ハッカの味と獣の匂いと


 ほんの一週間だけでかまわないからアルバイトを替わってほしい。そう友人の石塚に頼み込まれ、僕は駅前のスーパーでアルバイトをする羽目になった。夏休みに入って、これといった事もせず、ただ毎日冷房のよく利いた図書館に通って時間をつぶしていた僕は、一週間だけの臨時アルバイトをむげに断ることも出来ず、渋々了承した。一週間のアルバイト料プラス、焼肉を食べにつれていってくれるという条件を引き出し、その日のうちに石塚と二人でスーパーに顔を出した。
 石塚のバイト先のスーパーは、小さいながらも駅前という立地条件もあってか客足も良く、夕方になると非常に混雑した。店内の隅にある、細くて狭い階段を上がり、事務所に赴くと、店長は冷たい麦茶を出してくれ、助かるなあと連呼した。腰の低い店長は少し禿げてきた頭を叩き、時給と、勤務時間の説明をしてくれた。三時から閉店の八時までの間、商品の陳列、レジの手伝い、駅前での店頭販売の手伝いをし、夕方五時には休憩を三十分とってかまわないことになった。事務所を後にすると、石塚は難しいことは一切ないから、気楽に頼むというと、彼女と待ち合わせがあるといって、そそくさと帰っていった。そのまま図書館に行くのも億劫になり、僕はスーパーの二階にある喫茶店に足を向け、アイスコーヒーを頼んだ。そしてジーンズの尻ポケットにねじこんでいた古本屋のワゴンセールで買った文庫本を広げた。
 次の日、一向に和らがない陽射しの中、スーパーに向かった。石塚に教えられた通りに昨日入った喫茶店への階段を上がり、すぐ横にある裏口から事務所に入った。前日に手渡されたエプロンを更衣室でつけると、フロアを案内され、商品陳列を教わり、僕は与えられた仕事を黙々とこなした。いつも客の立場で見ていた店内はやけに広く感じられ、商品を並べている自分の姿に奇妙な感覚を覚えた。五時になって社員から休憩をするように言われ、事務所に戻った。中年の女子事務員から休憩の時の食券を手渡された。
「裏口から喫茶店があったでしょ? そこにこの食券を出せば、トーストとアイスコーヒーが食べれるのよ」
 随分とワリのいいアルバイトを紹介してもらったかもしれないな。券を持って裏口に向かいながら、私はそんなことを考えた。昨日立ち寄った喫茶店に入り、カウンターにいるマスターに食券を渡すと、声をかけられた。
「新人のバイトさん?」
「いえ、石塚の臨時です」
 ああ、石塚君のね。マスターはそう言い、後で休憩室に持っていくと私に言った。休憩室に戻るとパートの主婦が二人とアルバイトの女子高生が雑談をしていた。私は一番奥のソファに腰を降ろし、手持ちぶさたに周囲を見回した。煙草のヤニで茶色く変色した壁には職場のスローガンや、本日の特売チラシ。カレンダーが無造作にかけられ、古めかしくなったジュースの自販機が唸っていた。そんな私に声をかけてきたのは女子高生のバイトであった。短く切った髪をかきあげ、石塚君と同じ高校なの? と聞かれ、頷いた。
「あのコの友達っていうから、なんかもっとだらしなそうなコだと思ってたけど、真面目そうね」
 あなただって髪の毛茶色くしてるじゃない。主婦にたしなめられ、ケラケラと笑い、女子高生は私を見やった。
「私、宮迫京子。高校三年生。一つ先輩よ」
「伍代正平です」
 随分カタイ名前ねえ。主婦はそういうと笑い、相槌を求めた。宮迫はショウヘイ君ね、とつぶやいて小さく笑った。
「お待たせしました、トーストとアイスコーヒーです」
 休憩所に抑揚のない、ウェイトレスの声が響いた。宮迫たちは会話を止めた。私は品物を受け取ろうと立ち上がった。ウェイトレスは長い髪をひっつめていて、細く、はっきりとした顔立ちの薄い化粧のせいか、随分と大人びて見えた。深茶色の瞳と紅い唇がいやに眼につき、僕は目があった瞬間、とっさに視線をはずした。ウェイトレスは私にトレイを渡すと、食べ終わったらそのままにしておいてくれと言って、出て行った。
