ゆるやかな失速

ああ、許してください。許して下さい。
 私は実に罪深いことをしてしまいました。よもやこんなことになろうとは、私は想像すらしていませんでした。
 いえ、私はわかっていたはずです。私はこうなるであろう事をわかっていたにもかかわらず、その禁断の実を食べてしまったのです。 ああ、どうか許してください。
 この世になんらかの救いが存在するならば
この私のその深き罪業を拭い去ってしまいたいのです。
 ああ、この世にもし救いがないのであるならば、私は自身の罪の重さに平伏し、胸を地獄の業火に焼き焦がされるのみなのです。この胸を焦がし続けるその罪を、どうぞ消し去る法を教えてください。
 ああ、許してください。許してください。
 この私の罪を、どうか神や仏がいるのならば拭い去り、救ってください。

 副島康雄はなぐり書きされたその文面を何度も読み返すと深く溜息をついた。そして眼鏡をはずし、こめかみのあたりを揉むと椅子に凭れた。
 外は依然として雨が降り続き、風が強いのか裸木の枝がしなっているのが見える。副島は薄い大学ノートの文面をもう一度見たあと、窓の景色に目を向けた。
「罪を消し去る法……か」
 副島はゆっくりとした動作で煙草に火をつけると冷めきった紅茶を口に運んだ。
「あなた、松田さんがお見えになったわよ」
 ドアの向こうから妻の良子の声がした。副島は少し間をおいてからああ、今行くよと返事をした。良子の足音が遠のくと、副島は白くなりはじめた髪をなぜつけると大学ノートと眼鏡を持つと書斎を出た。

「待たせたね」
 副島が部屋に入ると松田幸一は軽くお辞儀をした。仕立てのよさそうなスーツは微かな衣擦れの音をたてた。
「お忙しいところすいません」
 松田は眼鏡を押し上げると少し首をかしげてみせた。
「いや、かまわんよ」
 副島はソファに腰掛けると大学ノートをテーブルの上に置いた。松田は口元に微かな笑みを浮かべたが、目は笑っていなかった。
「罪を消し去る法はないか聞きたいのかい?」「いえ、それは僕や教授の領域ではないでしょう」
「じゃあ、これは?」
「一言でいってしまえば贖罪でしょうね」
「神に対しての贖罪というわけか」
 副島は良子が持ってきた紅茶に角砂糖を一つ入れるとスプーンでかきまぜた。
「なかなかやまないですね。なんだか降りが激しくなってきている」
 独り言のようにつぶやくと松田は窓をみやった。しばらくの間窓を凝視したあと、松田はゆっくりと口を開いた。
「それは神山哲治自身の良心に対しての贖罪なのです」
「書いた本人の良心に対しての?」
「正確に言えば人間の良心への贖罪なのかもしれません」
 松田はちらりとドアの方を見ると副島のほうにゆっくりと顔を向けた。
「人間の良心に対しての贖罪?」
 副島は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙をはいた。
「ことのあらましを話すのは多少なりともお時間がかかります。それと僕の話すことは誰にも聞かれたくないのですが」
 松田はそう言うとまた、ドアをちらりと見た。
「どうしてだね」
「僕達の事を告白することは僕自身の贖罪になるからです」
 副島は煙草を消すと腕を組み、しばらくの間沈黙した。松田はそんな副島の姿を意に介するふうもなく話し始めた。
 外は依然として雨が強く降り続けている。

 暦ではもう秋だというのにその日は盛夏のような陽光であった。病室のベッドで週刊誌とにらめっこしていた松田幸一はあまりの日差しの暑さにカーテンを閉めてしまったほどであった。
 二カ月前からいやに喉が渇き、体がだるくてしかたがなかった松田は仕事が一段落ついた夏の終わりに病院へ行き、糖尿病であると診断された。食事療法で済む問題ではなく、松田はそのまま入院となった。医者は仕事で不規則な生活になったためだと言い、少し規則正しい生活のリズムをつけてくださいと注意を促した。松田はほんの少しの入院と思っていたので、長くかかると知った時はがっかりして塞ぎこんでしまった程であった。
「全く入院生活には辟易してしまうよ」
 入院して一週間が経ったその日、見舞いに来てくれた神山哲治にそう言うと松田は高笑いをした。
「今日はやけに暑い」
 神山は椅子に腰掛けるとここに来るまでに暑さで参りそうだったと話した。松田は読んでいた週刊誌をベッドの上に放ると相槌を打った。
「いや、ここに来るまでの坂なんてきつかったろう?」
「おお、途中でクラクラした」
 何か冷たいものでも飲みたいよ。そう神山が言うと松田は面談室に行こうと促した。二人は並んで廊下を歩いた。
 二人はとにかく目立つコンビであった。スポーツマンの典型のような風貌の松田にくらべ、神山は優男ふうな顔立ちでおとなしい文学青年といった風貌であった。外見だけ比べてしまえば妙な取り合わせであったが、大学のゼミで知り合った二人は何故か意気投合し、よく二人で食堂に行ったり遊びに行ったりしていた。松田は出版社に、神山は大学院に進み、と進路は別々になったが連絡を取り合っていた。
「とにかく病院食にはうんざりだよ。ラーメンが食いたくて仕方ない」
「そんな事言ってたら退院なんてすぐに出来やしないぜ」
 神山は煙草をふかすと笑いながら松田をたしなめた。松田は冷たい烏龍茶を二本買うと神山に渡した。
「おまえだっていつかかるかもしれんぞ」
「俺は大丈夫さ。ちゃんと規則正しく生活をしてるし、食事も気をつけてる」
「ちぇっ、そういうとこはしっかりしてやがる」
「ほめてもらって光栄だよ」
 神山は笑うと烏龍茶を一口飲んだ。松田は煙草をくれと神山に催促した。
「おい、医者に注意されてんだろう?」
「いいよ、一本ぐらい。どうってことないだろう」
 全くといいながら神山は煙草を差し出した。火をつけ、ゆっくりと一口吸うと松田は笑った。
「煙草がうまいよ」
「そういや小百合さんはどうした?」
 ほお杖をついて煙草を吸うのを眺めていた神山はそう聞いた。松田はおお、そうだったと言うと二時にここに来ることになっていると神山に告げた。
「なんだ、もうすぐ来るじゃないか」
 腕時計を見ると神山はじゃあすぐに帰るよと言った。
「何言ってるんだ。今来たばかりじゃないか」「そうだけど、小百合さんが苦手なのはお前もよく知っているだろう」
「そりゃそうだが……」
「それに煙草を吸わせたのは神山さんねと説教されるのはかなわない」
 神山は煙草を消すと悪戯っぽく笑い、肩をすくめてみせた。
「ここにいたのね」
 ふいの言葉に二人は後ろを振り向いた。そこには沢村小百合が立っていた。
「まあ、煙草なんて吸って……医者に止められてるはずでしょう?」
 あ、と言うと松田はバツの悪そうな顔で煙草を消した。
「すまん、すまん。つい吸いたくなってね」
「どうせ神山さんが上げたんでしょう」
 そらきたと神山は小さい声で言うと苦笑して見せた。
「いや、違うよ。僕が催促したんだ」
 松田は笑いながら神山の肩を叩くと小百合に座るよう促した。
 小百合は松田の横に腰掛けた。その時、神山と松田の甘い微香が鼻をくすぐった。
 沢村小百合はとにかく美しいという表現が一番似合う女性であった。端正で男好きする顔は誰でもはっと思うであろうし、体のせんも細く、しなやかであった。おとなしく古風な性格は多少の尖った口調すら愛嬌にもした。「何か飲むかい?」
 松田は小百合に聞いた。小百合は私も冷たい烏龍茶がほしいと言った。
「じゃあ僕が買ってこよう」
 神山はそう言うと自販機のほうに歩いた。
「神山さん、研究忙しいの?」
 渡された烏龍茶をテーブルに置くと小百合は神山の方を見ながら言った。
「いやあ、たいした事ないです。ただ本ばかり読んでますよ」
「副島教授は厳しい人って聞いたものですから」
「そうそう、教授は厳しいよな」
 ああ、まあね。神山は苦笑して頷いた。
「ああ、もう研究室に戻る時間だ」
「なんだ、今日日曜じゃないか」
 松田は腕組みをして表情を曇らせた。小百合も相槌を打ち、せっかく来てくれたのにと言った。
「いやあ、明日までに資料の作成を教授に頼まれててね」
 神山はすまんなというと立ち上がった。
「ごめんなさいね。さっきは疑ってしまって」 小百合は申し訳なさそうに謝った。神山は笑っていやいいんですよ、渡すほうもいけないと言った。
「なあ、今日はもう来れないか?」
 面談室を三人揃って出るとエレベーターの所まで歩いた。
「うーん……遅くなってしまうよ。来るとしたら」
「いや、遅くてもかまわんよ。来れるか?」
 少し困った表情をしている神山を見ると小百合は松田をたしなめた。
「どうせくだらない話の相手をさせようとしてるのでしょう?それだったら神山さんがかわいそうだわ」
「いや、どうにも話し相手がいなくてつまらない。どうせ話すなら神山と話したいんだ」
「まったく、何の話だか」
 小百合は呆れた顔で松田を見た。松田は笑みを浮かべて神山に促した。
「わかったよ。来れたら来る。不確定な返事だが」
 エレベーターに乗ると神山はじゃあと言った。
「待ってるぞ」
 扉が閉まる直前にもう一度松田はそう言った。

