平凡

坂田政典は小刻みに揺れる車中で友人の瀬野の話に相槌を打ちながら昨日別れた恋人の咲村玲子の事を考えていた。
 別れ話は突然に彼女の方から言われた。それは実にあっさりと、仕事の話をするかのようであり、政典はただ聞くだけでなんの反論も出来なかった。
「おまえ本当に聞いてんのか?」
 瀬野はそう言って煙草の灰を窓から落とした。政典は頷いて瀬野を見た。
「これから何処に行くんだって?」
「ほら聞いてない。新横浜にある農道だってさっき言ったぜ」
 軽自動車のオフロードカーはエンジンをひっきりなしに回し、ステレオから流れる音楽よりも騒音のほうが大きかった。それでもたいしたスピードは出ていなく、乗用車に追い越されてばかりであった。
「何かあったんか?」
 瀬野は前を見ながらそう聞いてきた。政典は煙草をくわえると黙って頷いた。
「おい、第三京浜に入る前に運転交代しろよ」
 政典は車を運転すれば少しは気持ちに整理がつくだろうと考えてそう言った。瀬野は頷くと保土ケ谷バイパスから横浜新道に入った。
「どうした?」
 瀬野は信号待ちの時、黙ったままの政典に聞いた。
「昨日玲子と別れた」
 政典はわざとぶっきらぼうに言った。憎しみと言った感情は湧いてこなかった。そんな自分がなんだか無感情な人間のようなかんじが嫌でそうやって言ってみることで感情を隆起させようとした。
「どうしてだ?あんなに仲が良かったじゃないか」
「つらいんだと」
「つらい?」
「一緒にいるのがつらくて仕方がないって、あいつそう言ってたよ」
 政典は極力細かく思い出しながら言った。
 玲子は夕暮れの緩い陽射しが差し込む喫茶店でそう話した。そしてうつむき加減で、
「一緒にいればいるほど、逆に離れていればいるほど不安が大きくなってくるの。それがつらくてしょうがないの。だから別れましょう」と言った。政典は何がなんだかわからなく、何も言わずに玲子を見ていた。ついさっきまで映画の話なんかを話していたのに、玲子は突然別れ話をしだした。そして黙っている政典を気にも止めず、玲子はしっかりとした足取りで喫茶店を後にした。政典はただ一人で陽が沈むまでそこに座っているだけであった。
「不安ねえ」
 一通りの話を聞くと瀬野はふうんと言うと口を尖らせた。
「何が不安だったんだろうね」
「それがわかりゃオレだって苦労しないさ」
 政典はしばらくの間、目を閉じた。時折見せた別れ際の潤んだ瞳はもしかしたらオレに何かを警告していたのだろうか。口を開きかけ、すぐにつぐんでしまい、不思議に思ってどうしたと聞いても微笑を浮かべて首を振る仕草は何を言いたかったのか。政典はいつも別れ際にみせた玲子のいやにしょんぼりした姿を思い浮かべた。
「でもよ」
 ふいに瀬野が話しかけてきた。
「珍しいじゃないか。喜怒哀楽の激しい坂田が表情に出さないなんて」
 瀬野はおかしそうに言うと横目でちらりと政典を見た。
「なにしろ突然だぜ。怒ったり泣いたりなんて感情湧かなかったよ」
「一日たった今でもかい?」
「ああ。正直オレはこんなにも無感情な人間なのかなって自分が嫌になるな」
「人間なんて精神的に大きなショックがあると案外感情なんて湧かないもんさ」
「そうかね」
 第三京浜に合流するとすぐに瀬野は路側帯に車を止めた。
「おい、こんな所に止めていいのかよ」
「おまえ、運転させろって言ったじゃないか」
「いいよ。インター降りてからで」
「なんだよ。わがままだなあ」
 瀬野は口を尖らせて本線に車を合流させた。
「不安か」
 そう一人ごちると政典は何が不安だったのか考えを巡らせた。つまらない話ばかりしていただろうか。他の女に興味を示しただろうか。時折邪険にしていただろうか。
「なんだかオレの全部を否定されたみたいだ」
 政典は口をへの字に曲げ、そうつぶやくとなんだかひどくつまらない事を考えているような気がした。そしてもう終わっちまったことさ。玲子は何も気にしちゃいないさ。政典はそう勝手に解釈した。
「何一人でブツブツ言ってんだ。気味悪ぃ」
 瀬野は缶コーヒーを一口飲むとチラリと政典を見た。
「なんだか腹が立ちやがるのさ」
 瀬野は変なヤツだなあとつぶやくと煙草をくわえた。
 港北インターを降り、料金所を抜けるとすぐに車を脇に止めて瀬野は運転を交代しようといった。
「なんだよ、ここからすぐなんだろう?」