 トレイを見ると、トーストは今まで食べてきた喫茶店のトーストよりも分厚く、アイスコーヒーも量が多かった。僕はトーストにバターを塗り、コーヒーにガムシロップを入れた。宮迫は表情を曇らせて、出て行ったウェイトレスの後姿を目で追いかけていた。
「いつもより厚いわね、あの子、あなたに気があるんじゃないの?」
 主婦の一人が冷やかし口調で言った。もう一人が相槌を打ち、宮迫に同意を求める。宮迫は頬杖をついて、曖昧な笑みを浮かべてみせた。僕はなんだか恥ずかしい行為を言い募られた子供のように黙って苦笑いをした。そしてトーストを千切って口に放りこみ、コーヒーで押し流した。レジが混雑してきた時にかかる音楽が休憩所に響き、主婦たちは重い腰をあげて、休憩所を出た。それを見やった後に宮迫は小さな手さげ袋から煙草を取り出し、火をつけた。
「ショウヘイ君は吸わないの?」
 トーストを頬張ったまま、僕は頷き返し、コーヒーをすすった。宮迫はぺろっと舌を出し、みんなには内緒ね、と笑った。
 最後のトーストをコーヒーで流しこむと、僕は壁に斜めにかかった時計を見やった。十五分しか経っておらず、僕はまた手持ちぶさたになってしまった。
「さて、行くかな」
 ふかすだけの煙草を灰皿に押しつけて消すと、宮迫が立ち上がった。僕も一人で休憩所にいるのもバツが悪い気がして、立ち上がった。
「まだ十五分あるでしょ? 気にしないで休んだほうがいいわよ」
 誰も文句なんて言わないから。宮迫はそういうと小さく手を振り、出て行った。一人になった僕はテーブルに放り投げてあるスポーツ新聞を手に取り、ソファに座った。
「そうそう、ショウヘイ君」
 急に声がして、広げた新聞を慌ててたたむと、宮迫が戻ってきていた。
「さっきの喫茶店のバイトのコ、気をつけてね」
「気をつける?」
 宮迫の言葉の意味がわからず、聞き返すと、それには答えず、宮迫はもう一度繰り返し、それじゃ後でねと出て行った。僕はその言葉が気になり、トレイを取りに戻ってくるであろうウェイトレスに会うのが躊躇われ、出ようとした。
「あら、もう食べちゃったの?」
 ソファから立ち上がったと同時にウェイトレスが入ってきた。どきりとして、言葉につまっていると、彼女はコーヒーのミルクを忘れたから持ってきたんだけど、と呟いた。
「ま、いいか」
 誰に言うでもなく、そう言うと彼女はトレイを持った。僕は宮迫の言葉が気になり、その場から立ち去ろうとした。
「ねえ、君」
 横を通り抜けようとしたとき、ふいに彼女が声をかけてきた。僕は立ち止まり、彼女の方を向いた。微かな甘い香りがしたかと思うと、彼女は僕を見上げ、深茶色の瞳で見つめてきた。
「石塚君の友達?」
 問いに頷き、何か? と聞き返すと彼女はふうんというだけで、何も言わなかった。ただ僕の顔をじっと見つめていた。
「伍代くん、ちょっといいかな」
 事務所の方から店長の声が聞こえ、僕は返事をして顔を反らした。彼女は何も言わず、そのまま裏口へと歩いて行った。店長の呼び出しでほっとした気分であったが、僕はそれでも裏口に気を取られていた。
 休憩が終わってから混雑しているレジの後ろで品物の袋詰めを手伝う事になった。値段を打ち込まれた商品をビニル袋に詰め、お客に渡す。肉、魚、トマトやバナナといった傷みやすいものは上、また生理用品などは紙袋に入れるようにと教わり、僕は宮迫の後ろについた。最初の二人ほどはもたついてしまったが、段々と要領をつかみはじめた。白いビニル袋にまるでパズルのように様々なカタチの品物を詰め込み、いかに持ちやすく、小さくまとめられるかに僕は熱中した。袋に詰めながら次の客の商品を見て、どの大きさの袋にするか、紙袋は必要か、何を一番下に持ってくるかを確認し、次々と詰め込んだ。客足が途絶えると宮迫は後ろを向き、僕に笑いかけてきた。
