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いつも一緒に
その部屋は夏の夕日の陽射しを目一杯吸い込み、眩しいくらいだった。
部屋の中は実に質素で家具といえばタンスくらいで他には壁にテーブルが立て掛けてあるだけだ。
じいさんがいた時はさほど広くは感じなかったのだが、今の部屋は僕一人では少し大きい空間であった。
主であったじいさんがいなくなった部屋はがらんとしていて僕は部屋に入ると辺りを見回した。部屋の真ん中に胡座をかき、煙草に火をつけると煙をゆっくりとはいた。
「政雄、今日車くるんとちゃうかぁ?」
居間のほうから母親の呑気な声が聞こえてきた。
「昼過ぎたらっていうてた。まだ来いへんよ」
僕は煙草をくわえたまま、そう答えた。
今日、僕の車が届く。
こつこつと貯めたアルバイトの金で買った、僕の車が。
じいさんと、一年前に約束した、僕の車が。
僕のじいさんはとにかくわがままで偏屈な人だった。
村の名士の出身で、若い頃は軍人として戦争に行ったというじいさんは典型的な亭主関白の人であった。
大の巨人ファンで、テレビ中継が始まるとピクリとも動かず、熱心にテレビを見ていた。巨人が負ければ虫の居所が悪く、ちょっとした会話でもすぐにカッとなって怒鳴りちらすほどの人であった。ばあさんや母親などは野球なんてなくなってしまえとまで漏らすほどであった。
そんなじいさんに僕はとりわけ可愛がられた。孫たちには皆親切であったが、従兄弟や姉よりも僕はどうした理由かわからなかったが可愛がられた。小学校の頃なぞはよく野球を観に連れていってくれたり、こっそりと小遣銭をくれたりした。
親父がいなかったせいもあってか、このわがままの偏屈じいさんを僕は父親のように思っていた。
しかし、中学に上がり、一丁前に髪形なんかを気にする年になると、僕にとってじいさんはただのこうるさい偏屈じいさんにしか思えなくなってきた。
じいさんの虫の居所が悪いと察知すると僕はさっさと二階の自分の部屋に行き、ほとぼりがさめるまでマンガを読んだりした。
機嫌が良く、話しかけてくる時も僕は楽しいと思うよりも先に疎ましく思っていた。だから何をはなしかけられても僕は適当な相槌をうち、あしらったりした。
それでも僕も自分勝手で、僕の機嫌がいいときはじいさんと一緒に野球を観戦したり、話をしたりしていた。つかず、離れずといった関係は僕だけのものであった。
姉はいつもそんな僕を見ては
「あんた、ほんまにじいちゃん子やね」
といって笑った。
疎む存在であるくせに、僕にはやはり男の家族であり、唯一の話相手だったのだ。
高校に入れば僕は男である以上ごく普通に車やバイクといった機械に魅力を感じ、ご他聞にもれず速度機械を所有するということに思いをはせた。ただ他の人間と違ったのはバイクに乗りたいと欲求は微塵もなく、車にご執心であった。
にきびっ面の高校生であった当時の僕はそんな機械と、女性に興味があった。
親しい女友達の小林清美という子がいた。とりたてて器量がいいというわけでなし、成績も普通、外見も平均的な彼女を、僕は何故だか気に入っていた。
「口が知的な女がいい」
じいさんはよくそう言っていた。多分僕はこの言葉を女性の基準にしていたのかもしれない。小林清美の口元には清潔な知性があったのだ。車のことなんかまるでわかりもしない女性に別に自分が作ったわけでもない車の話を得意げに語ってしまう僕を彼女はふんふんとうなずいて聞いてくれた。
ある日の事だ。僕は学校が終り、本屋に車の雑誌を買いに行くとそこで偶然小林に会った。とりとめもない会話をした後、小林は僕の家にいってもいいかと聞いてきた。
僕は突然の事で意味もなく恥ずかしげに口を尖らせて理由を聞いた。
「お兄ちゃんがね、車買うねん。何を買うか迷うてるみたいやから、栗原君に車の本借りたいんやけど」
「そんなん、明日学校で渡すんでええやないか」
「ええやん。お兄ちゃん、早く車欲しいねんて言うんだもの。せやから早いほうがええもの」
僕は仕方無しにという表情を作り、家に足をむけた。
「栗原君の家、ここから近いのん?」
「五分ぐらいやで」
「ええなあ、駅から近いの」
「小林んとこ、どこや」
「駅からバスに乗って十五分も行かなあかんの」
小林は学校には近いのだけどと言った。
「それならええやないか。オレなんか時間かかるからしょっちゅう遅刻やで」
「近ければ近いなりに遅刻しそうになるねんで」
「それ君が悪いで」
僕は学校で話す小林とは違って横に一緒になって歩いている小林に僕は妙に緊張していた。
確かこの時間母親留守やな。婆ちゃんも買い物や。姉貴は仕事やし、じいさんも仕事やな……。なんや、家族誰もおれへん。僕は小林をちらりとみてから今自分が考えてしまったことをさとられないかと思った。
「栗原君の家っていい家やねぇ」
家につくと開口一番小林は言った。僕が玄関をあけるとテレビの音が聞こえてきた。僕は小首をかしげるとじいさんが居間から顔をだしてきた。
「なんや、政雄かいな」
「なんやねん、仕事、休みやったん?」
今一番会いたない人間がおるやないか。僕は心の中でそうつぶやくとそう言った。僕の後ろに立っている小林に気がつくと、じいさんは口元に含み笑いを浮かべた。
「今日は半ドンやったんや」
じいさんはそう言うと小林に挨拶した。
「政雄の祖父の清次郎でおます」
「あ、栗原君のクラスメートの小林清美です」
「ああ、こりゃ政雄がお世話になっております」
「いえ、ぜんぜん世話なんてしてません」
「おれも世話になっとらんでぇ」
「何いうてねんな。おまいが気ィついてへんだけやで」
じいさんはそういうとゆっくりとしてってくれといった。僕はうんざりした顔で居間に戻ったじいさんを見やると二階に小林を促した。
「栗原君のおじいさんてカクシャクとした人やねぇ」
階段を上がる途中、小林は小さな声で僕に言った。
「カクシャク?何や君、意味知ってていうとるんか?」
「よう知らんけど、パキパキしたって意味やないの?」
「何やねん、君。パキパキって」
部屋に入ると小林はキョロキョロと部屋を見渡し、へえと感心した。
「君、本ぎょうさん読んでるねぇ」
僕はCDをかけると座布団を出し、小林に進めた。僕の部屋は車の雑誌やらマンガ、小説などの本が散らばっている雑然とした部屋であった。
「そうでもないで」
「そうでもあるよ。お兄ちゃんの部屋なんかこんなに本あらへんわ」
「男の部屋に沢山本があると思てるんとちゃうかァ?」
「そやけど、私、本が沢山ある部屋好きやねん」
小林はそう言って小さく笑った。僕は車の雑誌を無造作に何冊かひっぱりだすと小林に渡した。小林はパラパラと雑誌をめくり、一人で感心すうようにうなずいていた。
「なんや気味悪いなあ。何一人で頷いてるん」
「車の種類ってぎょうさんあるんやねぇ」
「そらそうや。君、道歩いててわからんか?」
「どれも同じにみえるわ。私、カローラとクラウンていう車しかしらへんわ」