「教授も知っての通り、この日は何もなかったんです。資料作成なんてものもなかった。神山には帰る理由はなにもなかった」
 松田は眼鏡を指で軽く押し上げると紅茶を飲んだ。
「じゃあ神山君は何故そんな嘘をついたのかね。小百合君が苦手だからか?」
 副島は笑いながら煙草を口にくわえた。松田は唇の片端に笑みを浮かべた。
「まあ、確かに苦手だったというのもあるでしょうが、他にも理由があったのです」
「ほかの理由?」
 松田はティーカップを持ったまま立ち上がると窓のほうに向かって歩いた。
「それは追々わかることです」
 窓辺に立ったまま紅茶を飲むとふっと短い息をはき、松田はしばらく外を見ていた。
「この紅茶はおいしいですね。奥様は紅茶のいれかたがお上手だ。僕の妻でさえこんなにうまくはいれられない」
 副島の方を見やると小さく笑った。そしてもう一杯頂けませんかと言うとソファに腰掛けた。
 副島の妻が紅茶をいれている間、松田はさかんに紅茶のいれかたを聞いていた。副島は少しイライラした表情のまま、煙草をふかしていた。
「神山は教授のゼミの中でも特に優秀な男だった。神山の書くレポートは実に素晴らしかった。この僕でさえ舌を巻くほどでした」
 妻の良子が出ていくと松田は紅茶を一口飲んで話しはじめた。
「ああ、確かに優秀な生徒だったよ。あのままいけば若くして教授にもなれたろうに」
 副島は神妙な顔付きで松田を見た。
「あの日、神山が来たのは他でもない。僕が頼んだのですよ。『是非君に話したい事がある』と」

 その日の夜、松田の病室に神山は来た。もうすぐ消灯という時間で、神山は幾分申し訳なさそうな表情であった。
「すまんな」
「いや、かまわんよ。こっちこそすまなかった。無理を言ってな」
 松田は下のロビーに行って話そうじゃないかと神山を促した。
 ロビーに来ると神山は飲み物を買ってテーブルの上に置いた。
「こっちが何も入ってない。松田用だ」
「ちぇっ、味もありゃあしない」
 松田はコーヒーを一口飲むと肩をすくめておどけて言った。
「それより、一体何だ?話があるって」
「相談とは他でもない。僕はこの病院を脱走しようと思う」
「脱走?」
 神山はいささかぎょっとした表情で松田を見た。
「このまま入院していたら気が狂いそうだ」「でもまだ完全に治っていないんだろう」
 神山は身を乗り出し、松田にささやくように言った。
「確かにそうだ。でもね、食事と生活リズムさえ気をつけていれば病状を抑えることも出来る」
「今の会社じゃそれもままならないじゃないか」
 神山は呆れたように言った。
「今の会社はやめる。他の仕事をみつけて無理ないようにする。そうすればおのずと食事だってきちんととれる」
 しばらくの間、神山は呆れた表情で松田をみつめ、仕様のない奴だなとつぶやいた。
「ああ、そういやあ君、京子さんとはうまくいってるのかい?」
「なんだい急に」
 はっとした表情をして神山は一口コーヒーを飲んだ。
「ちょっと小耳にはさんでね。京子さんとうまくいってないとね。それで心配になった」
「……結婚するそうだ。僕とはもう終わったよ」
「そうか……」
 松田はしばらくの間黙ったまま、腕を組んだ。沈黙に耐えられないといったふうに神山は煙草を口にして話し始めた。
「相手は副島教授の御子息の良平さんだ。彼女にとってはいい選択かもしれんよ」
 松田は神山から一本煙草をもらうと火をつけ、ゆっくりと吸った。
「君はそれでいいのかい?」
「僕にどうしろというんだい?」
 神山は溜息をつくと煙草に火をつけた。
「とりたてて何かが優れてる訳でもない、この僕が良平さんに勝てるはずがないよ」
「そうとも限らないだろう。君はそうやって勝負をしないうちにあきらめてしまう。それは悪いクセだ」
 松田はコーヒーを飲むと顔をしかめた。
「こいつは苦くてたまらんよ。烏龍茶にしよう」
 神山は無言のまま烏龍茶を買うと松田に渡した。
「ただひたすらに論文を書き続けるしか今は出来ないかもしれんが、君には将来がある。将来は希望だ。決して絶望じゃない」
「京子はそんな僕より良平さんを選んだんだよ」
「本当かい?僕にはそれが信じられんよ」
「彼女はそう言った。僕じゃなく、良平さんを選ぶとね」
 神山は徐々に怒りを含めた口調になった。
「僕は決めたんだ。絶対彼女を見返す。良平さんと一緒になることを後悔させてやる」
「復讐というやつか」
 松田はぽつりとそうつぶやくと煙草をふかした。
「そうかもしれん。でも、今の僕には京子よりも研究が大事だ。必要なのは愛情じゃない。力だ。自身を向上させる情熱だよ」
 神山は少しひきつった笑みを口元に浮かべるとまた、煙草をくわえた。
「人間は何から力を得ると思う?」
「情熱や欲求かい?」
 神山の問いに松田は煙草を消しながら答えた。神山はふんと鼻を鳴らした。
「小百合さんと君はうまくいってるか?」
「なんだいやぶからぼうに」
 松田は苦笑いしながら神山を見た。
「今日見た通り、うまく行ってるよ」
「そうかい?」
「なんだい、その顔は」
「いや、さっきの脱走の件にもからむんだが……」
 神山は少しの間言うか言うまいか悩んだふうに思案顔で俯いた。
「僕が思うに君に小百合さんは不適当だと思うのだ」
「それはどういう意味だ」
 沈黙のあと、神山がゆっくりと言った言葉に松田はいささか憮然とした表情で聞いた。
「いや、別段君を非難しているのではないよ。彼女は君にとってマイナスの要因のような気がしてならん」
「君となら適当だといいたいのかい?」
 松田の少し怒った口調に神山はいや違うと言ったまま黙ってしまった。松田はそんな神山を見ながら烏龍茶を飲んだ。
「君はどうして糖尿病だと彼女に本当の事を言わない?なぜ彼女に嘘をつくんだ?」
 冷め切ってしまったコーヒーを飲むと神山はそう言った。
「嘘はついてないつもりだ。ただ言ってないだけだ」
「小百合さんのためにか」
 神山が口をはさむ。
「……そうだ。もう僕は小百合に迷惑をかけられないからな」
「病院を出ること自体迷惑になると考えないのかい?」
 少したしなめるような口調に松田は少しむっとした表情を作った。
「それはどういう意味だ?」
「いざ、出て小百合さんに治ったというのは良い。けれどそのあと病状が悪化して実は糖尿病でという方が彼女にとって……いや、君にとって酷じゃないか?」
 松田は腕を組み、口をへの字に曲げたまま黙ってしまった。神山も小さく溜め息をもらすとそのまま黙り、煙草の煙を目で追っていた。
「彼女は、小百合さんはそんな君に最後までついてくる人とは到底思えん。その時、君はあまりに滑稽な存在で、残るのはどうしようもない体だけだ」
 煙草を消すと神山はゆっくりとそう話し始めた。
「糖尿病が悪化すれば失明する危険だってある。それに毎日インスリンを打たなくちゃいけない。ともすれば腎臓病だって併発しかねないのだよ」
「……」
「僕が小百合さんが適当じゃないと言ったのはこの不安があったからだ。こんなふうになってしまえばそれこそ君、彼女はマイナス要因以外のなにものでもないじゃないか」
「もう面会時間は過ぎてますよ」
 ふいに後ろから看護婦の声がした。神山はすぐに帰る旨を看護婦にいうと立ち上がった。「もう少し考えてみることだ。今は小百合さんの事より自分の病気の事をしっかりと考えることだ」
「いやに冷静だな。君は」
 神山に促され、ゆっくりと立ち上がると松田は力なく言った。
「君流に言えば他人事だからだと言うね」
「なるほどね」
 肩をすくめると松田はのろりのろりと面会室を出た。そして病室まで戻る間、思案顔で歩いていた。
「小百合に僕の病状の事は内緒にしておいてくれ」
 病室の前で松田はそう言うともう一度繰り返し念を押した。神山は頷くと肩を叩いた。「僕の口から言うものじゃないから言わんよ。それに滅多に会うものでもないしね」
 もう少し考えてみることだ。神山はそう付け足すとエレベーターに向かった。
 電気の消えた廊下の中で、エレベーターの明りは目にきつく、松田は目を細め、乗り込む神山の姿を見送った。

