしてたと真理子は言った。僕はぼんやりとマンションを見上げ、自分の部屋の明かりを眺めた。
「姉貴は起きてんだ」
「もう少し起きてるって」
「鉄拳飛ぶだろうなあ」
僕は真理子の手をそっと握り、またゴメンと言った。
「何しに戻ったの?」
「だから忘れ物取りに」
「ウソ。文句言いに戻ったんでしょう?」
僕は思い出した。あの玄関越しの笑い声。そしてふいに母が僕に謝る姿を思い出した。
「オレさあ、みっともないのよ。ケンカの一つでも出来りゃあいいのにさ、店に入ったら言えなかった。ただナポリタンは嫌いだってハナシしてさあ、それで、今日は大事な日だったって話して・・・・・・それから、・・・・・・ええっと、なんだっけ、な・・・・・・」
「もういいよ」
真理子はまた僕の頬をなでる。
「でもさ、言えば良かったんだよ、オレ。ナポリタン嬉しそうに食ってきたやつに、笑われたかないって。でもオレさ、途中で何言ってるんだかわかんなくなっちまってさ、出てきちまったの。テメエの母親バカにされてさ、そんな意味不明な事言って、出てきちまったんだ。それで笑われてさ。恥ずかしいよなあ。真理子に恥じかかせてさ、オレそんなことしか言えなかった」
僕は急に脱力して、その場にしゃがんでしまった。真理子は僕の横にしゃがんで僕の煙草に火をつけた。僕らはしばらく黙っていたが、真理子はふいに口を開いた。
「私ね、田舎が大嫌いだったの。大学受かってこっちに来てずっと帰らなかった。父も母も私はキライだった。だから二度と帰らない。あんな貧乏もうヤダと思ってたの」
僕は煙草をふかしながら初めて聞く彼女の身の上話を聞いた。真理子の家は貧乏で、ナポリタンでさえ御馳走であった。母は口の周りを真っ赤にして食べる彼女を寂しそうに見ていたそうだ。その記憶がいつまでもあって、ナポリタンを見るたびにあの頃を思い出した。だからナポリタンが嫌いだった。もうあんな生活はいやだと。だから一生懸命に働いておいしいもの一杯食べて、幸せになろうと、過去と田舎と、そして両親を捨てたのだ。真理子はそう言って寂しく笑った。
「先週まで和雄クンの家族に会おうなんて、これっぽっちも思っていなかった。でもね、和雄クンの部屋で見た、アルバムの一枚の写真を思い出したの」
その写真には母が縁側に座り、まだ中学生の姉と、小学生の僕が写っていた。姉と母は笑っていたが、僕は眉間に皺を寄せて母と姉の前に仁王立ちのように立っている、少し色あせた写真であった。
「あれ見てね、すごく暖かく感じたの。お母さんは和雄クンの事、ちゃあんと愛してたのよ」
僕はうなだれてあの写真を思い出す。
「そうかなあ」
「だって、お母さん、カメラじゃなくて和雄クンを見て微笑んでいたもの」
その言葉は、あの写真を写した時の記憶を僕の中に鮮明に蘇らせた。
「和雄は頼もしいねえ」
腰にさしたオモチャの刀は、僕の体には大きく、カメラマンのおじさんを笑わせた。それでも僕は大きく胸をそらし、姉と母の前で叫んだのだ。
「僕、お姉ちゃんとお母ちゃん守るんだ」
その姿を見て母は微笑み、僕の肩に手をそっと置いて、
「和雄がいれば安心だねえ」
と言ったのだった。
「それで和雄クンのお母さんに会いたくなったの。ううん、もしかしたら私は自分のお母さんに会いたいのかもしれないな」
僕の母と、自分の母親をダブらせた真理子はあの店ではっきりと自覚した。自分は母の愛情を忘れていたと。
「バカよねえ。母や父がいけないわけじゃないのにね」
真理子はそう言って空を見上げた。
「今度田舎に帰ろうと思うの。どんなに着飾ったって、お金稼いでおいしいもの食べたって、あのナポリタンにかなわないわ」
「オレは嫌いだよ。ナポリタン」
僕はそう言って煙草を投げた。そして上着を脱いで真理子の肩にかけた。酔いが段々と冷めてくる。そして頭の中ははっきりとしてきた。
「ちぇっ、姉貴に殴られすぎて、忘れてることが多すぎら」
真理子は小さく笑って、そうかもねと返した。
「和雄クンだってお母さんやお姉さんの事、好きなんでしょう?」
「好きじゃないよ」
僕は口を尖らせ、煙草をふかした。
「じゃなかったら店に戻らなかったでしょう」
「……」
「良かった」