「そんなもんかもしれんな。女の目っちゅうのは」
小林は相槌を打つと足を崩した。その姿を見て僕は一瞬視線をそらした。
彼女が足をくずした時、スカートから白い綺麗な足が見えた。そしてスカートの少しめくれた部分の腿は僕の心臓を早く打たせた。 足をくずしたせいで小林は少ししなを作っていた。僕はその姿勢がいやに大人っぽく見え、僕はそしらぬ振りをしてちらちらと小林の足ばかりを盗み見ていた。
「ほんならこの本、借りてくわ」
小林はそう言うと立ち上がろうとした。その時、部屋の戸を叩く音がした。
「政雄、お茶入ったで」
じいさんはそう言うと戸を開けた。
「なんや小林さん、もう帰ってしまいますねんか?」
茶をのせた盆を持ったじいさんは幾分拍子抜けした顔で言った。
「ええ、もう帰ります」
「せっかくや、茶ァだけでも飲んでいきなはれ」
「ええねん。小林は何か用事があるみたいやから」
そうでっか。じいさんはそう言うと一瞬表情を曇らせたが小林の顔を見て顔中皺だらけにして、ほな気をつけてと挨拶した。小林もにっこりと笑うと挨拶をした。
「なんや政雄、駅まで送らないんか」
小林が帰るとじいさんは盆を持ったまま後ろから言った。
「子供やあらへんねんで。まだ日も明るいんや、一人で帰れるわ」
「阿呆やなぁ、女性を送るんは男の役目やないか」
じいさんは笑いながら僕の頭を軽く叩き、まだまだやなあ、ボンはと言った。
確かにあの時、僕は彼女を送っていくべきだった。じいさんは何もいわなかったが、小林が僕に気があった事を気がついていた。二学期の途中、小林は父親の仕事の都合で転校していった。これといった話もなく、また本も返さずに。
「あの娘はいい子やったなぁ。口元がキリっとしてて、知的やった」
小林が転校していった後、正月の年賀状が彼女から届くとじいさんはそう言った。
「そんなんでもなかったでぇ。あいつそんなに頭良くなかったで」
「阿呆。政雄よりよかったやないか?」
「……そらそうやけど」
僕は彼女から貰った年賀状をぼんやりとした間抜け面で見ながらじいさんの話に頷いた。
結局、彼女からの連絡はこの年賀状一枚だけであった。それ以後ぷっつりと連絡はなくなり、僕は僕で彼女に年賀状も送らなかった。
「政雄が車の免許取ったら楽になるなぁ」
高校三年の夏、僕は教習所に行く為の資金を稼ぐため、駅前のスーパーでアルバイトを始めた。
「別に姉ちゃんの送り迎えのために車の免許取るわけやないで」
仕事から戻ってくると僕は姉が用意してくれた冷や麦をすすりながら言った。
「ええやないか。たまには姉孝行しぃや」
「そんな孝行聞いたことないわ」
姉は麦茶をいれ、僕に出してくれると椅子に座った。
「車あったらドライブいけるな」
「そらそうや」
「姉ちゃん横浜に行ってみたいわ」
「勝手に行けばええやないか」
「なんや冷たいなぁ。おう、連れてってやるわぐらいのこといえへんの?」
僕は麦茶を一気に飲み干し、かかかと笑い、爪楊枝をくわえた。
「弟と横浜にドライブに行きたい思うのは姉ちゃんぐらいやで。彼氏にでも連れたってもらい」
僕は新聞をみて、今日巨人戦がある事を確認するとテレビをつけた。
テレビは巨人が一点差でヤクルトに勝っていることを告げていた。
「よし、勝ってるな」
ソファに座ると僕は扇風機をつけ、姉が切ってくれた西瓜を食べながらテレビを見た。
「政雄もなんやかやいって野球見るんやね」
姉は少し呆れた表情で僕の隣に座った。
「好きでみてるんちゃうで。じいさんが機嫌がよくなって帰ってくるかどうか心配なだけや」
「じいちゃんの虫の居所が悪いとすぐに部屋にいってしまうクセに」
「上にも聞こえてくるんやでぇ。じいさんの声。あれは部屋にいてもいやになるわ」
「そういえばおじいちゃん、あんたの教習所のお金の事お母さんに聞いてたわ」
僕ははて、と首をかしげた。じいさんが車に興味があるとは思えない。いくら可愛がっている孫といっても援助なんてしまい。
「なんでやろ」
「さあ、知らんわ。金額聞いたらしかめっ面しとったわ」
姉はそう言うと小さく笑った。何がおかしいのかと僕が聞いても姉はなんでもあらへんわと言って答えなかった。
姉はおっとり屋で、誰にでも優しかった。身内の僕が言うのもおかしいが、顔立ちもきれいな自慢できる姉であった。
短大を出て今の会社に勤めて一年になるがこれといって彼氏が出来るわけでもなく、男の人からも電話がかかってくることがなかった。
「なんで男が出来へんのやろな」
じいさんはことあるごとに姉をみながらそう言った。そして孫の中で唯一の女である姉を見る度に目を細め、わしが生きている間に花嫁姿がみたいわともらした。
姉は弟の僕に対してすごく甘かった。部屋の掃除をしてくれたり、時折母に内緒で小遣いをくれたりもした。高校生の僕としては照れくささもあって外に出るときはなるべく姉と一緒に歩きたがらなかった。
「あんまり僕と一緒に歩かんといてくれるかなぁ。危ない姉弟と思われるで」
ある時僕は冗談混じりにそう言ったことがる。その時姉はひどく哀しそうな目をして僕を見た。
「政雄みたいな人が恋人やったらいいのになぁ」
そう言って姉は寂しそうに笑い、僕の頭を撫でた。
「あやしいエロ本やあるまいし。姉ちゃん、その発言は気をつけなあかんで」
僕は姉の言葉にドギマギしながらそう言って自分の部屋に上がってしまった。
姉は男の人に甘えてもらいたかったのだ。変につよがってみせる男が可愛そうで、気兼ねなく女性に甘えられる僕みたいな人が本当の男だと思っていたのだ。ある時、姉は僕にそう言った。
男というのは変にプライドが高くって女の前では強くありたいと思うものだ。女の人が好きな男の前できれいでいたいと思う心理と同じだ。
その時僕は姉にいったが不思議そうな顔をして僕を黙って見ていた。万事姉はそういう人であった。僕はその事をじいさんに話した。するとじいさんはしきりに頷き、姉をほめた。
「せやせや。京子のいう通りや。お父ちゃんとお母ちゃんの育て方がよかったんやな。ええ子や。ほんまにええ子や」
そして僕を見て、政雄はちょっと間違うたのかもなと言って悪戯っぽく笑った。
「何やねんな。僕だけアタマ悪そうな言い方しよってからに」
「ええか、政雄。ええ言葉を教えたるわ。昔な、日蓮ちゅう偉い坊さんがおったんや」
「そんぐらい学校で習ったがな」
「横からチャチャ入れんとき。で、その日蓮が門下にあてた手紙にこんな言葉があるねん。『男は恥に命を捨て、女は男に命を捨つ』と。どや、ええ言葉やないか」
じいさんは一人でしきりに感心した。そして僕の頭を軽く叩き、男は恥に命なんて捨てるもんやないぞぉと言った。
その日、バイトが終わると本屋に行き、車の本を買うとそそくさと僕は家に帰った。夕御飯を食べると部屋にこもって買ってきた車の雑誌を飽くことなく眺めていた。
「政雄、ちょっとええか?」
戸を叩き、じいさんの声が聞こえた。
「なんやねん?」
「話があるんや」
じいさんはそう言うと戸を開け、入ってきた。