「なんで本当の事を言わなかったのか、今でも不思議です」
 松田は小さく笑うとソファに凭れた。副島は新しい煙草を開けると松田にすすめた。
「いや、今はもう完全にやめたのです」
「ヘビースモーカーで鳴らしたのにな」
 副島は笑うと煙草をくわえた。
「多分、男としてプライドの問題もあったのでしょう。実際、僕は糖尿病にかかるほどヤワな体と認めたくなかった」
 松田は下を向き、首をふってまた、笑った。「小百合は神山の言うとおりマイナスの要因だったのかもしれません」
 副島はつられて笑い、紅茶をすすった。
「女に入れ込むと男は駄目になる」
 松田はそう言うと窓に目をむけて話した。
「小百合は教授も知っての通り完璧に近いと思うほどの女性です。僕は彼女にベタ惚れでした。彼女が喜べば何でもした。ジゴロにもなったし、ピエロにもなった。そして気がつけばこんな有り様です」
「さしも卑下するほどには見えないがね」
「いえ、ゆっくりとした速度でしたが、僕は知らぬ間に坂を転がっていましたよ」
 松田は短く溜息をつくと虚ろな視線を副島に投げかけた。
「人間という坂を、です」
「君も神山君も実に詩人だね」
 副島は肩をすくめ、小さく笑った。
「小百合は少なからず神山に対して好意をよせていました。小百合は誰にでも好意をよせてしまう女です。僕はそんな彼女にやきもきしながらも、そんな状況をまんざらでもないと思っていました。僕は彼女が神山を誘惑していたことすら知りながら、僕はそれを容認をしていた。何故なら…」
「何故なら?」
 松田は少しの沈黙の後、目をそらし、ゆっくりと口を開いた。
「僕は僕自身をあの人間関係の中で神の存在だと思っていたからです」

 副島良平と京子の結婚は研究室では良くも悪くも噂になった。神山と親しい友人はあんな女いたものかと陰口をたたきあい、神山をなぐさめた。研究室では大半のものが神山に同情的であった。
 しかし、当の本人である神山はこれといった感情を出さず、ただただ苦笑いをするだけであった。ましてや京子に会っても冷たい態度をとってはいけないという忠告までしていた。
「お人好しにもほどがある」
 ある日の午後に、松田は見舞いに来た神山に開口一番そう言った。松田はベッドの上に胡座をかいて神山と京子の事をゼミの仲間から色々話を聞いたと告げた。
「まあ、人間は他人のつまらない色恋沙汰に強い関心をもつものだ。僕は仲間に会うたびに同情されるよ」
「それは当然だ。樫村京子を良く言う奴などあるものか」
「同情されるのは正直言ってもうウンザリだよ。もう勝手にさせろと言いたくなる」
 神山は松田を見ると口をへの字に曲げた。
「それは僕にも忠告しているのかい?」
 松田はそんな神山を見るとおどけた口調で言った。
「君が心配してくれるのは有り難いが、こんな状況だ。僕はどれもうさん臭くかんじてしまうね」
 たとえ君でもな。神山はそう付け足すと自分の肩を揉んだ。
「随分と無理をして論文を書いているそうじゃないか」
「まあね。そうしないと論文が間に合わないんだ」
「それだよ。いくらそう言った理由にしろ、忙しくしていたら誰だって気を紛らすためと思うのが普通だよ」
 松田はそう言うと一人で頷いた。神山は苦笑し相槌を打つと面会室に行こうと言った。
 神山は面会室に行くと溜息混じりに煙草をくわえた。
「今度の論文は何をテーマにして書いているのだね」
 松田は首をならすとこめかみをおさえている神山に聞いた。
「芸術と宗教の関係と東西の宗教比較、それと東西の原罪研究をね」
「いつから宗教家になったんだい?」
 松田はおどけて聞いてみた。神山は口元に笑みを浮かべると煙をはいた。
「これは文学研究にも十分適用されるテーマだと思うんだ」
「イタリアのルネサンスのような?」
「そうだね。宗教と芸術の密接なる関係から一歩深く展開させたいと思う」
「じゃあ東西の原罪比較は関係ないだろう」
 神山は頷いてみせた。
「文学研究とは少しはずれてしまうね」
「じゃあ、なんのため」
「東西の宗教の比較にはうってつけだし、ちょっとした個人的興味もあってね」
 ふうん、松田は口をへの字に曲げて天井をあおいだ。
「宗教に優劣なんてつけれるのかい?僕には宗教なんてものはどれも同じことを言っているように思えてしまうがね」
「うム、今はどうにも上手くはいえないからなんとも反論が出来ないな」
 そのうちに君にも上手く説明できるだろうよ。そう神山は言うと席を立った。
「なんだ今日はもう帰ってしまうのか?」
 松田は幾分口を尖らせながら神山を見た。神山は申し訳なさそうな表情で苦笑いを浮かべた。
「すまんな。今日は少しばかり論文のほうを休めて雑用を片付けたいんだ」
「部屋の掃除とかかい?」
「うん、まあそんなようなところさ」
 神山は少し言い淀み、頷いた。
「なあ、明日は来れないか?」
「明日?」
 松田の問いかけに神山は困った表情で聞き返した。
「夜になってしまうぞ」
「夜でいい。来れるか?」
 就寝時間前には来ると言うと神山はそそくさと病室を出ていった。

