生きゆくものへの祈り
病院の売店で買ってきたショートピースのセロハンを丁寧にはがし、封を手際よく開け、ピンと真っ直ぐに伸びた、新しい煙草をくわえると、祖母のキクはマッチで火をつけた。それは見事な吸いっぷりで、幼い俊一郎は間抜けな表情で見るしかなかった。我に返り、手にぎゅっと握り締めていたお釣りを差し出した。すると祖母は小さく微笑み、手をそっと握ってお駄賃よ、とっておきなさいとささやいた。
「これはおばあちゃんと俊一郎、二人だけの秘密だよ」
そう言って小さく笑うと、面談室の窓から見える、霧雨に濡れるあじさいに目を向けた。そしてまた一口吸い込むと、目を細め、煙草の灰を大事そうにアルマイトの灰皿にそっ、と落とした。俊一郎は小銭を握ったまま、何度も二人の秘密と胸の中でつぶやいてみせた。
全身雨に打たれたように濡れ、息苦しいほど濃密で淀んだ熱気の中、静まり返った名もわからぬ香港の路地に俊一郎は佇んでいた。昼間の喧騒が嘘のようで、路上には人影が見えない。腕時計を見ると十二時を回っている。俊一郎はズボンのポケットにねじこんでいた煙草を取り出し、火をつけ、ゆっくりと吸い込む。煙が喉を通り、肺にゆっくりと流れこみ、体中に染み込んでいくのを感じると、ゆっくりと煙を吐く。
今になってどうしてあの時のことを自分は思い出したのであろう。停滞している煙をみつめながら考えた。十年以上も前の、しかも一瞬のような出来事を、俺は香港のやかましくてしょうがなかったカフェで思い出したりしたのだろう。カウンターに座り、脳にまで突き刺さる音楽が絶えなかった空間で、穏やかで静かであったあの場面が脳裏に蘇り、その光景から離れることが出来なかった。
あのとき、祖母が言った秘密とは、駄賃でくれた小銭のことを指していたのか。それとも母や祖父に内緒で煙草を吸うことを指していたのだろうか。
そんなどうでもいい事が酔った頭の中でぐるぐると巡りはじめ、いつまでも出せない答えに苛立ち、俊一郎は思考を邪魔する音から逃げたくて、夜の空気を吸いに出たのだった。中にはまだ同僚と恋人である尚子がいる。早く戻らないといらぬ心配をされてしまうな。俊一郎は勝ち気な尚子を思い出し、苦笑をすると半分も吸っていない煙草を壁にこすりつけて消した。
「あれ、大窪サンじゃないですか?」
店に戻ろうとした矢先、声をかけられ、振り返る。そこには背筋をピンと伸ばし、褐色の肌とは対照的な白い歯を見せた笑顔の張が立っていた。どうもと頭を下げ、よく名前がわかりましたねと声をかけた。
「添乗員のクセ、というヤツでしょうね」
張はにこにこと笑い、そこで飲んでいるのかと聞いてきた。曖昧な返事をし、どこに行くのかと返す。張は少し先の路地を差し、これから食事をしに行くのだと答えた。またあのやかましい店内に戻るのも億劫で、俊一郎は尚子のむくれた顔を思いつつも、一緒に連れていってはもらえまいかと尋ねてみた。一瞬表情を曇らせたのを見て、無理なお願いかと思ったが、張はすぐに頷いた。
「屋台ですけど、いいですか?」
「全然、気にしないでください」
じゃあと言って、張は見惚れるほどの颯爽とした歩調で歩き始め、俊一郎は後を追った。ネーザンロードの一本裏の、名もわからぬその道から、更に細い路地に入る。ぷんとなんともいえない生臭い匂いが鼻につく。俊一郎は煙草に火をつけ、大股で歩く張から離れないように足早についていく。途中すれちがう中年の男性や、少年が訝しげにこちらを見やり、その視線がちりちりと体に刺さる。その目は「ここはおまえのようなヤツが来る場所ではない」と言っているようで、香港に来てからずっと感じていた、ある意志を向けられたようであった。