「なかなか覚えが早いね」
 そう言ってレジが早く終わって気分良く出来るといった。しかし僕は宮迫のレジを打つ早さに驚いていた。他のレジ打ちを見ても宮迫ほど早くはなく、並んで待っている客もこちらに流れてくるほどであった。
「宮迫さん、レジ打つの早いんですね」
 客足が途絶え始め、そう声をかけると宮迫は得意げに笑い、それについてこれるショウヘイ君も早いよと答えた。袋詰めをする必要もなくなり、僕は社員に言われて駅前の店頭販売に回ってほしいと頼まれた。僕は駅前に出ているお菓子の店頭販売の場所に向かい、立っていた社員と交代した。
 台に積上げられたお菓子はどれでも一つ百円で売りさばくというものであった。百円で売っているケーキ屋の横で、お菓子の売り上げは芳しくなかった。せんべいや飴といった、およそ若い人が買うようなお菓子は少なく、あってもポテトチップスぐらいであった。同じ百円を出すならケーキだよなあと呟き、客が立ち止まって冷蔵ケースを覗いているのを見やった。別に多く売れるにはこしたことはないのだろうが、それほど強く売ろうという意志もないらしく、社員も適当に声を出して売ってねというだけであった。レジでの仕事や商品陳列に比べたら楽な仕事であったが、冷房も利いておらず、人ごみの熱気とアスファルトから放出される熱で汗が止まらなかった。ケーキを箱詰めしているアルバイトの女の子を見ているうちに馬鹿らしくなってきて、僕はこうなったら売り上げを伸ばしてやろうと考え始めた。どうせ暑いのに変わりはないのなら、声でも出していたほうが気がまぎれるだろうと、僕は大声でお菓子どれでも百円、百円でーすと往来に呼びかけた。十分もしないうちに主婦や会社帰りのサラリーマンたちが立ち止まるようになり、一人必ず二つは買っていくようになった。僕はそこで声 を出しつづけた。
 三十分ほど続けているとそれに熱中しだし、一人で十も買っていく客まで出てきた。足りなくなったお菓子を台の下から引っ張り出し、箱を開けていると、視界の隅にこちらを見つめている女性がいるのが入ってきた。顔を上げるとそこにはあのウェイトレスが立っていて、壁によりかかりながら僕の方をじっと見ていた。バイトが終わったのか、ジーンズのスカートに白いTシャツ姿で、無表情に、そして額に浮かんでいる汗も拭わずに、彼女はただじっと僕の方を見つめていた。多分彼女は僕ではなく、駅前の往来を見ているのだろうと考えるようにして、販売を続けた。しかし、意識が彼女に行ってしまい、僕は時折お金を小さい金庫に入れるときに盗み見た。
「よく売れたわね」
 結局彼女は閉店間際までずっと立って、僕を見つめ続けていた。酒のつまみにと二千円分も買っていったサラリーマンが立ち去ると、彼女は近づいて、そう言った。汗を拭い、空き箱を片付けながら僕はどう返事をしたものかと考えた。彼女は台の後ろ側の、店先の段差に腰を降ろした。そして僕にねえ、飴ってどんなのがあるの? と聞いてきた。僕は缶に入ったドロップと、黒飴、マスカット味の飴があると告げた。彼女は立ち上がって台の前に行き、ドロップ飴の缶を一つ取り、僕に突き出した。
「これ、頂戴」
 スカートのポケットから小銭を出し、百円玉を一枚取って僕に渡した。そして彼女は缶を左右に振り、カラカラと鳴る音を聞いていた。僕は金庫に百円を放り込み、後片づけを始めた。
「あたしカオリっていうの」
 また店先の段差に座り込むと、彼女はそう言った。