「この時のことは実によく覚えていますよ。神山の宗教研究論文もそうですが、この時は僕にとって大事な時でしたからね」
 松田は肩で笑うと副島の顔を見た。副島は意味がよくわからず、困惑の表情を浮かべた。「子供じみた話ですが、この時の事は僕のそれからの人生に少なからず影響をおよぼした日なんです」
 ソファに体をあずけて少しくつろいだふうに松田は部屋を見回した。
「この日、君にとって一体何があったというのだね」
 副島は煙草の灰を落とすと首をかしげた。松田は口元に微笑を浮かべ、話を続けた。
「神山の雑用は僕にとって一大事の雑用だったのです。でもその時の僕はそんなこと知るよしもなかった。後で知った時には僕はもう完全なピエロでした」
「神山君の雑用とは一体なんだったのかね?」 副島は松田のゆっくりとした口調に痺れをきらしてそう口を挟んだ。
「小百合に会いに行ったのですよ。誰にも内緒で」
 松田は表情一つ崩さずに淡々と言った。
「それはつまり……」
「そう、二人は友人の恋人と友人としてではなく、男と女として」
 副島はぞっとするような感覚に体を少し震わせた。

 その日の夜は秋らしく、過ごしやすい気温で、松田は多少うつらうつらしながら神山が来るのを待っていた。同じ病室の一人の男が大きな鼾をかきはじめ、松田ははっとすると、横にはいつのまにか神山哲治が座って本を読んでいた。
「いつのまにか寝てしまっていた」
 松田は大きな欠伸を一つすると神山の方に体を向けた。神山は本を閉じてゆっくりと松田の方に向いた。

「あの時の神山の表情は今までに見た事ないくらいに穏やかだった。僕は最初休んだせいもあって表情が穏やかなのかと思いました。しかし、彼が口を開いた瞬間、僕は正直言って神山が恐ろしい人間なんじゃないかと思い、寒気がしたのです」

「随分呑気な寝顔だな」
 そう言うと少し首を傾けた。

「僕はその言葉を聞いた瞬間、なんだか知りませんが急に神山が恐ろしく思えたんです」 松田の表情が一瞬恐怖にこわばったかと思うとさっと怒りにも似た形相が走った。
 副島は何も言わず、ただ松田を見ている。松田はそして小さい、聞き取りにくい声で何かをつぶやくと窓に目を向けた。

「長い時間そこに?」
 松田は少しこわばった声で聞いた。
「いいや、つい五分程前にきたばかりだよ」 面会室に行こうと神山は言い、松田が起きるのを待つふうもなく、さっさっと廊下に出た。

「一体何を怖がる理由があるのか。僕はそう冷静に考え、自分を落ち着けようとしました。でもなかなかそれが出来ないでいた。神山の顔を見る度に僕の心臓は早くなった」
「君、少し休んだらどうだ」
 松田の手にうっすらと汗が滲んでいるのを見ると副島はそう言って立ち上がろうとした。「大丈夫です。御心配にはおよびません」
 こめかみに手をあて、うつむいたまま松田は断った。
「しかし……」
「大丈夫、もう大丈夫です」
 大きく深呼吸をすると松田は天井を仰いだ。副島は松田を伺いながらゆっくりとソファに座り直した。
「本当に大丈夫かね?」
「……冷静に話さなくてはいけない僕が乱れてしまってすいません。……やはりあの時の神山の事はどうにも……」
 松田は小さく首を振ると力なく笑った。

「一体どうした?やけに顔色がすぐれないみたいだが」
 面会室に入ると神山はそう言って笑い、松田の顔を覗きこんだ。
「蛍光灯のせいじゃないかな」
 松田はそう言うと差し出された煙草を取ると口にくわえた。面会室は二人の他に誰もおらず、部屋の片隅のほうでは蛍光灯が切れか勝っているのかチカチカと明滅していた。
「君の話し相手も大変だ」
「そいつはすまないな」
 松田は神山のライターを借り、火をつけた。月明りに照らされた煙草の煙はゆるゆると天井に昇り、まるで生き物のように動いた。
 松田は結局その日の神山が気味悪いくらいだったのでよもやま話をして別れてしまった。
「正直に告白してしまえば、僕はいつでも彼に多少なりとも優越感を持っていました。いつでも彼にアドバイスをしてあげ、面倒を見てあげていた。僕は神山の良い兄貴分としての友人だと自分を位置付けしていた。しかし、この日を境に僕らは対等な、いえ彼が優位に立った友人関係になったのです」
 そう話すと松田はふっと穏やかな表情を見せた。副島はその表情につられて口元に微笑を浮かべた。
「その時の恐怖はそんな立場の逆転を肌で感じたからかもしれんよ」
 副島はティーカップを口に運んだ。
「いえ、違いますよ」
 ふいの声色の鋭さに副島は手を止めた。松田は少しの沈黙の後、ゆっくりとまた冷静な口調で語り始めた。

 神山と話した翌日、松田幸一の病室に副島良平と樫村京子が見舞いに来た。松田はベッドの上に座ると京子から花束を受け取った。「一体どういう訳で僕の見舞いに?」
 松田は花束を見ながら聞いた。
「親父のかわりというのも何ですが……、それに京子がどうしても見舞いに来たいと」
「樫村さんが」
「……この前小百合さんにお会いして、知ったものですから」
 樫村京子はうつむき加減に話すと耳にかかった髪をあげた。
「体の具合はどうですか?」
 良平はすすめられた椅子に腰をかけると松田に聞いた。京子は花瓶に花をと言って病室を出ていった。
「自分では具合がいいと思っているのですが、医者はそうは見てくれてませんね」
「養生が第一です。のんびりとする事ですよ」 良平は屈託なく笑うと腕を組んだ。副島良平は何をするにも丁寧で、穏やかな感じの好青年であった。商社に勤務していて、最年少課長になる日も近いといわれている男であったが、そんな事を鼻にかけるふうもなく、淡々としていて評判のいい男であった。
「そういえば神山さん、見舞いに来ていますかね」
「ええ、来てますよ。昨日も来てくれました。良い話し相手で」
 あれ、と言いながら良平は首をかしげた。
「どうかしましたか?」
「いや、昨日神山さんを横浜で見掛けたもので……」
「夜、就寝時間近くに来ました。昼間は雑用があると……」
「小百合さんと一緒に?」
「いいえ」
「いえ、昼間見掛けた時、小百合さんと一緒にいたので……」
 松田は一瞬胸が締め付けられる思いがした。「多分ばったり会ったんじゃないですかね」
 松田は昨日の神山の表情や口調、仕草を思い浮かべながらわざと陽気に言った。
「それもそうですね」
 良平はそう言って頭を掻いた。松田は京子さんが戻ってきたら面会室に行きませんかと誘ったが、良平はそれを丁重に断った。
「ちょっとばかり用事があってすぐに退出しないといけないのですよ」
「そいつは残念だ」
 松田は残念そうに言い、少し位はともう一度誘った。
「すいません。京子の衣装合わせもあって」「ああ、そうか。……で、日取りは?」
「来年一月の終りにと思って」
 随分と急ですな。松田はそう言って垂れた前髪をかきあげた。花をさした花瓶を持って戻ってきた京子に祝いの言葉を言うと京子は小さく笑った。
「二月から僕が仕事の関係でイタリアに転勤になるものですから」
「イタリアか。いいですね」
 もうそろそろ行きますと良平は腰を上げた。「お大事にしてくださいね」
 京子はそう言うと小首をかしげた。
「もうすぐ退院しますよ」
 去り際、松田はそう言って二人に挨拶をして別れた。
 それから五分ほどして小百合が入って来た。「今良平さんと京子さんが見舞いに来たよ」 あら、本当?小百合はそう言うと戸口を見た。
「会わなかったかい?いましがた出て行ったのだけれど」
「入れ違いだったのね」
 椅子に腰掛けると花瓶に生けてある花を見ると小百合は微笑を浮かべた。
「きれいな花」
 二人が持ってきてくれた事を告げると松田はもうすぐ退院する旨を話した。
「本当?」
「ああ、医者が大丈夫だってね」
「いつごろになるの?」
「今週中には」
 少しの間指を口にあて、考えていたが、小百合は残念そうな表情をした。
「私、仕事で迎えに来れないわ」
「いいよ。子供じゃないから一人で退院出来るよ」
「じゃあ、退院したらおいしいご馳走を作ってあげるわ」
 小百合は笑うと良かったと言って小さく伸びをした。
「神山も呼びたいな」
「そうね。神山さんも呼んでお祝いをしましょうよ」
 とるに足らない話をした後、小百合は帰っていった。