いきなり薄暗い路地から眩しい光に満たされた広場に出た。雑居ビルのような建物がひしめいている所にこれほどの空間が存在していたのかという思いが俊一郎を一瞬うろたえさせた。あらゆる香辛料の匂いや香港独特の匂いが入り交じり、鼻を刺激し、屋台に群がる人たちの喧騒や炒める音、安物のラジカセから流れるけたたましい音楽が一体となって耳と脳を刺激した。張は人をかきわけてある一つの屋台に向かうと、長椅子を陣取っている一行に挨拶をし、大袈裟ともいえるジェスチュアで席を空けてもらった。俊一郎は促されるまま長椅子に座ると、横にいた中年男性が肩をぽんと叩き、ニイハオと言ってきた。その人懐っこそうな笑顔を見て、つられて笑顔でニイハオと答えると、テーブルに座っている若い男女は一斉に言葉をまくしたててきた。言葉がわからず戸惑っていると、店の主人に注文をしていた張が皆に何かをまくしたてた。
「彼ら、なんと言ってたんです?」
張の言葉につまらなそうにそれぞれの会話に戻った客たちを見て、尋ねてみたが、それほど大したことじゃないよと笑ってみせるだけであった。冷たいビールで乾杯し、俊一郎は一気に飲み干した。冷えすぎたビールは粘ついた口を心地よく潤し、体の中から冷やしてくれた。張のグラスにビールを注ぐと、店の主人が目の前にどん、と料理を置いた。
「香港はどうです? 楽しいですか?」
モツ煮込みのような料理をつまみ、俊一郎のグラスにビールを注ぎながら張が聞いてきた。
「ぼくは正直わからんです。返還前の香港の熱気にあてられたのかな、それとも社員旅行特有のメンドウ臭さかな、とにかく疲れてしまいますね」
今度はゆっくりとビールを飲み、そう答えた。事実、ブランド品が欲しいわけでもなく、観光名所というものを見て廻ったり、団体行動もニガテであった俊一郎は香港を楽しんでいるのかどうか明確に答えることは出来ないでいた。
「正直ですね。大窪サンには合わないかもしれないですね、香港は」
ははっと笑うと張は料理を薦めた。一口つまむと俊一郎は自分は海外が始めてで、戸惑っているのかもしれないと説明した。
「それと他所者意識というんでしょうか、ただひねくれているのか、薄い膜のような見えない壁があって、拒絶されている感じがするんです」
気にしすぎなのかもしれないですが。そうつけ足し、見た目よりもはるかにおいしく、油っこくない料理を頬張った。
「それはどこに行ってもあるかもしれないですね。フランス、アメリカ、中国。どこに行っても感じるでしょうね。ある種の劣等感かもしれない」
歯切れのいい日本語で張はそういうと、私も日本で暮らしていたときに感じたとつけ足して笑ってみせた。
「あの店、戻らなくていいんですか? 連れのかたが心配しているんじゃないですか?」
「いや、いいんですよ。それほど心配しちゃあいないでしょう。彼らは二時、三時までいるでしょうからね」
追加注文をしたビールを張のグラスに注ぐと煙草をくわえた。やかましいと思っていた喧騒も言葉がわからないからうるさくも思わなくなり、むしろ心地よい響きに感じられた。
「張さんは日本にどれくらいいたんですか?」
「二十年ぐらい前に八年ほど」
「それにしては日本語、上手ですね」
「添乗員の仕事もしていますからね」
白い歯を見せて笑うと、主人にまた何かをまくしたてた。主人はむすっと怒ったような表情で、返事もせずに中華鍋に油を注いだ。張は鳥の炒め物がおいしいから、それを注文しましたと説明し、グラスをあけた。
「中国に返還されますよね、来年。そうなると香港は変わるんでしょうか?」
そう言ってから、随分とつまらない質問をしてしまったなという思いが強くせりあがり、俊一郎は顔をしかめてビールを飲み干した。張は微笑を浮かべ、テーブルにひじをつくと、劇的に変わりはしないでしょうね、と答え、空いたグラスに手酌でビールを注いだ。
「香港は変わらない。でも暮らす人たちの心は変わるでしょうね。誰も中国政府の言葉を信用していない。でもそれは口に出せない」