真理子はそう言って立ち上がった。そして肩にかけた上着を返した。僕はそれを受け取り、何が良かったのか聞いた。けれど彼女は微笑むだけで答えなかった。
「あら、ネクタイ、どうしたの?」
「え?」
「私があげたあのネクタイ。今日してたじゃない。どうしたの?」
僕はネクタイをしていないのに気がつく。そして何処で取ったか思い出そうとした。
「ゴメン、どこで取ったかなあ」
「しょうがないなあ」
別段怒った口調ではなく、真理子はまたネクタイ買ってあげると言った。
「じゃあ、帰るね」
「なあ、真理子。さっきの良かったって、何の意味だよ」
真理子は振り返り、にっこりと笑った。
「やさしい和雄クンを好きになって良かったのよ」
手を振り、また明日ね、と言うと真理子は駅に向かった。僕は腕時計を見た。十二時少し前。終電には間に合うだろうな、僕はそうぼんやりと考えながら、つけてもいないネクタイを緩めようとして喉をひっかいた。
玄関を開けると部屋の中はいやに静かだった。けれど電気は点いていて、僕は奥の部屋を覗こうとした。その時に僕はいきなりパシンと頭をはたかれた。びっくりして横を見ると姉が立っていた。もうスカートは履いてなかった。
「遅かったじゃないの」
「ごめん。ちょっと友達に会っちゃってさ、無理矢理飲みにつきあわされちゃって。人の話聞かないんだよね。もう強引で」
僕はヘタな嘘をつき、姉に手を合わせ、本当にゴメンと言った。
「母さん、寝ちゃったよな」
「ついさっきまで起きてたのよ。アンタを待って」
僕は姉に促され、靴を脱いで居間に入った。上着を脱ぎ、いつもの定位置に腰を降ろした。姉は台所に行って、冷蔵庫から缶ビールとミネラルウォーターのボトルを持って来た。
「アンタは水ね」
姉はグラスに並々と水を注ぎ、目の前に置いた。僕は水を一気に飲み干す。冷たい水は胃袋まで素早く流れ、熱くなっていた喉をじんわりと冷ましてくれた。姉は缶ビールを開けて一口飲み、僕のグラスにまた水を注いだ。
「姉貴、酒飲むんだ」
「少しだけよ。一本は飲めないわ」
「じゃあそれ、勿体ないじゃないか」
寝るときにアンタが飲めば。姉はそう言ってまた一口ビールを飲んだ。
沈黙。
僕は煙草を胸ポケットから出す。セブンスターはもうあと一本しか残っていなかった。舌打ちして煙草をくわえると、火をつけないでユラユラと揺らした。
「ナポリタン、食ったの?」
僕の問いに姉は頷いた。
「真理子さん、いい人ね」
「そう? アイツ仕事は出来るけど料理はからきしダメなんだ」
なんか会話がチグハグになる。昔から姉と二人きりの状況で、こんなふうに話したことがない。それにまだ残っている酔いと、疲労感で余計ぎこちなくなる。
「なあ、なんで母さんはナポリタンしか作らないし、食べないのかな。それにイタリアじゃ家庭料理だの、ナポリさんていう人が作ったのが始まりだのデタラメ言ってたんだろう」
僕はもう一杯水を飲み、姉に聞いた。
「知らなかったの?」
「何が?」
「あれ、本当の話なのよ」
「は?」
グラスを手にしたまま、姉の言葉に間抜けな表情で答えた。
「ウソだろう。だってイタリアじゃあナポリタンなんてないぜ」
「母さんにとっては、本当なのよ」
昭和二十五年ごろ、幼い子供だった母は貧乏だった。ばあちゃんと二人きりで、薄い塗炭で作った、小屋のような家に住んでいた。その日の食事もままならない状況で、ばあちゃんはなんとか内職やら賄いをして金を稼いだ。それでも食欲旺盛な子供を育てるのは難しく、毎日ひもじい思いをしていた。
そんな時、ばあちゃんと母の住む隣に一人の男が住み始めた。
自分は昔料理の修行をしにイタリアへ行っていた。その時に食べた料理の一つを作ってあげよう。そう言ってその男は、どこからか調達した材料で、ある料理を作った。うどんにトマトをすりつぶしたソースをからませ、キャベツやネギの残り物を混ぜたもの。
「いいかい、これはイタリアの家庭料理なんだよ。家族を愛し、食べることを愛し、平和を愛した、イタリアの料理なんだ。これを食べて元気に育って、家族を愛し、食べることを愛し、平和を愛するオトナになっておくれ」