「アナタは?」
「ショウヘイ」
 ふうん。さしも興味のなさそうに答えると、カオリは缶の蓋を開けて一粒、白い飴を取り出して口に放り込んだ。社員の人が片付けを手伝いに来て、彼女との会話は途切れ、僕は店内に戻った。
 その日の店頭販売の売り上げに店長は喜び、百円の菓子販売は今週ずっとやるのだと言った。これだけ売れるのなら伍代君にまかせようかなと笑った。レジを済ませて戻ってきた宮迫が、肩を叩いてすごいねと笑いかけてきた。それでも僕はあの陽射しと放熱で息苦しい場所での仕事はウンザリだなと思い、ただ苦笑するばかりであった。更衣室でエプロンを取って、ロッカーに放り込むと僕はそのままタイムカードを押して事務所を出た。喫茶店は九時まで営業してるため、電気は点いていたが、ドア越しに見るとマスターしかいなかった。階段をゆっくりと降り、外に出ると熱気の余韻がまだ残っていて、じっとりと汗をかきはじめた。すぐに家に帰るよりもどこかで冷たいものを飲みたくなり、僕はどこか別の喫茶店に入ろうとした。
「ショウヘイ」
 てっきりカオリがいたのかと思い、慌てて振り返ったが、そこには宮迫が立っていた。
「ビックリした?」
 宮迫は帰っても夕飯がないから、一緒に食事でもしないかと誘ってきた。僕は二人で店に入る事に少なからず抵抗を感じたが、しきりに誘うので、僕は仕方なく頷いた。このすぐ近くにおいしいグラタンがある喫茶店があるのだと言いながら、宮迫は僕の数歩先を歩いた。風に乗って届いてきた香りは柑橘系で、カオリから漂ってきた甘い匂いよりも清潔さを感じた。案内された喫茶店は貴金属店の二階にあった。店内は落ち着いた色調でまとめられていて、ピアノクラシックが流れていた。他の客はサラリーマンやOLがいて、黙ってコーヒーを飲んだり、新聞や本に目を通していた。窓際のテーブルに腰を降ろすと、宮迫はご馳走してあげるから、なんでも好きなもの頼んでねと囁いた。僕は初対面で、それほど話もしていない人からご馳走してもらうわけにはいかず、断った。
「ショウヘイ君の臨時アルバイトの歓迎会だから、いいわよ」
 素直に受け取っていいものかどうか考えあぐね、帰れば夕飯もあるし、冷たい飲み物だけ飲めればいいと説明した。宮迫はじゃあ飲み物をご馳走してあげると譲らず、僕もさすがにこれ以上断るのも失礼かと思い、頷いた。
 宮迫の顔を改めて見ると、カオリほどはっきりとした顔立ちではないが、顎の細い、きれいな顔立ちであった。大きく黒目がちな眼のせいで幼く見えるが、薄いピンク色の口紅が似合っていた。
「私みたいなのがこんな店にいるの不自然よね」
 小さく笑って水を飲む。そして少し前まではバレエを習っていたのだと話した。意外だと思いつつも、小柄で華奢な体はいかにもダンスをしていたしなやかなラインであった。
「今はやめてしまったんですか?」
 僕はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら聞いた。宮迫はまだグツグツと表面のソースが動いているグラタンに粉チーズをかけながら首を振った。
「私案外と胸があるの。踊ってると邪魔でね、やめちゃったの」
 僕はその答えに吹き出し、声を殺して笑った。グラタンを頬張って、宮迫はにっこりと微笑んだ。
「ショウヘイ君、ようやく笑ってくれた」