張のつぶやいた言葉はずしりと腹に響くようで、俊一郎は料理を頬張った。
「東京の歌舞伎町で八年。私はいろんなものを学びました。それを忘れることは出来ないですね。大窪サンは東京、好きですか?」
沈黙を嫌うように張はそう話し、かといって答えを待つふうでもなく、鳥の炒め物をつまんでいた。俊一郎は張の瞳の奥に見え隠れする、退廃の翳りと、執念のような光に吸い寄せられ、バスの中で語った中国への想いを思い返した。しかし、同意を求めているわけではないだろう。日本人の、一中小企業の社員のオレがどうこう騒いだとしても、それが何か意味があるだろうか。あの時の張の諦めににた口調、そしてその逆の生への執着のようなものは心を捕らえて離さない。
「大窪サンをウラヤマシイと思いますね。あなたは若い。若いというだけでそれは素晴らしい財産です。私はもうトシをとりすぎました」
ゆっくりと体中にアルコールが周ってきているのを感じながら、曖昧な笑みを浮かべた。そして俊一郎はあのバスの中での話を聞いてみた。
「あの時張さんは、中国は政府の上に政治家がいるのではなく、政治家の上に政府があるといいましたよね?」
「そんなこと、言いましたかね?」
「僕はあの時の張さんの諦めにも似た翳りを見ました。それと同時にある種の強い光芒を見たんです」
オレは何を言っているんだろう。話しながら俊一郎はそう思い、酔った勢いの喧嘩と思われていないか張の顔を覗きこんだ。表情は穏やかで、瞳には一片の翳りも見えない。その瞳はまるで我が子を慈しむような輝きが見え、俊一郎はうろたえてしまった。
「大窪サン、さ、どうぞ」
言葉に窮している俊一郎に、張はビール瓶を差し出し、グラスに並々と注いだ。それを見つめ、一口舐める。
「政府という土台がないから約束は守られないだろう、そう言いましたね」
張は囁くようにそう言うとビールを飲み、鶏肉を頬張った。それにつられるように俊一郎も鶏肉をつまみ、ビールを飲み干した。裸電球の淡い橙色の光がふわりふわりと揺れ、まるでホタルのように見える。自分は酔っていないか、呂律は怪しくないかともう一度反芻した。
「僕みたいな、ぬるま湯につかったような人間が口だす事じゃないし、どうでも良いことなんです。ただ僕は・・・・・・」
そこまで言いかけ、俊一郎の目の前にまたあの祖母の姿が浮かんだ。雨に濡れたあじさいを、いつまでも穏やかな表情で見ていた、あの光景。そして祖母はそっと煙草をあじさいに向けると、灰皿に落としたのだ。あの時の祖母の瞳は間違いなく、目の前の張の瞳と同じだった。
「どうかしました?」
うつむき、押し黙った俊一郎を心配して、張が声をかけてきた。いや、なんでもない。少し酔っているのかもしれないですと答えるだけであった。張もそれ以上は何も言わず、コーラを一つ少年に頼んだ。
「明日はビクトリアパークですよ。あそこからの夜景はスゴイですよ。そしてそれから女人街。ニセモノを売る場所です」
観光の行程を聞きながら、俊一郎はまたぼんやりと周りを見回した。そこには自分の知っている風景とほんの少し違う風景がうごめいていた。
張に連れられてホテルに戻ると、俊一郎は疲労感に襲われ、ロビーのソファにぐったりと座った。戻っていく張を見送りながら、ズボンのポケットに突っ込んでいた、くしゃくしゃになった煙草をくわえ、ぼんやりと祖母の姿を思い出していた。
「あ、俊クンどこに行ってたの?」
ふいに聞き慣れた尚子の声がした。気怠く首を動かすと、少し赤らんだ尚子の顔があった。
「酒、飲みすぎたんじゃないか? 顔が赤いよ」
俊一郎はそう言うと力なく微笑んでみせた。しかし尚子はそれに反応せず、どこに行っていたのか心配したのだと説明し、なじってきた。張と屋台で飲んでいたということや祖母の話をする気力もその口調に萎えてしまい、黙っていた。