「なんや、部屋の片付けぐらいせえや。これじゃ座るとこあらへんやないか」
そう言うと本をよけて胡座をかいた。
「アルバイトの金、いくらくらい稼げそうやねん」
「十万ぐらいや」
「それじゃ足らないんやろ」
「うん、足らへん」
「ほな、わしが少し出したるわ」
じいさんは腕を組み、にっこりと笑った。僕は顔をしかめ、本から目を離した。
「ほいほい出せる金やないやないか」
「そらそうや。なんやうれしないんか?」
「そらありがたいで。でも、大金や」
おまえの金やで。じいさんはそういうと一月五百円貯金の話をした。
僕が小学校一年の時、じいさんが毎月五百円づつ僕と姉に小遣いをくれた。ある月から貯金をしていこうと言われ、そのままであった。僕はその時に貰えないのがその頃不満であったが、いつしか僕もそんなことを忘れていた。
「小学校の時の六年間で三万六千円、中学で一万八千、高校でも一万八千や。全部で七万二千円。どや、足しになるやろ」
「ほんまにずっと貯金しててくれたんか」
「そうや。姉ちゃんと政雄、それぞれ貯金してるんやぞぉ」
じいさんはにこにこしながら話した。それでなんとかいけると僕がいうと、じいさんは封筒を僕に渡した。なかにはじいさんの言った金額があった。
「お母ちゃんには内緒やぞ。わしがあげたとなるとうるさいよってに」
「うん……。でもすぐばれてしまうで」
「かんたんなこっちゃ。もすこしアルバイトを続けりゃええねん。学校が終わったあと、少しの時間でも雇ってもらい。そうすればいくらかまた稼げるやろ?」
「うん」
「そしたらそれは小遣いにするもよし、車買う貯金にしてもよしやないか」
「うん」
「これで問題解決っちゅうやつや」
僕の頭をポンポンとたたくと、じいさんは僕の読んでいた車の雑誌を見て、なんやつまらん車ばかりやな、と言った。
「昔、わしの友人が真っ赤な外車に乗っておったんや。……なんて車やったかな……。確か、アメリカの車やった」
じいさんは目を細め、天井を仰いだ。そして、手を叩き、
「せや、ファイアバードいうたわ」と言った。
「でっかくて、派手でな。屋根ないねん」
「そらコンパーチブルっちゅうやつや」
「ほうさよか。あれなんかええでぇ。ごっつくて、速かったで。ただ無茶苦茶ガソリンくったけどなぁ」
じいさんはカカと笑った。
「そんなん高くて買えへんわ」
「ま、そやろな。でも、舗装されたばかりの道を走りにいったんやけど、まあ、楽しかったで。こんな車作ってしまうんや。日本も戦争に負けるがな」
いつか走ったあの道を、また走りたいなぁとしみじみと言った。政雄もいつかあんな車に乗れるとええなと言って笑った。
僕はこの事を一種の感動をもって憶えている。
貯金なんてしてなかった。じいさんは小遣いをくれる理由をずっと考えていたのだ。僕すら忘れていたことを、じいさんが覚えているはずはなかったのだ。
僕にとってそれは感動的であった。涙が出るほど有り難い金であった。そしてそんな洒落た理由を考えついたじいさんを僕は少なからず尊敬した。いつまでもこんな洒落たじいさんであってほしいと。 いつしか僕は車という男の子の憧れの機械でじいさんとつながっていった。
じいさんから貰った金と自分がアルバイトで貯めた金をはたいて、僕は高校を卒業する年の一月から教習所に通い始めた。学校が自由登校であるこの時期、僕は教習所に通いつめ、夜は夜でアルバイトに精を出した。
「いつ頃免許とれそうなの?」
バイトから戻ってきて御飯の準備をしている姉が聞いてきた。
「そやな、卒業するまでには取れるで」
「あら、そんなに早くとれるの」
「そらそうやで。オレ、遊びにいかんと教習所に行ってるんやから」
「免許とったら、すぐに車欲しくなるんやないの?」
せやろな。僕はそう言うと姉のよそった御飯を頬張った。姉は僕の向かい側に座るとニコニコと笑いながら御飯を食べる僕をみつめていた。
「なんや気味悪いな。そんなんオレが飯食うてるのがおもろい?」
「約束、覚えてる?」
「はて、なんか約束したか?」
「ヒドイなあ。お姉ちゃんとの約束覚えてないなんて」
姉は横浜にドライブに連れてってくれる約束をしたと言った。
「それ、約束した覚えないで」
「そんなことないわ。ちゃんと約束した」
「してへんわ。あれは姉ちゃんが勝手に言うてたことやないか。オレ、知らんわ」
「ええやないの。連れてってくれんかったら、こっちにも考えあるわ」
姉はそう言って悪戯っぽく笑った。僕はその笑みが意味ありげで、箸をとめた。
「なんやねんな。オレ約束なんてしてへんぞぉ」
「車すぐに欲しいと思うたから、頭金、少し融資したろうと思ったの。やめよ」
「汚いなあ。これやから大人はいややねん」
僕は終始勝ち誇ったような笑みを浮かべた姉にあかんべえをした。
「いらんわ。そんなもん。なくても稼いで車買うてやるわ」
「簡単なことやないの。姉を横浜にドライブに連れていけばいいだけよ。こんな良い条件ないわ」
「だからいうてるやないか。彼氏出来たら連れたってもらいや」
「何や姉弟ゲンカかいな」
浴衣を着た風呂上がりのじいさんがしかめっつらでそういった。
「ひどいんやで、政雄の奴。ドライブくらい連れてってくれてもええのに」
「車の頭金を融資したるっていう汚い手を使ってまで行きたいもんやないやろ」
じいさんはかかかと笑い、冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注いだ。
「なんや政雄、姉ちゃんのお願いくらい聞いたり。貯金を出してくれるんやからええ話やないか」
「そらそうやけど、なんでオレやねん」
「ええやないか。それともだれぞ横に乗せる女の子があるんかい?」
じいさんはいつものようにからかうように言うと僕を見た。
「もう決めてるんや」
「何を?」
「最初に乗せる人、決めてるねん」
僕はふくれっ面をしながら咄嗟のでまかせをいった。
「最初やなくてもいいやないか。どうせ最初にのせるのはお母ちゃんやろうから」
「ええやないか。誰かて」
「なんか怪しいなあ」
姉はそう言って天井を見た。僕は口を尖らせたまま風呂に入った。
風呂から上がってくると居間にはじいさんが野球のニュースを見ていた。
「ジャイアンツ調子はどうやねん?」
「おう調子よさそうやでぇ。今年こそは優勝できそうやねん」
じいさんは満面に笑みを浮かべ、言った。僕は麦茶をコップに注ぐと、じいさんの隣に座った。しばらく二人でニュースを見ているとじいさんが思い出したように鞄を持って来て僕を呼んだ。
「何?」
「今日な、仕事の帰りにええ車をみつけたんや。こら随分シャレた車やなぁと思て、本屋に行ってその車を捜したんや」
「見つかったんか?」
じいさんはニヤニヤ笑いながら鞄の中から一冊の本を出した。
「これやで」
その本の表紙には白い車のイラストが買いてあった。
「これ、アルファロメオやないか」
「よう知ってるな。これ、これやで。この表紙の車がそれやねん」