 そして宮迫はバレエをやめて、少し気分が軽くなったこと、今年の夏ぐらいはと髪を染め、母親と喧嘩したこと、アルバイト代の半分は母親に渡している事などを話した。僕は頷いたり、聞き返したりするだけで、喫茶店にいるほとんどの時間を過ごした。グラタンと話に満足したのか宮迫は大きく息を吐いて出ようと促した。外には昼間の熱がとぐろを捲いて停滞しているようだった。息苦しさを感じながら、宮迫と別れ、駅に向かって歩いていった。夕方の喧騒が消え去った駅を通りすぎ、シャッターの閉まったスーパーを横切ろうとしたとき、そこにカオリの姿を見つけた。夕方の時と同じように店先に座りこみ、行き交う人や車を眺め、長い髪を指先で巻いて遊んでいた。目は虚ろであったが、まるで猫の目のように光って見えた。近くを通ってもカオリは僕に気がつかず、ただ機械のように首を左右に振り、髪をいじっていた。自転車に跨がり、家に向かう途中、僕は何度も戻りそうになる衝動を押え込みながらペダルを漕いだ。
 翌日のアルバイトは、最初から駅頭の販売に回された。夕方の陽射しは僕の体を満遍なく焦がし、汗まみれになりながら大声を出した。まだ夕飯時にしては早いせいか、主婦の足も、会社員の足も止まらず、三十分粘って、十個も売れなかった。僕は積上げられた菓子の箱の置き方を少し工夫しようと思いついた。会社員が欲しがりそうな、酒のつまみになる乾き物は上の方へ。子供やお年寄りが欲しがりそうなポテトチップスや飴、せんべいといったものは目に止めやすいように下のほうに移した。それがどれほどの効果をもたらすのかわからないが、手持ちぶさたの僕には良い時間潰しになった。一時間が過ぎると、代わりのアルバイトが交代に来た。休憩に行っていいという伝言を言うと、アルバイトは目を細めて暑いなあと呟いた。僕は喫茶店の階段を上がり、事務所に戻った。事務のおばさんに食券をもらい、喫茶店に入る。マスターがフライパンを振り、スパゲティを炒めていて、それをカウンターに座ってカオリが眺めていた。カオリは今日も赤い口紅をしていて、肌の白さと鮮やかなコントラストを描いていた。僕に気がつき、カオリは食券を受け取り、しばらくお待ちくださいと愛想のない 口調で答えた。マスターが口元に苦笑を浮かばせて、店内を眺めているカオリをチラリと見やった。マスターと目が合い、僕も小さく苦笑をしてみせ、休憩所に戻った。
 休憩所には社員が一人、トーストを頬張っていて、僕は会釈をして昨日と同じようにソファに座った。雑誌を広げながら、社員の食べているトーストを盗み見ると、確かに昨日僕が食べたのよりも薄かった。社員に声をかけられ、僕が答えていると、宮迫が背伸びをしながら入ってきた。自販機でコーラを買うと、僕の前に腰を降ろした。
「今日はずっとお菓子の販売なの?」
「そう聞いてますけど」
 大変ね、暑いでしょう? 宮迫は一口コーラを飲むと社員に少しは店内に回してあげたらと声をかけた。社員は笑いながら、伍代君が売ると売り上げが違うんだって店長がいうからなと答えた。宮迫はアカンベエをして、
「社員なんだからショウヘイ君より売りなさいよね」
 社員は肩をすくめて、おおコワ、とおどけてみせ、コーヒーを飲み干した。そして休憩所を出て行った。
「レジが混雑してきたらショウヘイ君呼び戻されるかしら」
 宮迫の独り言のような呟きに首をかしげると、愛想のない声が聞こえた。視線を向けるとそこにはカオリがいて、トーストとアイスコーヒーを乗せたトレイを持っていた。僕が立ち上がるより早く宮迫が立ち上がり、トレイを預かり、僕のまえに置いた。カオリは何も言わず小さく会釈をして、社員が食べ終えた食器を片付けて出ていってしまった。
「彼女と何か話した?」
 ガムシロップを半分、グラスに注ぎ、ストローでかき混ぜながら僕は首を振った。そう、と呟き、宮迫はミルクの容器を指で弾いた。
「何か、あるんですか?」
 昨日から気になっていた宮迫のカオリに対する言動や表情の理由を聞いてみた。宮迫は煙草をくわえ、チラッと入口を見やると口を開いた。