「この時僕は二人の女性の正体に舌を巻きました。別れた恋人の友人の所に恋人と来る樫村京子、そして目撃されているにもかかわらず、神山の名が出ても動揺しない沢村小百合。改めて僕はこの二人には関心しました」
 松田は紅茶を飲むとそう言った。
「良平はその時、神山君と京子さんが付き合っていた事をしらなかったのだよ」
「そうでしょうね。もし知っていたら仲が一番良かった僕の所にいくら良平さんでも見舞いには来ないでしょう」
 副島は黙ったまま煙草に火をつけた。
「しいてあげれば京子さんは幾分ためらいがあったのでしょう。終始うつむき加減でしたからね。でも小百合は違った。その態度で僕はいやになるどころかますます彼女を好きになってしまいました。そしてその日の夜に僕は病院を抜け出したんです」

 副島ゼミの研究室の前で一服している神山の姿をみつけると松田は大股で歩いていって声をかけた。
 神山は驚いた表情のまま、立ち上がって本当に脱走して来たのかとたずねた。
「ああ、脱走しちまった」
 松田は他人事のように言うと腹が減ったから食堂に行こうと神山の腕をつかんだ。神山は煙草を消すと松田の手をはらい、先に歩きだした松田を追った。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫さ。ちゃんとベッドに置き手紙をおいてきた。それに出てった人間を追うほど病院は暇じゃない」
 食堂に入ると松田はA定食を頼み、席についた。
「相変わらずの味だ」
 松田は嬉しそうにいうと飯を頬張った。横で神山は幾分あきれた顔で見ている。
「君の行動力には恐れいったよ」
「お褒めに預かって光栄だ」
 食事が終わると松田は茶をすすった。
「ところで、論文は進んでるかい?」
「まあまあだね」
「宗教研究はどこまで進んだ?」
「うん、今は罪に焦点を絞って研究をしているよ」
「罪?」
 松田は湯飲みに茶を足すと聞いた。神山は空になった湯飲みを手の中で遊ばせながら頷いた。松田は腕を組み、天井を仰いだ。
「人間は生きているだけで罪を作り続けるもんだ。それを償う方法は宗教に頼る以外に方法はないのかね」
「さあね。もしかしたらそうかもしれんよ」
「罪は償うものか、それとも裁かれるものなのかね」
 松田の言葉に神山は苦笑をしたまま、何も答えなかった。
 講義が始まるのか食堂にたむろしていた学生達が立ち上がりはじめた。
「宗教学の教授にでも話を聞いてみたらどうだね?」
「宗教学の教授達は皆宗教法人研究家ばかりであまりいい話は聞けないと思うね」
「そういやあ、君。この間副島良平さんと京子さんがそろって見舞いに来てくれたよ」
 神山は松田の言葉にはっとした表情を向けた。そしてそうかとつぶやくように言った。「そんな長居はしなかったが、京子さんの態度は随分と堂に入ってたね」
 松田の言葉にただ無言で頷いていた。
「来年の一月には結婚だそうだよ」
 ふいに松田はそう言って、樫村京子の罪は裁かれるものなのかねと独り言のように言った。神山はさあと言ったきり、黙っていた。「君、やはり、京子さんのことが気になるのかい?」
「……気にならないといえば嘘になる。でも、僕にはどうしようもない」
「後は神や仏のみぞ知るか」
 のんびりとした口調で松田は言うと大きな伸びをした。
「やっぱり外はいいな。体が軽く感じる」
「なあ松田、京子はどうだった?」
「どうって?」
「元気だったかい」
「ああ、すこぶる元気だった」
「そうか……」
 うつむいたままの神山を見て、松田は二人が挙式をあげた後、すぐに仕事の関係でイタリアに行ってしまう事を告げた。
「君、この間の雑用があると行った日、小百合に会ったんだって?」
 神山は一瞬表情を曇らせた。
「ああ、本屋であった」
「何か言われたかい?」
「お茶でもと言われたが、他に用事もあったので断ったよ」
 そうか。松田はそう言うとテーブルに置いてあった神山の煙草を一本抜き取ると火をつけた。
「明日、君は暇か?」
「明日?」
 松田は明日の夜、小百合と退院祝いをするから神山もどうかと誘った。神山はすこし考えていたが、少し遅くなるかもしれんと言った後、頷いた。松田はそれを聞くと病状の事はいわないように注意を促し、席を立った。

「この時点で僕は神山、小百合、樫村京子の罪を裁ける唯一の人間だと思って行動していました。ある時はそれを受け止め、許し、そしてまた厳しく断罪をしていた。まさしく僕は神の行為を行っていた。人の罪は償うものじゃない、裁くだけだと思っていたのです」 松田は小さく笑うと、副島を見た。副島はその松田の顔を見て、ふいに憐憫の感情が湧いてきた。
「退院祝いの日、それは神山哲治の罪の告白の場であり、それを僕が裁く場であると思い、僕はその準備をするため、あの日、大学に行き、神山にあったのです」
「小百合さんを裁こうとは思わなかったのかね」
「小百合の罪は僕の側で一生をかけて償ってもらうという裁きを僕は下していたのです」
 松田はそう言うとふっと小さく溜め息をつき、口元に寂しげな微笑を浮かべた。
「しかし、僕は見当違いをしていた。僕は神ではなくて一人の人間でした。それも自身を見失った愚人でした」