僕はその本を手に取り、パラパラとめくった。
「この本、持ってないやろ」
「うん、持ってないわ」
「それ、政雄にやるわ」
じいさんはそう言って麦茶を一口飲んだ。
「じいさん、これ本屋で探して見つけてきたんか?」
「せやでぇ。ごっつい時間かかったで。挙げ句の果ては店員にまで聞いたんや」
そのあとじいさんはその本に書いてあったウンチクを長々と喋った。
「……でな、この車は……」
「何でそない好きやねんな」
「この会社の歴史やな」
じいさんはふとそうつぶやいて目を細めた。
「歴史?」
「せや。栄光と没落、そして蘇生の歴史や」
僕はその時、よく意味のわからないままふうんと頷いて流した。じいさんが部屋に戻った後も、僕はじいさんの言葉の意味を考えた。栄光、没落、そして蘇生。じいさんがこの車の好きな理由。僕は首をかしげたまま、天井を仰いだ。
「なんや、お風呂上がったんなら上がったっていうてよね」
姉は着替えを持って居間に入ってきた。
「なに、その本?」
僕の手にあった本を見ると興味深そうに手に取った。
「これ、随分カッコのいい車やないの」
「アルファロメオ、言うねん」
「どこの車?」
「イタリア」
僕は首をかしげたまま、横のソファに座ってページをめくる姉に言った。
「これ、買うの?」
「わからん」
「お姉ちゃん、この車気に入ったわ」
「じいさんもそう言うてたわ」
本を一通り見ると姉は立ち上がった。
「なあ、姉ちゃん」
「何?」
「栄光と没落、そして蘇生」
「あんた頭おかしくなったんとちゃう?」
「それがじいさんのその車がますます好きになった理由やゆうたんや」
「それで?」
「それでて……。どんな意味あるんかなて」
「さあ、知らんわ」
湯冷めするからはよ寝えや。姉はそう言って風呂に入った。僕は本を持って二階に上がるとパラパラと本を読み返した。
僕はその日から教習所に通う時、必ずそのじいさんから貰った本を一緒に持って行き、暇になるとページを開いた。
確かにアルファロメオという会社の歴史は輝かしい栄光の時代、そして没落。不振であえぎながらついに復興する。まさしくじいさんがいっていた通りの歴史である。しかし、それがじいさんを魅了する要素であるのか僕は不思議に思った。
「よくよく考えたら、じいさんのこと何も知らへんのやな」
僕はじいさんの歴史というものについて全くといっていいほど無知であった。村の名士のボンボン息子としか知らなかった。
教習所から戻ると家はバタバタと慌ただしく、家族が動いていた。
「おう政雄、ええ時に戻ってきたわ」
じいさんが湯飲みを片手に僕を見るなりそう言った。
「なんやねん。この騒ぎは」
玄関口で僕はいったりきたりしている母親を見ながら言った。
「京子がなあ、男連れてくるねん」
「はあ?」
じいさんの言葉に僕はきょとんとした。
「何そこつっ立ってんな。ちょっと買い物行ってきてや」
母親は髪を振り乱し、掃除機を抱えたまま僕に言った。
「姉ちゃんが男連れてくるてホンマかぁ」
「えらいこっちゃで。いきなりやからな。お母ちゃんとばあさん、泡食ってるで」
じいさんは茶をすすりながらちょこまかと動く母親とばあさんを見ながら嬉しそうにいった。僕は台所に入り、冷たい麦茶を一杯飲み干すと、母親からメモと金を渡された。
「すぐに行かなあかんの?」
「当たり前や。夕方には来る言うねんから」
「少し休ませてほしいで」
「呑気なこといわんで、さっさと行って来てや」
僕は口を尖らせ、しぶしぶと玄関で靴を履いた。
「政雄、わしも一緒に行くでぇ」
じいさんがステッキを持って僕に言った。
「ええよ。買い物ぐらい一人で出来るがな」
「家におっても邪魔なだけやから、外に出るんや」
そう言ってじいさんは靴をはいた。
「ほなら政雄とわし、出掛けてくるで」
「買い物すませたら寄り道せずに帰ってくるんやでえ」
玄関越しに母の声が響いた。
「そうガミガミ言わんでもわかってるがな」
なあと僕に言うとじいさんはスタスタと歩き出した。
「どや、政雄。もうすぐ免許取れそうか?」
緩い冬の陽射しを向かいに信号をまってる間、じいさんは目を細めた。
「まだ仮免許も取ってないで。まだまだ先や」
「何やすぐに免許くれるんやないのか」
「当たり前や。そんなポンポン簡単に免許出してしもたら危なくてしゃあないで」
信号が青になり、僕は歩きながらじいさんに免許の取得の順序を話して聞かせた。
「何やエライ難しいことになっとるんやな。わしらのころは結構簡単に貰えたで」
じいさんはしかめっ面でそう言うと首をかしげた。駅前のストアで買い物を済ませると僕は家に向かって歩こうとした。
「何や政雄、もう帰るんか?」
「もう帰るんかて……。はよ帰らな母ちゃんに怒られるわ」
「ええやないかコーヒーでも飲んで少し休んでもバチは当たらんし、京子達もそうすぐには来ぃへん」
じいさんはそういうと反対方向にスタスタと歩き出した。僕はしゃあないじいさんやでと一人ごちて、後を追った。
「姉ちゃんが彼氏連れて来るのはホンマの話やのん?」
暖房の利いた喫茶店に入ると僕はじいさんに聞いた。出されたお冷やを一口飲むとじいさんは大きく頷いた。
「昼に電話がかかってきてな。今日、お母ちゃんに会わせたい人がおるねん、連れていくわ。っちゅう電話があったんや」
「姉ちゃんも大胆不敵な所があるんやなぁ」
小さく笑うと僕はおしぼりで手をふいた。
「誰かて突然の話や。驚くで」
「電話なんてかかって来たことないやないか」
「せやなぁ。それが謎やねん」
もしかしたら自分からかけてたのかな。僕はそうつぶやくとコーヒーをすすった。同じ会社の人なのか、年がいくつかといった事すらわからない人をいきなり家に連れてきて家族に会わせるという発想が姉から出てくるというのは不思議であると同時に姉ならやるかもなという漠然とした思いもあった。
「なんにしてもめでたいこっちゃで」
じいさんはうれしそうに言うと煙草に火をつけ、くゆらせた。
「どこぞの馬の骨かも知れんのやで」
「京子の事や、そんなことあらへんがな」
「危なかっしい奴やから突然に会わせて有無もいわせへんようにするのかも知れへんでぇ」
「そしたら父親代わりのわしがそいつを投げ飛ばしちゃるわ」
無茶いいよるわ。僕はははと笑い、コーヒーをまた一口すすった。
「幸いなのは野球の試合がないことや」
僕はおどけてそういうとじいさんの顔を見た。じいさんはせやなぁ、わしジャイアンツ負けとったら、どんな奴でも反対しかねないものなあと他人事のように言った。
「せやせや、姉ちゃんもそれ狙ってこの時期にしたんとちゃうかなあ」
目上の人間に向かって失礼な事ばかりいうもんやないで。じいさんは笑いながらいうと煙草をふかした。
姉が帰ってくるまで、母とばあさんはソワソワと時計を見ながら居間にいた。
僕はソファに座って雑誌を見ながらそんな母たちを盗み見た。
「どんな男連れてくるんかいのぉ」
部屋から出てくるとじいさんは呑気な調子で言いながら居間に入ってきた。