 カオリは大学一年で、あの喫茶店のアルバイトを始めて三ヶ月目。その間このスーパーの社員やアルバイトと懇意になっているという噂が流れているのだと早口に説明した。
「コンイ?」
 僕はやはり厚切りのトーストをかじりながら聞き返した。
「つまり、スケベな関係ってこと」
 僕はああ、と頷き、コーヒーをすすった。その時にカオリのあの深茶色の瞳の潤みと赤い口紅の意味がわかったような気がした。
 休憩が終わり、僕はまたあの熱気の中に戻った。ようやく陽も傾き、あたりが青みを帯びてきた。大声を出して僕は目の前の人に訴えかける。そしてまた、昨日と同じようにカオリがいた。今日は目の前の人の流れを挟んで正面に立ち、じっと僕を見つめていた。そして手に持ったドロップの缶から飴を取り出して口に放りこんだ。いつしか僕は主婦たちに向けてではなく、カオリに伝えるように声を張り上げていた。彼女は何も言わず、ただ僕を見つめる。その瞳には感情もなく、ただ虚ろに、そして潤みを持っていた。
 その日のアルバイトが終わり、外に出たときにカオリが声をかけてきた。もう帰ったとばかり思っていた僕は驚きと喜び、そして不安を感じた。彼女は口元に笑みを浮かべてはいたが、けして抑揚もなく、瞳に輝きもなかったのだ。何か用事があるのかと聞くと、カオリは意味ありげな笑みをこぼし、少し話をしないかと誘ってきた。僕が頷くとカオリはついてくるようにと目で合図して、歩きだした。僕は夢遊病者のようにその後をついていった。少し歩いていくと、そこは汚れた川の土手であった。目の前の川面は街灯やマンションの明かりを反射させて、ゆっくりと流れていた。コンクリの土手に腰を降ろすと、カオリはメンソールの煙草に火をつけ、ふかした。赤い唇から吐き出された煙はさあっと湿っぽい風に流されていく。僕は彼女の横に少し間を空けて座った。
「私、ロクな噂されてないでしょう?」
 カオリの問いに僕は首をかしげて苦笑をしてみせた。彼女は髪をかきあげ、小さく笑った。
「スーパの社員とスケベな関係を持ってるって聞いたでしょう?」
 宮迫との会話を聞かれていたのかと思い、僕は言葉に詰まった。彼女は答えを待つわけでもなく、煙草をふかし、すぐに消してしまった。
「ショウヘイは本当だと思う?」
「いや・・・」
 口ごもり、僕は手近な小石を拾い上げ、投げた。カオリは肯定も否定もせず、ドロップの缶を鞄から取り出し、白い飴を一つ、取り出した。
「私ね、夜になって、ベッドに入っても眠れないの。眠くて眠くてしようがないのに、眠れないのよ」
 白い飴を口に放り込むと、カオリは膝を抱えこみ、僕を見る。川辺の風は湿り気を含んでいて、体中の汗を余計べたつかせるようであった。僕はカオリの横顔を見やる。微かな街灯の光に照らされ、細い顎のラインは清潔さを強調していてるように見えた。
「だから、夜中にブラブラしてるの?」
 僕は昨日見たカオリの虚ろな表情を思い出し、恐る恐る聞いた。彼女は小さく頷いてみせた。
「そう。家に戻るのも退屈だし、眠れないし。誰かに相手して欲しくて、ブラブラしてる」
「本当に眠れないの?」
 人間は一週間眠らなくても大丈夫だと聞いたことはあったが、それ以上眠らないとどうなるかはわからなかった。彼女は生まれてずっと眠ったことがないのではないか、僕を凝視し続ける表情を見ていてそんな錯覚を覚えた。カオリはここ二週間ほとんど寝ていないのだと説明し、小石を投げた。
「体の芯が熱くて、ぐっすりと眠れないの。寝たとしても、気持ちよく寝ていないの。信じる?」
 カオリの問いに僕は答えを出せなかった。昨日知り合い、ちゃんと会話をしてるのは今が初めてであり、そんなか細い信頼関係で僕は頷く事が出来なかった。しかしカオリは返事を待つ気配も見せず、ドロップ缶をまた鞄から取り出した。