「だいたい俊クン勝手にどこかに行っちゃうなんてひどいじゃない。坂藤さんがいなかったら私一人で大変だったのよ」
ああ、尚子の嫌な性格が出てきやがった。俊一郎はそう思い、苦々しい表情を浮かべて煙草に火をつけた。
「でも坂藤がいたから大丈夫だったろ? もし、とか、たらの話は聞きたくないよ」
そう言うと尚子はふくれっ面をし、俊一郎の肩を叩くと横に座った。こうなると長ったらしい謝罪をしなくちゃいけないな。そう思いつつも、疲れてしまって、声も出したくなかった。
「いい加減ウンザリだよ。尚子。もうお別れしよう」
そう言って立ち上がり、エレベーターに向かった。尚子はきょとんとした表情を見せ、すぐさま俊一郎を追いかけてきた。
「どういうことなの?」
「どういうこともこういうこともないよ。もう疲れちゃったんだ。いちいちご機嫌窺って、面倒くさい説明をするのもね」
尚子の唇が微かに震えているのが見える。今にも泣き出しそうな顔が見えたが、しかしそれでもなんのためらいもなく俊一郎は背を向け、一人でエレベーターに乗って扉を閉めた。そして動きだした狭い空間のなかで一つ溜息をついて天井を仰いだ。
「好きなのは変わらないんだけどな」
部屋に戻ると、相部屋の村越の姿はなかった。おおかたどこかの部屋で飲んでいるのだろう。俊一郎はシャツとジーパンを脱ぐと、ベッドに倒れ込んだ。そして電話の呼び出し音を最少にして電気を消した。
翌日のバスの中で、刺々しい雰囲気を感じつつも、だるさの抜けない体をシートに預けたまま、俊一郎は窓の外をぼんやりと眺めた。その日は朝から黒い雨雲が見え始めていて、張は開口一番今日は多分スコールがあるでしょうと説明をした。隣に座った坂藤がチラチラとこちらを窺うのがわかった。それでも俊一郎は気にも止めず、窓の外に広がる雨雲を眺めるだけであった。
バケツをひっくり返したような雨が降り始め、座席のあちこちで溜息や歓声が聞こえてきた。高速道路は渋滞していて、一向に動かない。窓から見えている公園で、サッカーをして遊んでいた子供たちは雨が降りだすと蜘蛛の子を散らすように逃げ回り、雨宿りをし、広場にはサッカーボールが転がっているだけであった。
「ねえ、大窪サン」
大雨の中、高い足場で作業を続けている男をみつけると、背中越しに坂藤が声をかけてきた。俊一郎は振り返りもせず、器用に竹で出来た足場を歩く男を見つめながら返事をした。
「尚ちゃんと何かあったんスか?」
「知ってるんだろ?」
雨が小降りになり、張のスコールはもう終わりですねという説明を聞くと、俊一郎は窓から目を離した。坂藤は声を落としてどうしちゃったんすか? と聞いてきた。俊一郎はだらしない笑みを浮かべ、オマエにゃ関係ないよ、と答えるだけであった。
厚い雨雲の隙間から青空が見え、強い陽射しがアスファルトに突き刺さる。言いようのない息苦しさをはらませた熱気が放出され、俊一郎は不快な汗を拭いながら煙草をふかした。大富豪の庭園はケバケバしい彩りは不快さを増す。途中まで登ってきて、俊一郎は馬鹿らしいほどの庭園の果てを見るのも面倒になり、ベンチに腰掛けた。
「こんなもん作って何がしたんだか」
そうつぶやくと、照り返しに目を細め、サングラスをかけた。
「大窪さん、リタイア?」
大粒の汗を額に浮かべた坂藤が声をかけてきた。俊一郎は曖昧に返事をすると灰皿に煙草を捨てて、立ち上がった。その場所からは庭園を見下ろせ、人だかりがひしめきあっているのがみえる。
「何が面白くてこんな酔狂な庭園を観光するんだろうな」
坂藤に言うでもなく呟き、小さく溜息をついた。
「尚ちゃん、あれから大荒れだったんです」
「だろうね」
庭園を見下ろしたまま、俊一郎は答えた。坂藤は煙草に火をつけ、自分たちが飲んでいた部屋に入るなり、泣き喚き、なだめると今度はウィスキーをストレートで飲みながら俊一郎の愚痴を並べ立てたと説明した。それを聞きながら、容易に目に浮かぶ尚子の乱れぶりを想像し、俊一郎は嘲るような笑みを浮かべた。