そう前口上を言うと、男は満面の笑みを浮かべ、母が食べる姿を見ていたそうだ。時折母を家に呼んで、その料理を食べさせてくれた。その度にうどんはソバになったり、小麦粉を練って作った太さのまばらなメンにもなった。具もタマネギやきゅうり、じゃがいもと変わった。母はあるとき男にこの料理の名前を聞いた。男はにっこりと笑ってこう答えたそうである。
「ナポリタンという料理なんだよ」
ナポリタン。それは母にとって大切な料理だった。見ず知らずの男は、母の為に作ってくれた。いつしか母の中で、決して名前を明かさなかったという男の名はナポリさんとなっていた。単純にナポリタンを作ってくれたからという理由なのだが、ナポリタンを作る、ナポリさんになっていた。
半年も経たぬうちに、男は突然姿を消した。近所では実は犯罪者だったとか、借金で夜逃げしたという、ウソか本当かわからない噂が流れた。けれど母はそれをウソだと固く信じていた。あの笑みはまぎれもない善人の笑顔だったと、母は今でも信じているのだ。
あの時ナポリさんがいなかったら、私は餓死していたかもしれない。それぐらい貧しかったのだ。姉にナポリタンを作る度にそう言っていたそうだ。
「忘れちゃいけないのよ。たとえそれがデタラメだとしても、恩人の事を悪く言っちゃいけないよ。そしてその恩は忘れちゃいけないのよ。お母さんはね、こうしてナポリタンを食べることで、あのおじさんを忘れないようにしているのよ」
姉はもうすっかり覚えてしまったその母の決まり文句を話した。頬はビールのせいか、ほんのりと紅くなっている。僕はアゴをテーブルにのせ、煙草をくわえたまま、グラスを眺めてじっとその話を聞いていた。
「オレにはなんにも教えてくれなかったじゃないか」
「私、話したことあると思っていたのに」
「姉貴が殴りすぎるから、色々な事、忘れちまってるよ」
僕はそう言って煙草に火をつけた。煙はゆるゆると蛍光灯に向かって昇って行く。
「ナポリタン、おいしかったか?」
「おいしかったわよ。お母さんもおいしそうに食べてたわ」
「良かった」
僕はそう答えると、まだ半分も残っている煙草を灰皿におしつけて消した。
「真理子さんね」
「真理子がどうしたの?」
姉はふふっと笑うとビールを一口飲み、空になってしまった僕のグラスに注いだ。
「泣きながらナポリタン、食べてたのよ」
ふうん。僕は気のない返事をしながら、泣きながらナポリタンをほお張る、真理子を想像した。その姿はすごく可愛くて、なんだかその姿を見たかったなと思った。
「じゃあ、私も寝るわ」
「明日、何時に帰るの? どっか一緒に行こうよ」
そうね、どこかに出掛けようね。そう相槌を打つと、姉はミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫にしまいに立ち上がった。
「なあ姉貴」
「なに?」
「佐倉さんとはどうやって付き合い始めたんだい?」
姉は柱に寄りかかり、腕を組んで僕を見やる。
「アンタは真理子さんと、どうやって付き合い始めたのよ」
まずはアンタから言いなさいよ。そうしたら教えて上げる。姉は口元に悪戯っぽい微笑を浮かべてみせた。
「ちぇっ、大人はキタネェな」
なんだか姉とこんな話をするのが嬉しくなってきて、僕ははしゃぎたくなってきた。姉は笑いながら早く答えろとせっついてきた。
「言わねえよ、ゼッタイに」
「じゃあ私も言わないよ」
僕らは声を立てず、くすくすと笑い、そのうちね、とお互いに言った。
「これだけは聞かせろよ。佐倉さんのどこが気に入ったわけ?」
僕はまた灰皿から長い吸い殻を取る。姉はしばらく黙っていたが、小さい声でポツリと、
「やさしいところよ」と答えた。
「陳腐だな」
僕は小さく笑い、姉を見た。姉はまるで恋する中学生のように恥じらい、はにかんでいた。
「佐倉さんに鉄拳くらわしたらいけないぜ。あの人、華奢だから死んじゃうよ」
「バカ」
姉はこつんと僕の頭を軽く叩き、おやすみと言った。
「あ、姉貴」
「なに? 今度は」
「おめでとう。結婚式、ちゃんと帰るよ」
姉が寝たあと、残ったビ−ルをちびちび飲みながら、色々な事を考える。真理子の事、姉の事、仕事の事、母の事。それらはぐるぐると回って、最後には必ず、ナポリさんという見たこともない男に辿りついた。多分ナポリさんの作ったナポリタンなんて、今ならとても食べれたシロモノじゃないだろう。うどんにトマトのすりつぶしだけならまだわかるけど、それにネギやキャベツじゃ、焼きうどんのほうがよっぽどマシだ。なのにナポリさんはなんでナポリタンにこだわったのだろうか。