「おい、おまえが運転したいっていうから代わろうとしてんだぜ。さっきインター降りたらって言ったじゃないか」
「わかったよ。オレが悪かったよ。かわる」
 政典はそう言うと車から降りた。夏にしては空気が冷たく、政典は肩をすくめた。運転席に乗り込むとシートを調節した。
「すぐに農道にいかんでもいいよ。少し走らせよう」
 助手席に座ると瀬野は出てすぐを右に行けよと指示した。政典は無言で車を走らせた。
 車は政典が想像した以上に面白いものであった。政典が乗っている小型のスポーツカーよりハンドルは重いし、うるさくてあっという間にレッドゾーンにいってしまう非力なエンジンも比べものならない代物であった。オフロードカーにはほとんど興味のなかった政典も瀬野の車だけは気に入った。自動車を運転するっていうのは元々こういうものなんだろうなと感じた。
「おい、これいくらだった?」
「七十万ちょいかな」
「へえーっ、オレの車の半分以下だぜ!」
「いいだろう」
「ああ、気に入った」
「ところでさ」
 周辺を一回りすると瀬野はそう切り出してきた。
「うん?」
 政典は車の運転に集中していて興味のなさそうな返事をした。
「玲子ちゃんの事だけどよ」
「玲子?」
 政典は信号待ちの時、瀬野にそう言われ、表情を曇らせた。忘れようとしていた事をふいに思い出させた瀬野に対して政典は口調を鋭くさせた。
「玲子がどうした」
「いや、わからないでもねえなぁって」
「おやおや、男のおまえが玲子の気持ちをわかるっていうのかい?これはオドロキだよ。全く!」
「……そこ、左」
 瀬野に指示された道に入るとそこからはもうアスファルトの道ではなく、でこぼことした土の道であった。政典は車を脇に止めると瀬野を見た。
「なあ、瀬野。本当に玲子の気持ちがわかるか?」
「運転、変わるか」
 政典の質問に答えず、瀬野はそう言った。政典は街灯のない目の前の道をちらりと横目で見るとゆっくりと運転席から降りた。道は昨日の雨のせいで少しぬかるんでいた。左手には水田があり、右手には工事現場のようであった。
「もし、おまえが玲子の事わかるんだったら一つだけ教えてほしいんだ」
 ゆっくりと走り出し、大きく上下に揺れる車の中で政典はシートを少し寝かせ、前を見たまま政典はそうつぶやいた。瀬野は何も言わず、ただ車を思いのままに走らせていた。
 ステレオから流れるブルースとエンジン音。そして遠くから聞こえる車の音だけの中、政典は玲子を思い出していた。政典は顎の不精髭を撫でると溜息をついた。
「二人でいるとき、抱き合っている時にしか自分の想いを吐露できない男なんて最低なのかもしれない。言葉が出ないなんて不安にもなるよな」
 政典はあのしょんぼりした背中は言葉が欲しかったんだ、そう思った。
「最低でもないさ」
 瀬野はぽつりとつぶやくと寂しげに口元をゆるませた。
「そうやってしか恋情を確かめることが出来ない人間もいるぜ」
 瀬野のそういった言葉を最後に二人は何もしゃべらず、ただ農道を走っていた。政典は煙草をくわえたまま火をつけず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 不安なのは玲子じゃない。不安だったのはこの俺のほうさ。政典はそう思うとやるせない気持ちに沈んでいった。
 周りは水田ばかりで遠くに新横浜のネオンが光っていた。農道をゆっくりと走っていくとトタンの壁が見えてきた。政典は何かの焼けるような匂いが鼻先をかすめたので瀬野に言った。
「これ、なんだ?やけに高いトタンの壁があるけど」
「なんだろうな。こっちを通るの初めてだから」
 瀬野は車の速度をさらに遅くした。そして政典は窓を開け、顔を少し出してみた。夜の冷気に混ざった湿気が顔にまとわりつき、政典は不快になった。そして焦げるような匂いは鼻の奥をつんと刺激する臭気の強いものであった。
「何かあるか?」
「いや、壁しか見えん」
 政典は目を細め、暗闇に溶けこんでいる壁を凝視した。暗がりの中にもやのようなものが見えた時、政典は看板をみつけた。
『猛犬注意』
 そう黄色いペンキでなぐり書きされた看板が近づいた時、政典は異様な雰囲気を感じた。
「おい、これまずいんじゃないか」