いつだってそうだ。アイツは自分の事ばかりで、オレの気持ちなんてこれっぽっちも思っちゃいない。オレが怒ると泣きっ面見せて人に頼って、文句を並べ、ほとぼりがさめたときに猫なで声で擦り寄ってくる。けれど一度も謝ったことはない。
「坂藤、人と付き合うのってひどく疲れると思わないか?」
「は?」
尚子の状態を説明していた言葉を遮り、俊一郎はそう言った。意味がわからないという表情で、坂藤は首をかしげた。
「人間は他人の生命力を吸って生きてる。そう思うんだ。人といて、ひどく疲れたような感じになるっていうのは生命力を吸い取られたからなんだ」
胸ポケットの煙草を見ると一本もなかった。舌打ちをして坂藤から煙草を貰うと俊一郎は庭園から目を離し、時計を見た。
「もうそろそろ戻ろうぜ。バスももう戻って来てるだろうよ」
俊一郎は返事も待たず、そのままさっさっと階段を降りはじめた。
ここ数ヶ月、芯から疲れている自分に足りないものはなんだろうか。これだけ活気溢れる街に来て、バイタリティ溢れる香港の住人に会っても生命力はなくなるばかりだ。尚子といてもそうだ。もう空っぽだ。
「疲れるだけだ」
俊一郎はそう呟き、立ち止まった。そこには痩せやつれてもなお、微笑を浮かべた修行僧の像があった。
目映いばかりのネオンの洪水を抜けると、バスはゆっくりと坂を登り始めた。光の渦は徐々に視界から離れだし、静寂と夜本来の暗さを取り戻しつつある。バスに揺られながら、ぼんやりと曲がりくねった坂道を登っていくバスの軌跡を追った。昨日までのどこか自嘲めいた口調で話していた張は、事務的な説明をしていた。これから登っていく場所は高級住宅地で、香港一の大金持ちが住んでいる豪邸があるのだと説明をする。さも感心したような声や、羨望の溜息が上がる。
「香港では一軒家に住みたいと思う人はほとんどいません。みなマンションに住みたがります」
その張の言葉に誰かが一軒家の方がいいよなあと呟き、あちこちから笑い声が聞こえてくる。俊一郎は張の言葉を聞きながら、そうだろうよ、と小さく呟いた。
「ん? 何かいいました?」
隣に座っている坂藤がチョコをかじりながら声をかけてきた。変な所を聞いてやがるな。そう思い、苦笑いをしてなんでもないよと答えた。
バスはゆっくりと頂上を目指し、上がっていく。ヴィクトリアパークに行かなくとも、窓から見える風景は華やかで、美しい光芒を放っている。女子社員のほとんどが窓に顔をおしつけて、キレイだの、これが百万ドルの夜景だのと言い合い、カメラを向けていた。
「写真なんか撮れないぜ」
カメラを向け、身を乗り出してきた坂藤をうるさく思い、そう言った。
「やっぱり撮れないかなあ」
「当たり前だ。そんなインスタントカメラじゃ夜景なんて撮れやしないよ。常識じゃねえか」
口を尖らせ、未練がましそうに窓の外を見やる坂藤を座席に押し戻すと、俊一郎は溜息をついた。
大勢の観光客で溢れかえる広場に着くと俊一郎はその熱気に当てられて、歩を止めてしまった。そこまでして見なくてはいけないような夜景ではないだろうと思い、どこかベンチに座って時間を潰そうと考えた。しかし空いているベンチが見つからず、ウロウロしていると露店の売り込みがうるさく、しかたなくバスに戻ろうとした。
「ねえ、少し話せない?」
戻ろうとした矢先、尚子が腕を掴んできた。俊一郎は取り立てて話す事もないよと素っ気なく答えた。尚子はうつむいたまま、じっと敷き詰められた不揃いのタイルをみつめ、腕を離さない。その沈黙と仕草にうんざりし、煙草をくわえた。
「何も、話すことはないんだ。尚子とはもう終わりにしたい。それだけだよ」
諭すように話したが、尚子は返事をしない。早い息づかいだけが微かに聞こえる。
