同じ月を見ている

私の父は単身赴任で遠くにいます。普段はあまり話さない親子でしたが、やはり父がいないと家は寂しい。でもある日の夜、父は電話をかけてきて私に窓から外を見てくれといいました。
「なあ、月見えるか?」
「うん、見えるよ」
「お互い離れているけど、夜月が見えたら見ていろよ。父さんも見るから。離れてはいるけど同じ月を見てるんだ」
その日から私は夜空に月が見えるとそれを見るようになりました。遠い場所で父も同じ月を見ているのですから。
 遅い、真夜中の道で車を走らせているとラジオからそんなリスナーの葉書が内容が聞こえてきた。僕は煙草をくわえたままそれをじっと聞き、そしてあぁ、出来過ぎた話だなと思う反面、いい話だなと思っていた。泣き虫の僕は開発途中のニュータウンの一角で車を止め、鼻をすすった。

 初めて車で(しかも一人っきりで)遠出をした時、僕は彼女と同じ思いで夜空の月を眺めた記憶がある。相手は別に父親でもなければ母親でもない。ましてや恋人でもない。特定ではない、多くの友人を思いながら月を見ていた。
 この空はあのトモダチの住む場所に続いてるんだな。
 そんなロマンチックな感傷に浸った。それは一人で遠い、知らない町にいるという感情がもたらしたものなのかもしれない。で、ここでその時の紀行文を長々と書く気はさらさらない。あしからず。
 僕は月を見るのが好きである。その昔、本屋の帰りに満月がきれいで、僕はそそくさと家に帰り、母親に「月を見にドライブしてくるわ」と伝言をして車で走りに行ったことがある。大事な友人との約束をすっかり忘れて、である。当時は携帯電話やポケベルなんてもの持つご身分じゃなかったから友人はさぞかしヤキモキしたことだろう。で、僕が車をいつも行く秘密の場所に止めて月をみながらカンコーヒーを飲み、煙草をふかしていた時、友人は自宅に電話をする。するとウチの母親はご丁寧にもその友人に、
「月がキレイだからドライブに行ってくると言って出掛けました」と教えた。
 その後の友情にヒビは入らなかったが、その時の友人の怒りはご想像におまかせする。ともあれ僕は夜になると活動する夜行性の男であるから月が出ていようものなら大変なんである。
 月にまつわるエピソードは腐るほどある。前述の友人以外にお付き合いさせて頂いた女性にも同じような事をやらかして泣かしたこともあるし、興味もないと言っていた友人を無理矢理朝まで月を一緒に眺めて(彼にとっては苦痛であったろう)小説の話を延々とした事もある。
 伝言も残さないで家をそっと抜けて土手で月を眺めていたら家のカギを忘れて締め出しをくったこともある。まあキリがない。
 何がそんなに月にひかれるのか。僕には説明するほどの言葉と理由をこれっぽっちも持っていない。夜景をキレイだと思って眺めたこともないオトコが月や星には異様に興味を持つのである。少し頭がヘンだと言われても仕方がない。
 月は世界中で同じである。アメリカの月は特別で日本の僕らが見ている月とは違う。なんて話を聞いたことはないから多分同じである。そこに僕は魅力を感じているのかもしれない。どんなに離れていようが同じ時間(海外だと違うけど)に共通のものが見れるのは月だけである。こんなにロマンチックなこと、他にあるだろうか。あるかもしれないけど僕はこれしかないと勝手に断言する。
 月には癒しの効果がある。少なくとも僕には。
 そしてその誰も住んでいない(だろう)星としての寿命を全うしてしまった月は何故か僕に勇気と希望を与えてくれるのだ。

 で、ラジオを聞いていた僕はいそいそと缶コーヒーを買って月を眺めようと空を見上げた。
 月は満月で、透き通った淡い黄色で僕を照らしていた。
 なんて都合よくいくわけないよなあ。その日は分厚い雲が空を覆っていたんだから。

(了)

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