「この白い飴、好きなの。これだけのドロップ缶ないかしら」
「それ、ハッカだよ」
 僕がそう言うと、カオリはふうん、と頷き、口の中で飴を転がした。
「お店の中で、ハッカだけ売ってるかしら」
「さあ、店内の売り場、詳しくないから」
 僕はコンクリの隙間から出ている雑草を千切り、指で弄びながら不安定このうえない会話にウンザリしてきていた。一体これ以上何を聞けばいいのか。そしてもし仮に僕の質問に彼女が答えたとしてどうすればいいのか。未熟といえば未熟過ぎる高校生の思考回路はそこから先に待っているものが判断出来なかった。
「不思議よね」
 ふいにカオリはそう呟き、立ち上がった。お尻をはたきながら、カオリの口元には微笑が浮かんでいるのが見える。無言のまま首を傾げていると、カオリは君は不思議な人ねと言った。
「なんだかこのハッカ飴みたい」
「どういう意味なの?」
 僕も立ち上がり、ジーンズを叩く。橙色の街灯がカオリの白い頬を柔らかく、生気を与えてみえる。艶のある紅い唇は小さく動いた。
「私に眠気を与えてくれそう」

 それから約束の日まで、僕はそのほとんどの時間を駅前で過ごした。ポケットにねじ込んでいた小説のページが進まなかった代償として顔と腕だけが日焼けで黒くなったことだった。百円菓子の売り上げの大半はサラリーマンで、猛暑のおかげでビールのつまみとして買って行った。最終日の日は記録的な猛暑で、店内ではビール、外では百円菓子が売れ、結局売り上げはもっとも多く、三万円になった。片付けを終え、事務所に戻ると店長は明日から僕が来ない事をしきりに残念がった。僕は曖昧に返事をするだけで、エプロンを丸めて手渡した。給料は明日清算をして払うからと言われ、僕は店長と事務員に挨拶し、事務所を出た。休憩所を通り過ぎる時、宮迫が慌てて声をかけてきて、寂しくなると言った。
「いっそのこと、夏休みの間だけアルバイトしちゃったら? 石塚クンと一緒に」
 宮迫の提案を僕は苦笑混じりに聞き、店長がアルバイトは足りているからこれ以上は雇えない、とウソをついた。そして短い間でしたけど、ありがとうございましたと挨拶をした。宮迫は口を尖らせ、大きな目を潤ませて一枚の紙切れをシャツの胸ポケットにねじこんだ。
「それじゃあね」
 重い防火扉を閉めると、僕は体中の筋肉が緩んでくるような錯覚を覚えた。明日給料を取りに来ればこの扉を開ける事はないと思うと、寂しさよりも安堵の気持ちが大きかった。向かいの喫茶店を覗き見ると、マスターがヒマそうにスポーツ新聞を広げているのが見えた。カウンタにはカオリの姿はなかった。僕はそれを確認すると階段を降り、昼間の熱気が残っている外へ出た。駅前の売店でメンソールの煙草を買い、胸ポケットに入れる。その時に宮迫に渡された紙に気づき、それを取り出し、広げた。そこには宮迫の電話番号が記されていた。僕は周囲を気にしながらそっと紙切れを鼻へ近づけてみた。鼻先に微かに柑橘系の香水の匂いが漂った。そしてその紙切れを財布にしまい、家路に向かう人の流れを見やった。 翌日の三時すぎに僕は事務所に給料を取りに行った。事務所には事務員と店長がいて、一週間分のバイト代の入った茶封筒をくれた。書類にハンコを押し、石塚は来ているのか聞くと、真っ黒に日焼けして来たよと店長は言い、また今度機会があったら来てくれと僕の肩を軽く叩いた。事務所を後にするとき、休憩所をチラリと見やったが、宮迫はおらず、社員がアイスコーヒーをす すっていた。
 防火扉を出て、僕は茶封筒をジーンズの尻ポケットに突っ込み、喫茶店の扉を開けた。店内には客もおらず、マスターがカウンタの席に座って煙草を吸っていた。僕を見るとマスターは笑みを浮かべ、いらっしゃいと声をかけてきた。僕はカウンタ席に座ると、アイスコーヒーとスパゲティを注文した。