 看板がある所が入り口らしく、壁がそこで切れ、中が見えた。暗くてよくは見えないがそこには山のように積まれた廃棄物のようなものがあり、手前には何かが燃やされ、まだ微かに火がくすぶり続けていた。それは何かの工事のもののように見えず、違法的なものに感じられた。看板とくすぶっている火がその考えを強調しているように政典は思った。
「なんだいこりゃあ」
 人が歩くような速度を保つと瀬野はそう言った。政典は顔を引っ込めると窓を閉めた。
「おい、すごい怪しいぜ。早く先に行こうぜ」
 政典がそう言うと瀬野は無言で頷き、速度を速めた。サイドミラーで遠ざかる火を政典は息苦しい気持ちで眺めた。
「今のは結構な話のネタになるな」
 火が見えなくなり、政典が溜息まじりに煙草の煙をはくと瀬野はそう言って笑った。
「そいつはそうだけど、オレは生きた心地がしなかったぜ」
「玲子ちゃん、こういう話好きだろう?」
「また玲子の話をするのか?オレが悪かった。それでいいだろう?もう玲子の話はナシだ」
 うんざりした口調で政典はそう言った。
「どんな心境だ?」
「なにが?」
「今の本当の心境」
「このまま落ちていくだけさ。オレはさ」
 吐き捨てるように言うとへっと自虐的に笑った。瀬野は何も言わずに黙っていた。
「何か言えよ。おまえが聞いてきたんだぜ」
「それが本心か?」
「もうどうでもいいこった」
 車は水田ばかりのところに入り、瀬野は車を止めた。
「この先行き止まりみたいだぞ」
「ああ、この先土手になってるんだ。何度か登ってみようと思ったんだけど、傾斜がきつくってな」
 政典は車から降り、暗闇をみつめた。先の方には小高い丘のようなものが見えた。
「この車でも無理か?」
「いいところまでいくんだけどな」
 政典が車に乗り込むと瀬野はつぶやくようにそう言うと車を動かした。
「おい、登れないんだろう?」
「いいところまで行くから、今日はもうちょっとふんばってみよう」
 その言葉を聞くと政典は溜息をついた。すると遠くで微かに犬の吠える声が聞こえてきた。政典は犬の声を聞くとさっきの看板を思い出した。玲子の顔が燻り続けるあの火のようにちらつきはじめた。本当に憎んでいいのだろうか。そして嫌いになっていいのだろうか。他に男ができたにせよ、それは自分がだらしないからではないか。玲子の微笑んだ顔はいつまでもちらつき、政典をひどく落ち込ませた。
 たぶんオレはだらしのない生活をするだろう。無気力で、あてどもない時間を過ごし、惰眠を貪り続けるだろう。それはどんな形にせよ、彼女をひどく傷つけた償いのはずだ。ならばそれを受け入れよう。ひたすらに、彼女に対する憎悪をなくし、許しを請おう。政典はそう考えると急に悲しくなり、泣き出しそうになった。
 車はかなりの角度になって土手を上がっていたが、なかなか上がれずにいた。そのうちに政典は気分が悪くなり、顔をゆがめた。
「金もないし、甲斐性もなかった。ましてや抱くことでしか気持ちを吐露できなかった。でも、玲子が大好きだったんだ」
 政典はそうつぶやいた。瀬野はあきらめたのか車を少しバックさせて、溜息をついた。
「玲子ちゃん、その言葉が聞きたかったんじゃないか」
 政典は急に玲子に会いたくなり、車を降りた。下は水溜まりで踝まで水にはまり、足がぬるぬるした。
「おい、どうした?」
 瀬野が車の中から言った。政典は車を動かせよと大声で言った。
「登れないぜ」
「オレが押してやる。そして何がなんでも登ってやろうぜ」
 そう言うと政典は車の後ろに回り込み、押しはじめた。車は悲鳴のような音をたて、土手をあがろうとした。しかし、政典一人が押したところで上がるはずもなかった。それでもあきらめず、何かに憑かれたように政典は押し続けた。この車がもし上がれるのなら、オレも絶対に這い上がれるはずだ。そして政典は押している間にあの土手の上には玲子がいるんじゃないかという思いを持ち、上がればまた昔のように、いやそれよりももっと深く、玲子を大事に愛せるのではないかと思った。
 車は悲鳴をあげるだけで結局上がることはなかった。
 政典は泥だらけのシャツから煙草を取り出し、火をつけずにしばらくの間立っていた。
そして車に乗り込もうとした時、誰かに名前を呼ばれた気がして振り返ったが誰もいず、声だと思ったのは犬の遠吠えであった。

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