いつしか僕の中で色んな事をさしおいてその事だけで一杯になっていた。ナポリさんのナポリタン。出来損ないのダジャレみたいな言葉を、僕はぶつぶつと言いながら、灰皿から吸い殻をつまみ取り、火をつけて吸った。
「忘れちゃいけないよ、か」
母の言葉を思い出す。恩を忘れてはいけない。そう母は確かに言っていた。僕は忘れかけていた母の言葉を、頼りない記憶の中からかき集めた。その中には圧倒的な数量でこの言葉があった。
「恩を、忘れちゃ、いけない」
また口に出し、今度はゆっくりとつぶやく。
母にとってナポリさんに恩があると同じように、僕にとって誰に恩があるのだろうか。僕が誰かに対して忘れてはいけない恩。それは真理子への恩だろうし、僕を殴り続けた姉への恩だろう。でも結局、恩の始まりは母なのだ。いや、やはりナポリさんかもしれない。母にナポリタンを食べさせてくれたからこそ、母は生き延び、父と結婚し、僕を生んでくれたのだから。
酔ったアタマは思考をとめどなく、不確かに回り続ける。そしていつしかナポリさんは遠い思考の隅に貼りつき、頭の中心には足をさすりながら台所に立つ母がいた。
母が僕を産んでくれなければ、僕は鉄拳をくらわずにすんだろう。高校時代好きな女性の前で恥ずかしい思いをせずにすんだろう。卒業間際にフラれてヤケ酒を飲み、二日酔いで教師の田中に五時間も説教をされなくてすんだろう。イヤミな部長の、ミスをあげつらう小言を聞かずにすんだろう。
けれど。
それ以上に僕は産まれたからこそ、母の息子の和雄として産まれたからこそ、優しい人に知り合ったはずだ。和雄だからこそ、出来たことがあったはずだ。真理子という女性にも会えなかった。そして何よりもナポリタンを愛し、姉を愛し、僕を愛してくれる母に会えなかっただろう。
「忘れない事。それは出来そうで出来ない当たり前のこと」
母の言葉を思い出す。僕はソファに座り、天井を仰ぎながらその言葉もつぶやいてみる。そしてしばらくそのままの姿勢で思いをめぐらせる。おもむろに僕はソファから降り、隣の部屋で寝ている母に向かって正座した。そして僕は襖越しに寝ている、母のやさしい寝顔を思い浮かべた。
「母さん、僕を産んでくれて、ありがとうございました」
部屋の中は静まり返り、外から微かにサイレンの音が聞こえてきた。
電話のベルが鳴り、僕はソファから転げ落ちるようにして起きた。眩しいくらいの陽光は部屋一杯に広がり、僕は汗をかいていた。寝ぼけながら電話の受話器を取ると、ひどい雑音が耳の奥に突き刺さる。
「もしもし?」
僕はハデに寝癖のついた髪の毛をばりばりとかきながら、しゃがれ声で言った。
「もしもし、和雄? 起きた?」
その声は姉であった。僕は気の抜けた返事をして、なんで隣の部屋で寝ている姉が電話をしてきているのだろうと考えた。
「姉貴、どこにいるの?」
「どこって、東京駅に決まってるでしょ」
「東京駅?」
僕は目をこすりながら壁掛け時計を見る。時計の針は十二時三〇分を回っていた。一気に目がさめる。姉になんで起こさなかったのかと叫び、まだ帰らなくても大丈夫だろうと怒鳴った。
「お母さんがね、和雄に申し訳ないっていうから」
「何だよそれ。帰るなら帰るで、起こしてくれりゃあいいんだ」
僕は受話器を肩にかけたまま、パジャマを脱ぎ、ジーンズを手探りで探した。
「お母さんが疲れてるだろうから、起こさなくていいっていうから。アンタ気持ち良さそうに寝てたし」
あのなあ。呆れたようにそう言い、ジーパンを履いた。肩から受話器が落ちそうになる。
「和雄かい?」
受話器を慌てて取り直し、耳に押し付ける。母の声は昨日よりハリがある。
「母さん、どうして起こしてくれんかったの?」
僕は壁にかけてあるジャンパーを取り、袖を通した。
「和雄には迷惑かけてしまってごめんなぁ」
「何言ってるんだよ。息子だぜ、迷惑かけたっていいんだよ」
僕は絶対に電車には乗るな、すぐそこに行くと言った。
「もうすぐ電車が来るから」