「昨日でバイト終わったんだって?」
 カウンタをくぐり、水をコップに注ぎながら話しかけてきた。僕は頷き、今日は給料をもらいにきたのだと話した。
「今日は一人ですか?」
 夕方から新しいアルバイトのコが来ると説明し、コンロに火をつけた。油の匂いが鼻先をかすめると同時に、きざまれた野菜が音を立ててフライパンの中で踊っていた。僕は何気なくあのカオリさんていうアルバイトの女性はどうしたんですか? と聞いてみると、マスターはフライパンをゆすりながら苦笑してみせた。
「おとといから急に来なくなっちゃって。電話しても捕まらないんだよ。困っちゃって」
 適当に相槌をしてみせると、マスターはスパゲティ皿に盛り、テーブルに出した。グラスに氷をいれる、爽やかで涼しげな音が聞こえ、コーヒーを注いでいるマスターの背中を見やりながら僕は小さく、脂ぎった髭オヤジとつぶやいた。
「いろいろウワサの絶えないコだったから、うちとしても困っていたんだけど、いざいなくなったらなったで、困るもんだね」
 アイスコーヒーを出しながら、マスターは笑ってみせた。スパゲティを頬張りながら、僕は愛想笑いを浮かべて応じた。
 店内に響くピアノクラッシックは宮迫が好きだと言っていた曲であった。僕はその曲を聞きながら、それとなくカオリのことを聞いた。マスターはこのアルバイトに来た理由や勤務態度を話して聞かせてくれた。僕はそんなもう知っている話に適当に相槌を打ちながら、マスターの表情を盗み見ていた。その時折見せる、濁って膜の張ったような瞳に、僕は男の汚い獣性を重ねていた。金を払い、いつでも遊びに来てねというマスターの言葉に笑みを返すと、僕は赤味を帯びた駅前に出た。改札口前の柱に凭れかかって往来を見やった。疲弊しきった、表情のない会社員や、怒ったように口を尖らせたまま歩く女性、手をつないでいる恋人たちの溜息や雑音ともつかない会話の間を縫って、あの鈍く、安い、からからと鳴る、ドロップ缶の音を。
 あの日から、バイトが終わり、外に出てくる僕を見つけるたびにカオリはドロップ缶をカラカラと振った。それは僕の体を熱くさせる合図だ。カオリの虚ろな瞳に魅せられた子犬のように、僕はカオリとの時間を夢想しきつくなったジーンズに掌の汗をこすりつけて、ふらふらと近づく。乱れた白いシーツの上で、僕とカオリはあのハッカドロップのように安くて、甘い、そしてぎこちない時間を過ごした。マスターには強く開けられた足を、カオリは素直に開いた。そして子犬のような僕を優しく導いた。従順に、しかし激しく、僕はカオリの中で動いた。そしてあのアスファルトが放出する、息苦しく粘り気のある熱気が体中にまとわりつくなかで、カオリは静かに寝息たてた。
 あれから十五年。僕はただの平凡な会社員となり、疲弊しきった表情で駅前に立っている。いつしか喫茶店は経営者が変わり、紅茶の種類の豊富な店になり、駅前のスーパーは大型スーパーが出来たせいで寂れてしまった。毎年、過去最高の暑さというニュースを聞く度に僕はカオリを思い出す。仕事を終え、駅前に立ち、夕日で赤く染まった町並の中にドロップ缶を鳴らすカオリの虚ろな瞳と紅い唇を探してしまう。その時決まって僕の口の中には、あの幼稚な甘さと苦みの混ざったハッカドロップの味が蘇る。そして体中に女性の柔らかさを知ったあの高校一年の夏の熱気と、粘着質のような快楽の熱さが蘇る。その時決まって僕の体から野犬が発散している、生臭く、脂のような匂いがする。僕はそうしてその熱と匂いに惑わされ、眠れない日々を過ごすことになるのである。

(了)


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