「そんなん知らんわ。京子ったらいきなり連れて来るいうんやから……」
「突然でも突然でなくても母ちゃんの様子は変わらしないと思うで」
それもせやな。相槌を打つとじいさんは椅子に腰掛け、スポーツ新聞を広げた。
「二人とも呑気な事ばっかりいいよってからに……ホンマにもう……」
「ただいま」
玄関が開き、姉の声が聞こえると僕らは一斉に返事をした。母親が玄関口にそそくさと出て行くと、綺麗でハキハキとした口調の男の声がした。
「すいません。突然の事で本当に申し訳ございません」
丁寧な挨拶に母親のしどろもどろな声が答えた。
「なんや、声がうわずっとるがな」
じいさんが情けなさそうな表情でつぶやいた。一階のじいさんの部屋に入る音が聞こえるとばあさんがお茶の準備をし始めた。
「どんな男やった?」
戻ってきた母に僕は聞いた。
「腰の低い、まじめそうなヒトやで」
「ええ男かいな?」
じいさんも興味深そうに聞いた。
「顔はそれほどでもないでぇ」
茶を盆にのせながら母は小さく言った。僕も顔出したほうがええかな。そういうと母は後で呼ぶからといってまたそそくさと出ていった。
「声からして好青年に感じるなぁ」
「どこぞの馬の骨と言ってたやないか」
僕のつぶやきにじいさんはニヤニヤ笑いながら頭をこずいた。
僕とじいさん、ばあさんは居間で呼ばれるのを待っていたがいつまでたっても母も姉も呼びにこず、僕らは多少イラつきながら新聞や本、テレビを見ていた。部屋からは時折笑い声が聞こえてきて、僕らは聞き耳をいつしか立てていた。
「しゃあないなぁ、わしが一つ見てくるわ」
しびれをきらしたじいさんが新聞をたたみ、立ち上がった。ばあさんはじいさんをたしなめ、呼ばれたら行けばいいとじいさんに言い聞かせた。じいさんは渋々椅子に腰掛け、煙草に火をつけた。
「おじいちゃんたち、来てくれる。紹介したいから」
じいさんが煙草を吸い終わる頃、姉が居間に来た。じいさんは咳払いを一つすると、髪をなぜつけた。少し頬の赤く染まっている姉を見ると僕は少しばかりの複雑な気持ちを抱いた。
「随分と遅かったやないか」
「お母ちゃん、一人で勝手にしゃべっちゃて呼ぶヒマなかったんやもの」
じいさんはさよか、ほな行こうかと僕とばあさんを促すと、姉の後にくっついて部屋に入った。
髪を綺麗にセットした、少しばかりさえない顔の男の人が僕らが入って来るといささか緊張の面持ちでネクタイを直した。
「ネクタイがよけいに曲がってしもうてるで」
姉に小声でいうと僕はその男の人をよく観察した。
「北沢さん、ネクタイ……」
「え?あ、…すいません……」
姉の言葉に顔を赤くしながらネクタイを直すと照れ笑いをした。
「おじいちゃんとおばあちゃん、それにこれが弟の政雄」
会釈をすると北沢三は深々とお辞儀をしてよろしくと言った。
「祖父の清次郎でおます」
じいさんはそういうと僕の横に座った。
「北沢達也と申します」
北沢さんは僕の時と同じようにじいさんとばあさんにも深々とお辞儀をした。
「北沢さんはどこの生まれですか?」
茶をすするとじいさんが聞いた。
「あ、東京です」
「ほう、東京ですか」
「こちらにきて何年立つんですか」
「こちらに転勤になってまだ二年です」
「お仕事はお忙しいねやろなぁ」
じいさんは煙草に火をつけると胡座をかいた。僕はチラチラと姉を見ながら茶をすすった。姉は姉でじいさんをチラチラとみながら落ち着かない様子であった。
「いや、忙しくはないです」
「ほならヒマですか?」
「いえ、仕事は沢山あるんですが……」
せやったら忙しいんやないか。僕は心でつぶやくと口を尖らせた。
「せやったら忙しいと同じとちゃいますねんか?」
穏やかな口調であったがその言葉に姉は表情を少し曇らせた。
「忙しいという漢字は心をなくすと書きます。僕はどんなに忙しくても心をなくしたくありません。だから忙しいとはいいたくないんです」
それに僕より忙しい人なんて沢山いますので、と北沢さんははにかみながら言った。じいさんは北沢さんの顔をじっとみながら話を聞くと大きく頷くと正座をし、居住まいを正した。
「この娘には父親がおりません。せやからこの老人が父親の代わりをしてると思うてます。せやからたいした男でなかったら付き合いを許すわけにはいきませんのや。せやけど今の話と北沢さんの目ェを見させて頂いて間違いないと確信しました。どうぞ、京子をよろしゅう頼みます」
そう言うと深くお辞儀をした。北沢さんも体をこわばらせ、額を畳にすりつけるようにしてお辞儀をした。僕はじいさんのことを呆気にとられながら見たあと、姉を見た。姉は目を潤ませ、じいさんにありがとうと小さく言うと鼻をすすった。
「いやあ、こんなにええ青年、何ではように会わせんかったんや」
顔をあげるとじいさんは顔を皺くちゃにしながら笑った。
「京子の花嫁衣装、死ぬ前に拝めるでぇ。のうばあさん、これはめでたいがな」
じいさんに催促され、母はビールを持ってきたが、北沢さんは自分は酒が飲めないのだ言って辞退した。
「そうですか。いや実はわしも飲めんのですわ」
でも折角のめでたい席だからと一杯だけでもと言って皆のグラスにビールをついだ。
「ボンも特別や」
じいさんはビールの入ったグラスを僕に渡すと片目をつぶった。乾杯をすると北沢さんは一口飲むとむせてしまい、激しく咳込んでしまった。
「すいません。すいません」
咳込みながら北沢さんは謝ると姉のジュースを一口飲んだ。
「謝る事あらしません。酒飲むやつにロクな奴はいませんがな」
じいさんはかかかと高笑いし、母とばあさんが用意した料理に箸をつけ、皆にも薦めた。話は多岐におよび、会話がとぎれる事はなかった。僕は料理を口に運びながら、横でじいさんの自慢話に耳を傾けた。
自分の山があってそこで狩りをしたこと、父親に叱られ蔵にいれられたこと、戦争で兄弟が戦死し、自分だけが生還したこと。次から次へと話は流れ、僕はいつしか黙ったままじいさんの話に聞き入っていた。
「戦争が終わってこれからっていう時に父親が死んでしもて、わしは愕然としてしまいました。母もなんや気ィ抜けたようなってしもて、幽霊のようにしてましたんや」
じいさんはウーロン茶を一口舐め、口をしめらせた。
「戦争で傾いてしまった商売も結局建て直せなくて、わしら裸同然でこの大阪に来たんですわ」
「こういうことを知らない人間が口にするのもなんですが、大変でしたね」
「そらもう大変でしたわ。わし一人で母親とじいさんの面倒見なあかんのですから」
でも、と言ってじいさんは姉を見ながら僕の頭をそっと撫でた。
「そないなこと、この孫や家族で暮らせておるからチャラですわ」
そういってじいさんはまた高笑いをした。ああそうか。だから栄光と没落なんだと。栄華極まった時代からその地位から転落していった時代。それはまさしくアルファロメオという会社の歴史と符号するではないか。僕はそう考え、じいさんを見た。
話がつきるのを待たず、夜も遅くなってしまい、北沢さんは帰った。母もばあさんもほっとした表情で椅子に座って茶をすすっていた。姉は着替えて降りてくると、僕の横に座った。