「だから乗るなよ。昼飯ぐらい一緒に食べようよ」
僕は玄関まで小走りし、靴を出す。
「もしもし? 和雄クン?」
ふいに真理子の声が聞こえた。雑音が入るのは真理子のケイタイだったからだ。どうしてそこにいるのか、早口でまくしたてた。
「朝、和雄クンの所に行ったら、丁度お姉さんとお母さんが出てきて、用事があってもう帰りますって」
「用事なんてないよ。それにあったとしても田舎の用事なんてたいしたことじゃないんだ。息子の用事の方が大事だろう?」
受話器の向こうでアナウンスが聞こえ、真理子は戸惑いながら、母と姉を呼び止めているのが聞こえてきた。
ああもうラチがあかない。僕はそうつぶやき、とにかく電車に乗せるな、すぐに行くからと告げた。
「和雄?」
「なんだよ、姉さん」
「台所にお母さんが作ったお昼があるから、それ食べなさいよ」
「バカ、小学生の留守番じゃないんだ」
けたたましい発車ベルが聞こえてきた。
「じゃあね、和雄」
母の声はそう言うと遠のいていく。途中、真理子に何かを言ったようだったが、僕にはそれがはっきりとは聞こえなかった。受話器に向かって怒鳴る。電車の動く音。
「ごめんなさい、二人とも電車に乗っちゃった」
ああっ、もう! 僕は履きかけの靴を蹴っ飛ばし、その場にしゃがんだ。何勝手やるんだよ。今日は一緒にメシ食おうなんて思って、どこに行くか一生懸命考えたのに。それでお土産はあれがいいなんて考えたのに。どうして何も言わないで帰るんだ。僕はそう思い、受話器を投げ付けようとした。受話器からはまだ声が聞こえてきた。真理子の声だ。
「和雄クン、知らなかったんだ」
応答した僕に彼女は力なくそう言い、謝ってきた。部屋に戻りながら、どうせ和雄にはちゃんと話してあるから、と言われたんだろう、謝ることじゃないよと言った。
「ごめんね」
「いや、もういいよ」
台所に行き、冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターをボトルのままラッパ飲みした。
「和雄クン、お昼、まだでしょ?」
周囲のざわめきが遠くなっていくのが聞こえる。僕は曖昧な返事をしながら、テーブルを見る。
「ねえ、一緒に食べない? 今からそっちに行くから」
「ああ、そうだな。ウチ来いよ。メシ、一緒に食おうか」
僕はテーブルの上にある手紙を読み、真理子にそう言った。
真理子は考える間もなく、即座に答えた。そして三十分ほどでそっちに行けると答えた。
「ああ、そうだ。来るときにスーパーに寄って買い物してきてよ」
「いいわよ。何を買ってくるの?」
鞄を探り、手帳を探す音が聞こえてくる。僕はその音を聞きながら、クスクスと笑った。真理子は怪訝そうな声で僕に聞いて来る。
「何笑ってるの?」
「ああ、ゴメンゴメン。何でもないから」
僕は手紙を置き、母が作ってくれたという、昼食を見た。確認をすると、僕はまた手紙に視線を落とした。
和雄へ
昨日はオマエに会えて良かったよ。身体にだけは気をつけて仕事頑張っておくれ。
彰子の結婚式には真理子さん連れて、必ず戻っておいで。母さん、楽しみにしてるよ。
お昼、ナポリサンを作りました。
それを暖めて食べなさいね。
母より
馬鹿だなあ、慌てて書くから、ナポリタンがナポリサンになってるじゃないか。僕は口元に笑みを浮かべた。
「どうしたの和雄クン。黙っちゃって」
真理子が心配そうに聞いてきた。
「ゴメン。じゃあ今から言うぜ。よく聞いてくれよな」
「いいから早く」
「はいはい。じゃ行くよ。タマネギとピーマン。これは少し多めに買って来て。それとハムも多めにね。トマトケチャップにサラダ油。ケチャップは安いやつでいいよ。一本ね。サラダ油は小さいやつね。あとスパゲティ。これは二袋ほしいな。そうそうあと真理子に似合うエプロンな」
「うるさくてよく聞こえないの。もう一度ゆっくりと言ってくれる?」
「いいよ。じゃあゆっくりと言うぜ」
たまねぎと、ピーマン、それとハム。少し多めに。トマトケチャップとサラダ油。サラダ油は小さいの。あとはスパゲティを二袋と……。
(了)
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