「オレのカラダの中にゃ、尚子を愛して、かまってやるほどの力がないんだよ」
「勝手じゃない。どうしてそんな一方的なの? 理由もわからないわ」
声を出す度、尚子は俊一郎の腕をきつく握る。そんな動作さえも億劫に感じる。どう説明しても尚子にはわからないだろう。俊一郎はもどかしそうに煙草をふかした。
「おれはもう何も与えてくれない尚子を好きじゃなくなったんだ」
その一言を言っただけで、大きな疲労感が体を襲い、小さく溜息をつくと腕を掴んでいる細く、やわらかな手をていねいに開き、俊一郎は別れを告げた。通り過ぎる時に微かに震える肩が視界に入ってきたが、振り返りもせずに歩を進めた。尚子から離れようと歩き始めてから、自分が夜景を楽しむ観光客に向かっているのに気がついた。舌打ちをして戻ろうとした矢先、張が視界に飛び込んできた。「こっち、空いてますよ」
周囲を見回しても張の知る人間は自分しかおらず、仕方なしに足を向けた。
張り出した広場の最前列に連れていかれ、障害物がなくなったその夜景に俊一郎は息を飲んだ。
目映いばかりの光芒は、日本で見るどの夜景よりも迫ってきた。はるか眼下に清潔で、無表情なネオンや車のヘッドライトの光の渦が見えるだけで、高層マンションの、やや橙色を帯びた明かりがひしめいて見えた。
「あのオレンジ色の明かり、なんだかわかりますか?」
張が煙草に火をつけ、背筋を伸ばしたまま俊一郎に言った。
「ハダカ電球の明かりなんですよ。この夜景の大半は裸電球なんです」
俊一郎の答えを待たずに、張はそう答えた。呆然とその夜景を見ながら、煙草をくわえた。 地図の上では猫の額ほどもないこの香港という町の中で、これほど多くの生活がある。一つの明かりに一家族の生活が染みついている。あざとい明かりではない、息づいた光が香港の夜景を創り出している。素朴な明るさなのに、どうしてこうも目映く見えるのだろうか。そう思いながら俊一郎は見つめ続けた。
「恋人と喧嘩したんですか?」
ふいに張の声がした。目を向けると夜景に目を向けたままの張の口元に微笑が浮かんでいた。
「まあ、そんなところです」
煙草をふかし、小さく答えた。夜景を眺める人々の喧騒がすうっと意識の奥に遠のいたと思うと、沈殿していた澱のような甘い想いが立ち上って来た。振り返り、一言で味わえるであろうその甘美を、逡巡しながらも沈めようと努力した。
「祖母に」
俊一郎は停滞する思考とまとわりつく湿気を払うようにつぶやいた。
「見せたかった」
腕時計を見やり、あと五分したらバスに戻って来くるよう話すと、その場を離れていった。張のいた場所に後ろにいた老夫婦が立ち、夜景に目を細めた。
灰をそっと落とし、時計を見やる。そして俊一郎は一番手前に見えるマンションの裸電球を凝視した。祖母が秘密と言ったのはなんだったのか。またあの想いが廻り始める。あのとき見せた穏やかな表情に光る瞳の輝きを求めていただけなのかもしれない。
日本に戻ればまた自堕落でつまらない日常に埋没するだろう。その間にもこの香港は歴史的瞬間を迎え、様々な思惑が渦巻くだろう。香港の住人たちは観光客相手にヘタな日本語を駆使して商売をするだろう。屋台のオヤジは無愛想に鍋を振り続けるに違いない。そして張はまたバスの中だけの演説を繰り返すことだろう。そしてオレは日本に戻っていろんな後悔をするだろう。
俊一郎はキクがそうしたように煙草を夜景に向け、そっと柵に置き、その場を離れた。隣にいた老夫婦が声をかけてきたが、振り返ることもせず、バスに向かった。もう席についている尚子の横顔が見えると歩を止め、振り返った。人影の群れの隙間から見える淡い橙色の明かりが、あの裏路地を照らしていた電球のようにゆらゆらと揺れているようであった。
(了)
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