「今日は突然に勘弁な」
「別に僕はいいで」
「政雄に気ィつかわんでもよろしいがな。それよりじいちゃんとばあちゃんにちゃあんと挨拶しとき」
母は北沢さんをいたく気に入った様子で姉にそう言葉をかけ、疲れたからもう寝ると言って二階にあがった。
「京子が気ィ使うてどないするねん。自分が幸せになるんやないか。人に気ィ使う事なんてあらへんわ」
ばあさんはそういうと顔をしわしわにして笑った。
「ばあさんはええこというで」
風呂上がりのじいさんはタオルを首からかけながら入ってきた。
「京子が幸せになればわしら家族も幸せなんや。せやからばあさんのいう通り、気ィ使わんでもええで」
姉は小さく頷き、ありがとうと言った。
「横浜にドライブなんて北沢はんに連れてってもらったらどや。こんなケチンボなボンよりそのほうがええでぇ」
ばあさんが風呂に立つとじいさんはそこに座って姉に言った。
「なんやねん。僕ばかりイジメよってに」
「イジメてへんよ。政雄のいう通りかもしれへんよね。でもね……」
「わかるで、その気持ち。コラ政雄ちゃあんと京子の気持ちをくんでやな……」
「北沢さん免許もっとらへんの」
じいさんの話にかぶせるように姉は言った。僕とじいさんははあ? と言って姉を見た。姉はすこし恥ずかしそうにもう一度言うとせやから政雄と行きたいのだといった。
「なんや、そらアカンで。免許もつとらんとなあ」
そのじいさんの言葉に僕はケタケタと笑い転げた。
「そんなに笑わんでもええやないの」
姉はそう言うと僕の頭をこづいた。僕はそれでも笑いが止まらなかった。
「それはそれでええんとちゃうかぁ。車じゃ見えへんこともあるよってに」
じいさんはよかったと何度もつぶやくと姉の頭をなで、部屋に戻った。
僕は姉のまだ少し上気した顔を見ると、小さくおめでとうとつぶやいた。
「北沢さん、気に入ってくれた?」
「ええ男やないか。顔は僕のほうがいいけど」
「似たりよったりやない?」
「そうかぁ?僕のほうがモテそうな顔してるけどなあ」
僕は顎をさすりながら首をかしげた。
「北沢さんは甘えてくれるんかぁ?」
僕はふいに姉に質問した。昔姉が口にした言葉を僕は北沢さんがあてはまるかどうかを今日ずっと聞いてみたかった。
「うん。政雄みたいにやないけど、甘えてくれるわ」
そういうと姉はもう一度反芻し、小さくこくんと頷いた。
「でもそう見えて北沢さん、強い人ややろな」
「うん、ウチもそう思うわ」
僕はじいさんの長い話をずっと正座して一生懸命に相槌を打っていた北沢さんと結局曲がったままであったネクタイを少し羨ましい気持ちで思い返した。そしてしばらく僕ら二人は無言でテレビの酔狂な番組を眺めた。
その日の夜、じいさんが倒れた。
夜中に突然大きい鈍い音がし、二階の僕はびっくりして起きた。何かが倒れたのか落ちたのかわからないその音は一階から聞こえ、僕はじいさんとばあさんが大丈夫か心配になって下に降りていった。蛍光灯の眩しさが目にしみ、ぼやけた視界の中でオロオロするばあさんが見えた。
「どないしたん?」
「じいさんが、じいさんがトイレで突然倒れてしもた」
僕はすぐにトイレを覗いた。
そこには便器に頭を強く打った血まみれのじいさんが窮屈そうに倒れていた。便器には無数のヒビが走り、白い便器に鮮明な赤い血がべっとりとついていた。
「電話や、電話。救急車呼びや」
僕はじいさんのかすかにする息を聞き取ると大声で叫んだ。母も姉も下に降りてきた。
「なんや政雄、どうしたんや?」
母が寝ぼけた声で言った。じいさんが倒れたというと姉はすぐにトイレを見た。そして小さく悲鳴をあげると僕の腕にしがみついた。僕は姉の肩を叩きながら電話をし、救急車を呼ぶと、ばあさんと姉を居間のソファに座らせ、トイレのじいさんに声をかけた。
救急車がくるまでの短い時間は僕には一生のように感じられ、何度も何度もじいさんに大声で話しかけた。
救急車が来るまでの間、結局じいさんは返事をしなかったが、息はあり、救急医員の人の処置で病院に向かう途中にうっすらと目をあけた。しかし呼び掛けに反応はなく、ただうつろな視線をあちこちになげているだけであった。
診察の結果、じいさんは脳血栓と診断された。右半身が不随になるといわれ、憔悴しきったばあさんはただ頷くのみであった。医師の話を姉と母に伝えると僕は小さく溜め息をついた。こめかみを指で揉むと僕は売店で何か飲み物を買ってくると言って立ち上がった。
「私のせいやわ」
姉がつぶやくように言った。
「なんでやねん」
「私が昨日北沢さんを突然会わせたから」
「そんなん関係あらへんよ」
「それでほっとして気ィ緩んだからかもねえ」
母はそう言って所在無げに視線を漂わせた。
「それにしても姉ちゃんが悪いわけやないやないか。年とってたし、塩分もとりすぎてたし、煙草かてそうや。なる可能性は十分あったんや」
「せやけど……」
姉の声が震え、涙声になった。僕はもう一度姉をなだめると、売店に向かった。
病室のじいさんはだらしなく口をあけ、涎をたらしていた。言葉が不自由でよく聞き取れなかった。僕はわからないままウンウンと頷き、涎を拭いてやった。ばあさんと母は看病に残り、僕たちはタクシーで家に戻った。道すがら、姉は泣くだけで、僕は無言で流れる冬のひきしまった風景を眺めた。
じいさんの入院で生活費が苦しくなった家に僕はバイトの金を入れた。入院費用は全部払うといって聞かなかった姉を折角の結婚資金を使うことはないと説得し、姉と僕が折半すると決め、僕は一時免許をあきらめるかたちとなった。北沢さんも時折家に寄っては姉をなぐさめ、母に幾らかの見舞金をおいていった。
「そんなんしてもらわんでも大丈夫です」
僕は北沢さんと駅近くの喫茶店で事情を説明し、丁重に断った。北沢さんは少しのあいだ考えこみ、やはりせめてのお見舞いにお渡ししたいと言った。
「僕は君のおじいさんが好きなんです。その人が倒れたからには何かしてあげたい。けど僕は何かをしてあげれるわけじゃない。だからせめてお金だけでもと思って……」
沈痛な表情をした北沢さんにそれ以上断りをいうのも申し訳なくなり、僕はお礼をいった。
「政雄君はおじいさんが好きなんだね」
少し表情がやわらかくなった北沢さんはそういって微笑み、よく姉から聞かされたと話した。
「そうでもないです。じいさんには可愛がってもろてるけど、僕は疎ましく思っていたぐらいですねん」
僕はコーヒーを飲みながら、頑固で癇癪持ちのじいさんの話をした。
「それに嫉妬深くてギャンブル好きやったと母は言うてました」
そんな人を僕は好きじゃありません、と僕は言った。しかし、僕はいいながらじいさんの事を本当に嫌いなのか思い返した。雑誌を広げては車の話や野球の話に興じ、街中を走る車を見ては品定めをした事。教習所の金を用立ててくれた事。そしてこの喫茶店で二人で話した事。僕はそれらを思い返しながら本当にじいさんが嫌いなのか何度も胸で反芻した。