 退院祝いの日は朝から雨が降っていた。霧雨のようで、それほど激しい降りに感じず、むしろ心地の良い降りであった。松田は昼の間に会社に赴き、医師の診断表を持って退職する旨を告げた。上司は再三引き止め、いろいろな妥協案を提示したが松田は丁重にそれを断り、後日きちんと書類整理や引き継ぎをしに来ることを約束した。部屋に戻る途中、公衆電話から神山の研究室に電話をすると、具合が悪く、当分休むという連絡があったといわれた。
 松田は部屋に戻り、神山の部屋に電話をしたが、誰も出ず、松田はまんじりともしない気持ちになった。結局松田は神山のアパートに行ってみたが留守で、待つほかなかった。
 夕方になると買物袋を両手にもった小百合が来た。
「今日はたくさんご馳走を作るわね」
 息を弾ませて台所に立った小百合の後ろ姿をみながら、松田は神山がつかまらないという事を言った。
「病院にでも行ってるんじゃないかしら。夜には来てくれるわよ」
 料理の本を広げながら、小百合はのんびりとした口調で言った。
「そうかな。あいつが来ないと、僕としてはさみしいな」
「あら、私だけじゃ不服?」
「いや、そんな事はないけど、いろいろ論文の事で聞いてみたい話があったものだからね」 松田は冷蔵庫から缶ビールを取るとごろりと横になって飲みはじめた。
「とりあえず、先にはじめてていいんでしょう?」
 一通り出来た料理をテーブルに並べると小百合は松田に聞いた。料理の一つをつまむと松田はうまいと言って笑った。
「いいよ。神山は遅れてくると聞いているし」「料理がなくならないうちに来てほしいわね。私一生懸命作ったんだから」
「神山の奴、驚くだろうな。美味いってね」 松田はそう言って笑うとグラスにビールを注ぎ、乾杯をした。
「ねえ、神山さんってどんな研究論文を書いているの?」
 一時間ほどたったあと、松田がちらちらと時計を気にしてると、小百合はそう言った。松田は冷蔵庫から烏龍茶を取るとグラスに注いだ。
「なんでも芸術と宗教の相互関係と、東西の宗教に見る罪の比較研究だそうだ」
「随分と難しいこと研究してるのね」
 小百合は料理をつまみながら、来ないねとつぶやいた。
「なあ、小百合。罪っていうのは償うものだと思うかい、それとも裁かれるものだと思うかい?」
「うーん……難しくて……。でも、どっちでもないんじゃないかしら」
「どっちでもない?」
「ていうよりも、裁かれた罪を償うっていうことになるんじゃないかしら」
 なるほど、そいつは考えなかったな。松田は頷きながら、神山にその話をしてみようとつぶやいた。
「でも、誰が裁くっていうものでもないんでしょうね。人間の罪って」
「人は人を裁けないか……」
「ただ、私のは直感的な考えよ。女の浅知恵。こんなこと真面目に話したら神山さんに失礼だわ」
 小百合は微笑むと松田のグラスの烏龍茶を一口飲んだ。
 結局その日は神山は来なかった。電話をしてみたが、相変わらず留守であった。松田は釈然としないまま、小百合を家に送っていった。

「小百合さんの考えはなかなかどうして、いい意見じゃないかね。女の浅知恵とはいえないほどだ」
 副島は煙草を消すと笑いながら言った。そしてティーポットの紅茶をカップに足すと一口飲んだ。
「たいした意見でしたよ。正直僕も驚いてしまいましたよ。女の人は時として素晴らしい事をいうものだと。ただ……」
「ただ?」
「神山の意見でなければ」
 松田もティーポットの紅茶を入れた。
「小百合が言った意見は神山の受け売りだったのですよ。二人で会っていた時、神山が話していた言葉そのままでした。僕はそうとはしらず、副島教授と同じように思いましたよ」 紅茶を一口飲むと松田は自嘲気味に笑った。「とにかく、小百合は完璧な女でしたよ。僕自身、一番身近にいて、騙されはしないと思っていたのに、僕はすぐに騙されてしまいました。
「僕は彼女のそれに気をくばる事を忘れ、神山の事で一杯でした。彼は逃げたのだ。自分の罪の告白の恐ろしさに。そしてそれを裁かれることに怯え、逃げたのだと」

 神山がつかまったのはそれから二週間もたってからであった。体調がすぐれず、医者に行ったところ疲労がたまっていて腎臓をわるくするかもしれないと警告され、少しの間でも休む事に決め、実家に帰っていたと神山は電話口で松田にいった。
「それで具合はよくなったのかい?」
「うむ、少しのんびりしたおかげで考えの整理もついたし、すっきりとしたよ」
 電話口で神山は言った。
「本当かい?それで声が明るいのかい」
 松田は雑音がひどい電話に向かって幾分大きな声でいった。その後神山が何かを言ったのだがよく聞き取れず、松田は少し苛立ち気味に言った。
「すまんが、よく聞こえない。神山、君今どこにいるんだい?」
「今、大学にいる。食堂の近くにいてね。昼時だからうるさくてね」
 退院祝いの時はすまなかったとあやまると、神山はまた電話をすると言って電話を切った。松田は受話器を置くと大学に行こうかと思ったが、小百合と会う約束を考え、やめてしまった。
 夕刻、松田は小百合との待ち合わせの場所に行くと、そこに副島良平と樫村京子もいるのを見た。
「さっき、そこで偶然会ったの。二人もこれから食事をするから一緒にどうかって誘われたの」
 小百合はそう言って松田の腕をつかんだ。松田はお辞儀をすると良平に礼を述べた。
「入院中はお見舞いに来て頂いてすいませんでした」
「いえいえこちらこそゆっくりとせずに。どうですか。お二人がよろしければ一緒に食事でも。退院祝いもかねて」
 松田はちらりと京子を見た後、ではご一緒させてもらいましょうかと言った。
 四人は小さなフランス料理の店に入った。店内は明るく、にぎやかであった。
「ここはフランス料理の店ですが家庭料理がメインだからそんなに堅苦しい店じゃないんです。だから僕のお気に入りの店なんです」 席に座ると良平はそう言って笑った。小百合は京子となにやら料理の事で話していた。時折京子の視線を感じながら、松田は良平と仕事の話しなどをしていた。
「お仕事は続けてるんですか?」
 食事が終り、デザートが運ばれてくると京子が松田に話しかけてきた。
「いえ、不規則な仕事はいけないと医者に注意をされたので出版社はやめました。ただ、社の方の好意でフリーで原稿を書かせてもらって食っています。でもいくら自宅で書いているからといってもなんだかんだ言ってフリーの方が忙しいですよ」
 全くですよ。良平はそう言って仕事はほどほどにしたほうがいいですよとたしなめた。「小百合さんとしても心配じゃありませんか」「ええ、あまり無理をして欲しくはないんです。また倒れてしまったら困りますもの」
 良平の言葉に小百合はそう答え、ふふっと笑った。
「二人はご結婚はなさらないんですか?」
 良平は煙草に火をつけるとそう聞いた。
「何分、僕の収入が不安定で、安定するまで結婚はと思っているんです」
「早くしないとこんなに綺麗な人だ他にいってしまいますよ」
 良平は悪戯っぽく笑うとそうたしなめた。「まあ、良平さんたら、お上手ですわね」
 小百合は口に手をあて、小さく笑ってみせた。松田は煙草に火をつけると一口吸った。「体の調子は大丈夫ですか?」
「ええ、元気といえば元気ですが、妙に疲れやすくなってしまいましたよ」
 体がなまってしまったのかなと言うと松田は肩をすくめてみせた。良平は何かスポーツでもしたらどうかと告げた。
「良平さん、僕はスポーツで体を鍛えるのも大事ですが、もっとメンタルな部分を鍛えなくてはいけないのではないかと思うのです」
 松田はクリスタルカットの施された灰皿に灰を落とすと煙草をふかした。
「ほう、メンタルな部分ですか」
 良平は少し興味のあるといった表情でワインを飲んだ。
「確かに体を鍛えるのは大事です。それによってメンタルな部分も鍛えられる。病気は健康な体も大事ですが、やはり病は気からというように、もっと精神部分を鍛えないといけないのじゃないかと考えるんです」
 なるほどと良平は言って腕をくんだ。松田はワインを一口飲むと話を続けた。
「僕は普遍的な考え……そう哲学によって精神を強くするのが大切だと思うのです」
「普遍的な考えですか」
 良平は腕を組んで何やら思案顔で松田を見た。
「人間は誰しも弱いものです。でも、弱いという事は不幸です。強くなくては幸福にはなれません。人は生きていく上で日々何かしら罪を作りながら生きています。つまり、生きるということは罪を作っていくということです。その罪を消す事が出来なれば人は弱いまま、罪を背負ったまま人生を終えてしまうでしょう」
「それは実に興味のある話ですね。まるで宗教的な……」
「そう、宗教的です。実に人間は宗教的な、というより宗教という哲学と密接な関係にあるといえるのです」
 そこで松田は話を区切り、煙草を消した。
「つい興奮して話がずれてしまいましたね。こんな話をするつもりではなかったのにな」
「いやいや、実に面白い話ですよ」
 良平は笑いながらワインを飲んだ。
「幸一さんたら神山さんと会う度そんな話ばかりしてるんですよ」
 小百合のその言葉に京子がはっとするような表情をしたのを松田は見逃さなかった。
「でもほとんど神山の受け売りですけれどね」
 松田はちらりと京子を見ながら良平に言った。
「弱い人間ですか。一体何に弱いといけないんですかね」
 良平は腕を組み、首をかしげるとつぶやくように言った。
「うーん。環境にじゃないですかね」
 僕も漠然としかわかりませんがね。松田はそう付け足すと肩をすくめた。
「二人は面白いかもしれないけれど、私達には退屈な話だわ」
 口を尖らせ、小百合はすねた口調で言い、京子に同意をもとめた。京子は苦笑をするだけで何もいわなかった。
「女性を取り残してしまって、紳士としては失格かもしれませんね」
 良平はそう言うと小百合に詫びた。松田も笑いながら京子に詫びた。
「今日は大変に楽しかった。また一緒に食事でもしたいものです」
「出来れば男二人の方がいいのかもしれませんよ」
 松田は悪戯っぽく言うと大声で笑った。良平もそうかもしれないと同意し、そのうちゆっくり二人で酒を飲みましょうと言った。
「じゃあ、今日はこれで」
「では、また今日の話の続きをしましょう」
 良平はそう言うとお辞儀をして小百合と握手をした。京子はぺこりとお辞儀をして小百合に小さく手を振った。小百合は京子に二言、三言話すと手を振って別れた。
「彼女、神山さんによろしくって言ってたわよ」
「罪の償いかもね」
 松田の言葉に小百合はそうかしらねと気のない返事をし、ショーウィンドウを見ながら歩いた。
「小百合はどんな罪を犯した?」
 松田は小百合にそう声をかけた。小百合はちらりと松田を見た後、どんな罪だと思うと言ってきゅっと口をすぼめて笑った。
「さあ、見当つかないね」
「教えない。だって貴方は神様じゃないもの」
 小百合はそう言って笑うと、鼻歌交じりにまたショーウィンドウを見るのに熱中した。
 それから二日後、松田の元に二冊の大学ノートが送られてきた。送り主は神山哲治であった。松田は封筒を開け、二冊の薄汚れた大学ノートと一通の手紙を机の上に置くと、手紙を読んだ。