「本当は父親みたいに慕ってたのは政雄やってお姉ちゃんが言ってたよ」
僕も同じくらいの年に今の政雄君と同じように思っていたと北沢さんはやさしく語りかけた。
「かいかぶりですわ。僕、そんなにいい子やおまへんで」
僕はそういってコーヒーを飲み干すと、見舞金の礼を言うと立ち上がった。
「毎日は行けないけど、お姉ちゃんのこと、頼むね」
北沢さんはそういうと、支払いはいいといって僕を見送ってくれた。
二月の終りごろ、じいさんはボケがひどくなってきていた。それに体や言葉が思うように出ないせいもあって癇癪が激しくなった。病院の看護婦も手を焼き、母やばあさんは看護婦に謝ってばかりであった。
「何いうとんねん。別に謝らんでもええやないか。相手は病人やぞぉ。仕事なんやから我慢せいちゅうねん」
見舞いから帰ってくる母たちの話を聞く度に僕はそう言った。僕は休みなくバイトをしているため、じいさんの所になかなかいけなかった。しかし、姉が見舞いに行った時、じいさんがしきりに車の話をしていたと聞き、僕は休みを取って見舞いに行く事にした。
病院につくと僕は大きなわめき声が響いているのに気がついた。遠くの方で聞こえるそれはじいさんのいる病室の方からであった。
そして病室に向かうにつれ、その声はじいさんであることがわかった。病室に入るとじいさんは子供のようにわめきちらし、看護婦はどうにも困った様子でじいさんを見ていた。僕が入ってくるのを見るとじいさんは僕に向かって何かを言った。
「ご家族の方?」
「そうですけど……。何かあったんですか?」
「どうもこうも。何が何だかわからないんですよ。突然やから……」
「はあ、そうですか」
僕をきつい表情で見る看護婦は顔立ちのきれいな若い女性であった。僕は謝ることもせず、じいさんの横に座った。
「あれ、入れ歯どないしたんや」
「昨日からないんですよ。どこかに失くしてしもたんやないのかしら」
看護婦はじいさんの脇から体温計を取るとそう言った。
「探してもみつからへんのですか?」
「ずっと探してるんですけどねえ」
そういうと看護婦は病室をさっさと出ていってしまった。じいさんは薄い膜がかかったように濁ってしまった瞳を向け、僕に必死に話しかけた。しかし、空気が抜けるような音にしか聞こえず、僕は何遍聞いてもわからず、途方にくれてしまった。
「い…、いれれ…ば…、ばぬ……」
かろうじて聞こえた声を僕は必死になって解読した。
「入れ歯、盗まれたいうんか?」
僕は怪訝な表情で聞いた。じいさんは涎をたらしながら僕の服の袖を握って頷いてみせた。
「そないなことあるわけないやないか。そないなモン盗んだかてしゃあないやろ」
じいさんは聞き分けのない子供のようにかぶりをふってまた必死になって話しはじめた、僕には結局理解できなかった。僕はじいさんをなだめすかし、ようやく寝かしつけると隣のベッドに寝ている若い男の人がはなしかけてきた。その人の話によるとあの看護婦はじいさんに手を焼き、よくじいさんをきつく叱っているそうだ。それに入れ歯がなくなったというのもあの看護婦があまりにうるさいからと隠したという噂がまことしやかに流れているのだと小声で言った。
「えらいすいませんなぁ。じいさんわがままやから横で随分と迷惑かけてるんとちゃいますか?」
「いえ、とんでもないですよ。おじいちゃん、僕のこと時々息子さんか誰かと勘違いしてよう世話になってます」
そうそう。というと男の人は枕の下からボロボロになった車の本を出してきた。
「これ僕にくれたんですわ。好きな車のってる本やでえゆうて。毎日のようにおじいさん、この本読んでましたよ」
雑誌の表紙には大きくアルファロメオ特集と書いてあった。男の人は僕に渡そうとしたが、僕は持っていてくださいと言い、部屋を出た。
玄関に向かう途中、僕はあの看護婦が若い患者と楽しそうに話しているのを見た。患者が必死で口説き落とそうとしているのか、看護婦は困ったような表情をしていたが、目はまんざらでもなさそうなものだった。
「口元のだらしないウソつき女」
僕は小さくつぶやき、口をきっと結んだ。入れ歯はなくしたんじゃなく、あの看護婦が隠したんだと僕は意味もなく確信をした。
外に出るとにわかに風がふきはじめていた。僕の頬はぴっとひきしまり、風の冷たさに目を細めた。急速に看護婦への怒りは萎え、じいさんの涎をたらした姿を思い出した。そしてふと北沢さんの言葉が脳裏に浮かんだ。
『僕は何かをしてあげられるわけじゃない』
喫茶店でのその言葉を僕は思い出しながら病院の庭に咲いている梅の花を見た。淡い桃色に染まった花はじいさんが一番好きな梅の花であった。
「僕かて何も出来やせん」
僕はそう何度もつぶやき、病院を出た。
二週間後僕はまた見舞いに行った。姉と交替するため、僕は頼まれたものを持って病院へ足を向けた。ここ数日はじいさんはおとなしく、騒がなくなった。それはボケがかなり進行しているためであり、今はばあさんのことすらわからないらしかった。
「政雄、こっちや」
病室に向かおうとした僕を姉が呼び止めた。
「おじいちゃん今寝てるから、お茶でも飲んで待ったほうがええよ」
姉と僕は喫茶室に入り、コーヒーを頼んだ。看病疲れか姉は少し痩せ、目のあたりも幾分くぼんだように見えた。いまだに姉は責任を感じているらしく、毎日のようにじいさんの見舞いに来ていた。
「疲れてるんやないかぁ?」
「たいしたこと、あらへんよ」
姉はそういうと力なく笑った。僕はただ黙ったまま、最近吸いはじめた煙草を口にくわえた。
「まだ未成年やない、煙草なんて」
「せやけど、吸わなやってられん事もあるわ」
僕は出されたインスタントよりも薄いコーヒーを見ながら言った。
「おじいちゃんね」
「うん?」
「車のことばかり言うねんで」
「さよか」
僕は煙草に火をつけ、コーヒーをすすった。姉は砂糖をいれるとスプーンでずっとかきまわしていた。
「北沢さん、心配してるやろ」
姉は小さく頷いた。僕は看病は毎日じゃなくてもいいのだから一日くらい北沢さんに会ってあげたほうが姉のためにもなると話した。姉は頷くだけで、ただじっとコーヒーをみつめるだけであった。
姉と別れると僕はじいさんの病室に入った。じいさんは窓の外を眺めていて、僕に気がつかなかった。隣の男の人が僕に気がつくとじいさんに声をかけた。
「お、お…おう、清彦。まっとうたでぇ」
相変わらず聞き取りにくい声で僕に向かって知りもしない名前を言った。じいさんは僕の名前すらも忘れていたのだ。
「今日、今日…はー、く、車で来たんかいのおお」
じいさんは僕の顔を見て嬉しそうな顔でいった。
「しい、下にぃ…真っ赤、かかな、ファイアバード、来たからぁー」
僕はじいさんの涎をふいてやると口元に笑みをうかべた。
「なんや、見てたんかぁ。そやでぇ、乗ってきたんや。真っ赤でごっつい大きな、じいさんも乗ったファイアバードやでぇ」
僕は大きな声で言うとじいさんの横に座って適当な車の話をした。じいさんは僕の話にウンウンと大きく頷いた。
「そういえ、ばー、ア、…アル……」
「アルファロメオは政雄の車やないか。僕のはファイアバードやで」
じいさんはしきりにああ、せやったなあと頷いた。
「どっ、どっ、どっちのー、…ク、車もも、乗り、乗りたいのー」
じいさんはそう言うとにっこりと笑った。その時、一瞬だけ瞳の膜がさっとなくなり、潤んだように見えた。
「そら贅沢な話やで。どっちかにせなあかんで」
僕はそう言って、またじいさんの涎をふいた。そしてリハビリを頑張って、看護婦のいう事をよくきいて、退院が決まったら僕が迎えにきてやるわとじいさんに言い聞かせた。じいさんはウン、ウンと僕が何かを言う度に頷いた。
じいさんを寝かせると僕は病室を出た。外は夕暮れに染まりかけ、空には月が見えた。僕は二週間前と同じようにあのやるせない怒りとも悲しいともつかない感情に襲われた。
「贅沢やで、二台とも乗りたいなんて」
僕はそうつぶやき、意味もなく笑ってみた。しかし、その感情が消えるわけでもなく、僕はただ黙々と家路に向かうだけであった。
じいさんは二日後、ばあさんの願いで一日だけ家に戻ってきた。僕はその日バイトが忙しく、帰ったのは夜であった。
「じいさん、寝てるの?」
「部屋で寝てるわ。ボケとるからあまり相手にせんときや」
母はやつれた顔で僕を見た。食事をすませると僕はそっとじいさんの部屋をあけた。薄暗い部屋の真ん中に布団をひいて、じいさんは寝ていた。僕に気がついたのか、じいさんは何かを言った。僕は側に行き、耳を凝らして聞いた。
「さむ、寒いから、布団をかけて……」
僕はちょっと待ってと言って、押し入れから掛け布団を出し、もう三枚もかかっている布団の上に重ねた。
「ありがとう。ありがとうなぁ……」
じいさんは泣きながら僕の手を握った。
「寒くないか?」
「あった、あ、暖っかいで、でえ」
じいさんはそういうと何度も何度もありがとうといった。
僕は布団のそでを掛けなおし、じいさんの涙や鼻水、涎をふいて部屋を出た。
じいさんは次の日病院に戻って死んだ。
個室に移され、ナースコールもはずされた病院の奥の個室で一人寂しく死んだ。
死因は心臓発作で、手遅れだったと医師は説明した。
ばあさんがじいさんを寝かしつける時、じいさんは小さな声でばあさんの名前を呼び、
「今まですまんかったのう。許してや」
と言ってばあさんに手を合わせたという。
じいさんは死んだ。
結局僕の車にも乗らず、僕の名前も忘れて。
その日の夜、僕は病院の地下の遺体安置室にバイトが終わって駆けつけた。部屋はひんやりと冷たく、姉と母、ばあさん、そして北沢さんがいた。暗がりの隅のほうにじいさんは寝かされていた。
僕はそのじいさんの眠るような姿を見て衝撃が走った。
その姿は圧倒的な存在であった。
この部屋の誰よりもじいさんは荘厳に、そして光っているように僕の目に映った。
死人がこれほどまでに存在感があるものだったかと思った。生きている者より重厚な肉感。そしてその表情の豊かさは僕をいいようのない感動を与えた。
仏とは人間のことや。
じいさんが昔いっていた言葉を僕は思い出した。人間以上の何者でなく、ましてや人間以下でもない、人間らしい人間。それこそが仏である。じいさんはそういった。
蘇生とはああ、こういうことだったのか。僕はやけにひんやりと冷静な頭の中で漠然とした思いから導きだされた解答に確信を持った。
偏屈で、癇癪持ちで、泣き虫で、わがままで、嫉妬深くて、ギャンブルで借金を抱えたじいさんは、見事蘇生したのだ。僕ら家族と暮らしはじめて、じいさんは人間として蘇生したのだ。
僕はじいさんは幸福だったと思った。
もし良い死に方に点数があるとすればじいさんはたぶん0点かもしれない。しかし、
それでもじいさんは人間として人生を終わったのだ。それで良いではないか。それで幸福ではないか。
僕は線香ををあげ、手を合わせた。
許してやろう。入れ歯をかくした看護婦の事を。助ける意志のなかった医者を。
その変わり僕は僕を許さない。
じいさんを疎ましく思った僕を許さない。
僕はじいさんに手を合わせ、号泣した。それまで一粒の涙も見せたことのない僕はじいさんの前で、家族の前で号泣した。
姉も、母も、ばあさんも、そして北沢さんも泣いた。
しかし僕の涙の意味は違った。
その荘厳な人に対しての魂から溢れ出てくる感動の結晶である僕の涙は他の誰よりも熱かった。
じいさんならわかるはずだ。
僕の歓喜の涙の熱さを。 僕は一人、がらんとした部屋にいる。
どんなに思い出に耽ったとしても全ては過去であり、じいさんは僕の車の助手席には乗らないのだ。
「なんや、ここにおったの。車まだ来ィへんの?」
襖が開くと共に姉の弾んだ声が聞こえた。僕は姉に背を向けたまま笑みを浮かべた。
「姉ちゃん、走ってきたやろ」
「車が納車されるとこ見たいやんか。せやから仕事終わったらさっさと帰ってきたんや。駅から走ってきたんよ」
かかかと高笑いし、僕は縁側に目を向けた。そこにはじいさんが手入れをしていた植木が陽光を一杯に浴び、緑鮮やかに輝いていた。
「姉ちゃんさ」
部屋を出ていこうとした姉を僕は呼び止めた。
「何?」
「僕の車、今日来るんや」
「うん」
「じいさんが好きやった真っ赤な車やで」
「うん」
「その車、じいさんが一番好きやったアルファロメオやで」
「うん、せやな」
「僕、僕も好きやねん」
「うん、せやな」
「僕な、じいさんの事好きやったんや」
「うん、知ってるよ」
「最初に助手席に乗せたかったのじいさんやったんや」
「うん」
「じいさん、死ぬのまでせっかちやったな」
「うん」
「また、会えるやろ?」
「うん、会えるよ」
「姉ちゃん」
「うん?」
「車来たら、横浜行こな」
僕の目から、一筋の熱い涙が流れた。縁側を向いたまま、僕は煙草をくゆらせながら植木を眺めた。
背中越しに姉は震える声で小さく、何度も何度もせやな、せやなと言っていた。
じいさんの好きだったもう一台の車、ファイアバードは姉ちゃんに子供が生まれ、大きくなった時にじいさんに会うという願いを込めて買う事にしたと手紙を書き、納車から一月後に結婚した姉の花嫁衣装の写真と一緒にじいさんの墓にそっと置いてきた。
その年の秋、一通の手紙が届いた。
小林清美からの手紙は近況報告が書かれていた。
横浜にいるから、是非一度遊びに来てくれとあった。そして追伸にはじいさんの事が書いてあった。
あのカクシャクとしたおじいちゃんは元気ですか?と。
冬休み、僕は姉と横浜に行く。
姉はどうしてもと北沢さんにお願いして僕の車の助手席に乗ることになった。
出発の一週間前、僕は小林に手紙を書いた。
横浜に行きます。姉ちゃんと、じいさんを連れて、と。
そして僕はみつかったじいさんの入れ歯と二冊の車の本を乗せて、じいさんの話してたあの道を走って、横浜へ。
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