「手紙には自身の罪をここに記し、告白する。僕は大学をやめると書いてありました。およそ神山の字とは思えない、雑な字でした。二冊のうちの一冊がそのノートです」
 松田はそう言うとテーブルの上に置かれたノートを手に取った。副島はそれをちらりと見やった後、煙草に火をつけた。
「もう一冊には何が書いてあったのかね」
 松田はノートをテーブルに置くと、鞄からもう一冊の大学ノートを出した。
「このノートには神山の独白が書いてあります。沢村小百合と樫村京子との間に犯した罪の告白が」
 松田はそう言うと口元に笑みを浮かべた。
「この時、僕は思いました。ついに神山を裁く時がきたのだと。僕は彼の罪の告白を受け止め、しかるべき裁きをくだそうと思いました。しかし」
「しかし?」
「このノートを読んで気がつきましたよ。やはり僕は小百合が言ったように神じゃない。神山は自身の罪に気付き、その罪を償おうとしていた。決して罪を許してもらおうとは思っていませんでした」
 松田は紅茶を飲むと短い溜め息をつき、ノートを副島に渡した。副島は手に取ると、一ページをめくった。

 私、神山哲治はこのノートに自分の恥さらしな行動を記し、自分の罪の重さを自覚し、告白するつもりです。そして、その罪を一生をかけて償っていくことでしょう。

 恋人であった樫村京子が副島教授の御子息である良平氏を結婚するというのを聞いた時から私は二人に復讐をする事を誓いました。否、樫村京子にのみ、復讐をしようと誓ったと言ったほうが正しいのかもしれません。私は論文を執筆し、誰よりも早く教授になり、樫村京子を見返してやろうとやっきになりました。
 そんな私に松田幸一の恋人である沢村小百合は同情心かしれませんが、よく私の所に来ては料理を作ったり、時間があれば映画に誘ってきたりと私に寄ってきました。唯一心の置ける友人の恋人である沢村小百合を僕は苦手でした。何故なら彼女は松田と付き合いながらも私に好きだといってきては色々な誘いをしてくるからでした。私はそんな彼女が理解しかね、なるべくなら顔を合わせたくなかった。それは少なからず友人である松田への後ろめたさもあったからです。
 ある日、突然私の所に樫村京子がやってきました。私は驚き、何しに来たのか聞きました。彼女は幾分ためらいながら、部屋に上げてくれないかと言いました。
 私は、それは出来ないと言い、良平氏との事をなじり、帰ってくれときつく言いました。「私は、今でも貴方の事が好きなの」
 なんという不遜な言葉か。私はそう思いつつも、その言葉に甘い陶酔を感じ、強く彼女に魅せられてしまったのです。
 何故彼女は婚約者である良平氏を裏切るような行為をしたのか、私にはわかりません。何度か聞いてみても、彼女は何も答えようとはしませんでした。私は無理に聞いても今の状況を壊しかねないかもしれないという浅ましい思いから、それ以上はしつこくは聞きませんでした。
 しかし、私は彼女の体に触れ、抱き合う事は一度もありませんでした。ただ、二人でお茶を飲んだり、私の論文の話をしたり、食事に行くぐらいでした。
 私は一線を越えてはいけないのだと思っていました。会う度愛しくなり、その華奢で小さい体を抱き締め、密やかな関係を持ちたいという願望にもかられましたが、私はそれだけは踏み込んではいけないと、彼女を見る度に思うのでした。
 どんなに好きであっても、婚約者がいる女性を抱くという好意は決して許されるものではない。たとえ彼女が私に好意を持っているとわかっていても、私はその一線に踏み止どまりました。自身の欲求と理性にさいなまれる日々が続きました。
 しかし、ある日、私はとうとうその一線に足を踏みいれてしまったのです。
 あれは月が大きく、綺麗な秋の夜でした。私と樫村京子は食事をした後、近くにある土手にいきました。そこから月がきれいに見えました。ベンチに腰掛け、月を眺め、とるにたらない話をしてました。ほんの少しの間、二人の会話が途切れたその刹那、ふいに彼女は私の頬にキスをしたのです。私は彼女のその行為と、甘い香りに誘われるまま、ついには理性も負け、彼女の唇に自分の唇を重ねてしまったのです。
 なんという甘美な瞬間だったか。
 震えの止まらぬ体を彼女の体に押し当て、私はきつく彼女を抱きしめたのです。
 そして私はなんのためらいもなく彼女と抱擁し合い、何度も唇を重ねたのです。

 事の重大さに気がついたのは自分の部屋に戻り、一人になった時でした。
 その日から私は胸を焼かれる思いで暮らしました。
 たかが、キスぐらいでと思うかもしれませんが、私にとってそれは、何よりも背徳の行為であり、一生背負うであろう罪業であったのです。
 そんな時、沢村小百合が私の所にやってきたのです。そして副島良平と樫村京子が一月に結婚する事が決まったと告げたのです。私は自分の罪の重さを改めて知り、愕然とする思いでした。そして沢村小百合に誘われるまま、私は彼女と男と女の関係を持ってしまったのです。
 その日から私は人間として生きていく術を捨ててしまったのかもしれません。
 沢村小百合と合う度に私は欲求の赴くまま彼女を抱きました。そして樫村京子と会うたびに唇を重ね、愛情を吐露した。
 友人の恋人と寝、恩師の子息の婚約者と密会する私を誰が人間と認めるでしょうか。
 松田の事を心配する自分が情けなくてしかたがなかった。ある時、私は彼に沢村小百合との関係をこう言いました。
「君は人生をゆるやかな速度で落ちているようなものだ」と。
 それは自身にそのまま帰ってくる言葉でした。ゆるやかな失速。それは自分のことではないか。私は自分にそう問いかけ、自分を罵倒するのでした。
 罪は裁かれるものか、それとも償うものか。ある時、松田は私にそう問いかけました。
 罪は裁かれ、そしてそれを償うものだと、私は沢村小百合に言いました。
 しかし、樫村京子はこう言った。
『罪を裁けるものはいない。罪は償うためにある』と。
 もしそうであるならば、私は償うことによって、人間として蘇生できるのではないかと思いました。
 人が生きるということは、罪を犯していくことであると私は思います。そして仏教に則していうならば、その罪業は消える事なく、永遠に背負うものであると言えるでしょう。人は罪を作りながら生き、そして死に、そして犯した罪業を背負ってまた生まれてくる。その罪は償わなければ重なっていき、人は生まれ、そして死という行為を繰り返す。
 もし、神が、仏がいるならば、私は許しを乞い願い、救ってほしいと思った。
 そして私は二人の女性から逃れるように自分の実家へと戻ったのです。
 ここで、私は救われるという保証もない実家で、日々ぼんやりとして暮らしました。何かを考える事が億劫で、私は家か近くの土手に寝転がり、ぼうっとしているだけの、無作為な時間を過ごしたのです。
 そんな生活をしていたある日、私は川辺真理という女性と知り合いました。毎日のように足を運ぶ喫茶店で、私がマスターととるに足らない会話をしていると彼女が話に入ってきたのです。明るく、快活な彼女の姿に私はなんとなくひかれ、話をするようになりました。映画、テレビ、音楽とそんな話ばかりしていましたが、私は彼女の声と明るさに何か救われる思いがし、喫茶店にいそいそと足を運んでいました。
「神山さんは大学院で何を専攻してるの?」 彼女はそう聞いてきました。私は何気ない気持ちで文学を専攻し、今書いてる論文の話をしました。話ながら私はあの忌まわしい事を思い出しましたが、不思議と彼女に私は全部を話していました。それによって彼女が私を救ってくれるかもしれないという頼りない憶測の結果でした。彼女はずっと黙って聞いたあと、ゆっくりとこう言いました。
「罪は、消えると思いますよ」
 このたった一言で、私は救われたように思えました。そして彼女はにっこりと笑い、
「人は罪を作りながら生きると同時に罪を償いながらも生きていけると思います。そうでなければあまりの罪の重さに生まれてくることすら出来なくなるのじゃないかしら」と言いました。
「人は弱い生き物です。私も、神山さんも実に弱く、脆い人間です。罪の重さに押し潰されてしまうほどでしょう。でも、弱いままであれば不幸になってしまいます。強い人が幸福なんだってお祖母ちゃんから聞きました」 私は笑いながら言いました。
「君のお祖母さんはすごい人だね」
「ええ、私、尊敬してるんです」
「強い人が幸福か。何に強ければいいのかね」 私は彼女の力説する姿が可愛らしく、その姿を見て笑いました。彼女はその私の問い掛けに自信を持って答えました。
「勿論、自分に強い人です」
 なんという簡単で確かな答えでしょうか。何かに強いでなく、誰かに強いでなく、自分に強い人が幸福なのだと。私は目のさめる思いでした。
「神山さんが言う、罪を裁き、償わせ、許すのは自分自身だと思います。そして救うのも他でもない自分だと思うんです。だからこそ、その罪の重さに負けてはいけないと思います」
 彼女の言葉に私は一種の感動を覚えました。そして私は久し振りに生きていこうという実感が湧いてきたのです。
 そして私は戻る決心をしたのです。私は大学をやめ、実家に戻り、地元で生活をすることを決めました。そして罪を償うことにしたのです。
 どんな形にせよ、私は松田幸一、沢村小百合、副島良平そして樫村京子への罪の償いをしていこうと思ったのです。
 大学をやめる事、そしてこっちで暮らす事を川辺真理に言うと彼女はにっこりと笑って私にいいました。
「つらくなったら言ってくださいね。私が全部許してあげる」
 人が人を許すなんてことは意味のない言葉だと二人共わかっていましたが、私にとってなによりの励みでした。
 沢村小百合はきっと私との関係をなんとも思わず、松田と一緒になり、生きていくでしょう。樫村京子は一時の気の迷いと思い、副島良平と結婚し、幸せな家庭を築くでしょう。願わくは私との密会を甘い陶酔として欲しい。しかし、そんな思いを寄せても詮なきことでしょう。
 そして松田幸一は、友人であるこの私を呪い続けるでしょう。
 私はこの身が土に帰るまで、罪の償いをしていくつもりです。あの甘美で混沌とした関係の作り出した罪業の重さに身を焦がす事がこれから先必ずあるでしょう。しかし、私はその度に川辺真理に許しを乞い、そして自身の弱さに勝とうと努力をすることでしょう。
 最後に心配なのは、松田幸一が沢村小百合によってこのまま失速し続けないようにただただ友人であった男として願うばかりです。

 罪とは裁かれ、償い、許しを乞うものではなく、自身で裁き、償っていくものだということをここに記したいと思うのです。

 副島はノートを閉じるとゆっくりと目を閉じ、眼鏡をはずした。そして長くなった灰を落とすと、一口吸って煙草を消した。
「自身への贖罪か」
 そう呟くと副島は松田を見た。松田は口元に寂しい笑みを浮かべた。
「僕はそのノートを読んだ後、ずっと考えました。はたして神山の書いた通りなのかと。違うはずだという漠然とした思いを抱きながら、僕は小百合と結婚をした。そして良平さんと樫村京子さんは結婚した。僕はずっと問い続けているのです。神山が正しいのか。僕が正しいのかと」
 松田はそう言うとまた、窓のほうを見やった。雨は小雨になり、空は少し明るくなっていた。
「未だに答えは出ませんが、多分、神山の言う通りなのかもしれませんよ」
 松田はそう言って紅茶を飲み干した。
「これで私の告白は終りです。私の贖罪も出来たことでしょう」
「君の罪は一体なんだったのかね」
「お聞きの通り、あの人間関係の中で神になろうとした罪ですよ」
 松田は幾分自嘲気味に笑い、これで帰らせて頂きますと言って立ち上がった。
「ノートは教授にお渡しします。神山の残した研究論文の足しにでもしてください」
「帰りは大丈夫かね?」
 ドアの所までついていくと副島は聞いた。松田は微笑を浮かべ、大丈夫ですと言った。
「失明したとはいえ、右目は微かにみえますから。それに小百合もいますのでね」
 そう言うと松田は部屋を出て行った。
 副島は窓から妻となった小百合と並んで歩いて行く松田幸一の姿を見ながら煙草をくわえた。そしてテーブルの上に置いてある二冊のノートを見やるとまた窓の外に目を向けた。
「ゆるやかな失速、か……」
 そう呟くと煙草に火をつけた。
 松田と小百合はゆっくりと車に乗り、走り去っていった。副島は見えなくなるまで車を目で追い、煙草をふかした。
 雨はまた降りが激しくなってきて、時折吹く風で窓にあたってきた。副島は妻の良子に紅茶を頼むとソファに座り、良子が来るまで、ゆるゆると昇る煙草の煙を眺めていた。


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