やがて大海へ



 あそこの川は、海につながっているんだ。
 コウちゃんがアキ坊にそう耳打ちするのを、ぼくは物陰から聞いた。いつまでたっても見つけにこないコウちゃんに苛立ちはじめ、自分からそろそろと身を隠して近くまで行ったときに聞こえたのだ。アキ坊は首をかしげて本当に? と聞き返したが、コウちゃんは鼻息も荒く頷いてみせた。
「そんなんウソやがな。あんなしょぼくれた川、海になんかいかんわい」
 ぼくはコウちゃんの自信ありげな表情を見て、がばっ、と体を出してそうわめいた。二人は呆気に取られ、ぼくを見ていた。
「トシくんみっけ」
 大阪から引っ越してすぐに仲良くなったのが隣に住むアキ坊と、向かいのアパートに住むコウちゃんだった。コウちゃんはぼくとアキ坊より一つ年上で、小学三年生で、ガキ大将であった。アキ坊はどこかトロく、大人しい子だった。ぼくらの住むすぐ裏手には川が流れていて、町工場が多いせいか水は濁り、淀んでいた。その土手にはその罪ほろぼしなのか桜がつらなり、四月ともなるとそこ一面鮮やかな桃色に染まった。そのときが唯一川が澄んで見える時期で、それ以外は淀んだ、ドブのような川であった。
「しょぼくれたっていっても、ケッコウ大きな川だよ」
 土手に向かい、三人並んで川を眺めていると、コウちゃんはそう言った。アキ坊もうん、大きな川だよと頷いてみせる。ぼくは旗色悪くなり、口をとがらせて大阪にはもっと大きな川があって、こんくらいの川は川とはいわんと主張した。
「でもガッコウの先生が言ってたんだよ、この川は海に流れているんだって」
「そんなんウソや」
「なんでウソやの、ン?」
 アキ坊は変なイントネーションの関西弁を使い、一人でへらっと笑った。コウちゃんはどんな川でもいずれ海に流れていくものなのだとガッコウで習ったと言い張った。ぼくもなんだか意地になって、絶対に海に流れていかんと譲らなかった。
「なら川をつたって歩いてみたら?」
 二人の頑な意地の張り合いを見ていたアキ坊はぽつりとつぶやいた。
「それだ!」
 コウちゃんはそう叫ぶと、この川を下っていけば絶対に海に出る。オレが正しいかトシが正しいか三人で冒険しようじゃないかとまくしたてた。そしてぼくを見下ろしてどうだといわんばかりに胸をそらしてみせた。
「ええでぇ、そんなん言うなら付きおうたるわ」
「謝るのはそっちだぜ」
 母親の呼ぶ声が聞こえ、ぼくたち三人は明日ガッコウが終わったらここに集合と約束し、それぞれの家に戻った。
「アホやなぁ、海に流れていくに決まってるやんか」
 夕食をすませ、コウちゃんの話をすると勉強机にへばりついていた兄はさも呆れたという表情で振り返った。中学二年の兄はとにかく勉強の出来る人であった。ぼくの知らないことを沢山知っていて、ぼくは夜になると色々な話を聞きたくて兄の部屋に入り浸っていた。
「ホンマに?」
「当たり前やがな。ええか、川っていうんはな、山奥の誰も知らんところから湧いてきた水が下に流れて行くんや。それが小さい川から大きな川、また別の川になったりして、最後は海に流れていくんやで」
 兄は本棚から一冊の地図帳を引っ張り出し、適当なページを広げてぼくの目の前に置いた。そこには緻密に描かれた日本地図があり、青い血管のように川が描かれていた。兄は机を離れ、ぼくの横に腰かけると指でその川をなぞった。
「ほら見てみい。必ずといっていいほど海につながっているやろ?」
「でも海にまで行かんのもあるやないの」
「それはホンマに小さい川や。支流っちゅうんや。その横の大きなのがあるやろ? これを本流いうんやで」
 兄がなぞった後をじっとみつめたまま、ぼくはあの目の前の川は海に流れていかない、支流というものなのではないかと聞いてみた。兄はもう一冊の地図帳を本棚から出すと、これは自分たちが住む横浜の地図だと説明してページをめくった。みせてくれたそのもう一冊の地図にはより大きく、はっきりと川は描かれ、細かい字で読めない漢字が沢山書かれていた。
 幾筋も広がる青い筋の一つを兄は指差し、これが裏にある川や、と説明し、ゆっくりと指でなぞっていく。その指先のたどり着いた先は確かに海であった。
「明日コウちゃんに謝ったほうがええで」
 兄は笑いながらぼくの頭をぽんと叩いた。ぼくは兄のなぞった川の先にある大きな海をただみつめるばっかりであった。
 物心がついたときからそれまで、ぼくは海を見たことがなかった。恥ずかしい話だが、遠足でも家族とも行ったことがない。ぼくの知っている、水がいっぱいあるところは川であり、海ではなかった。兄は小学校の遠足で一度海を見たことがある。ぼくは引っ越してしまったからその機会もなかった。兄は海の大きさを懐かしむように話してくれた。
 どこからこんなに水がくるのかというくらいに広く、そして青い。見える範囲全てが水なのだ。それはある意味恐怖ですらあった、と。
「この世のそのほとんどは海で出来ているねん。その地図みたらわかるやろ? その米っ粒みたいのんが日本や。ただの小島や」
 兄はもうすこししたら遠足で海を見れるがなと答え、勉強するから自分の部屋に戻るよう促した。ぼくは兄が貸してくれた地図を持って母親との寝室に戻ると、ひたすらに地図を見た。山奥の湧き水がいずれこの広大な海に流れていく。あの淀んだ川もつたって歩いて行けば必ず海へと出る。ぼくの住む場所なんかよりはるかに、気の遠くなるほどの大きさの海を描いた世界地図は、無意味な意地なんてどこかいってしまうほどの感動となって胸に迫ってきた。
 あの川は海へと流れている。布団に潜り込み、そうつぶやくとぼくは変に興奮してしまい、いつまでたっても寝つけなかった。
 上の空で聞いていた授業が終わり、下校時間になると、ぼくは掃除当番をサボって急いで家に戻った。ランドセルを放り投げ、そのまま家を出ようとしたが、ぼくは慌てて部屋に戻り、昨日の晩に借りた地図帳を兄の机におき、母の化粧台にある小さな小箱をあけた。その小箱の中にある一つの指輪をとるとぼくはパーカーのポケットに突っ込んだ。その指輪は中央に黒い石が埋めこまれたもので、子供向け番組のヒーローが変身するときに使う指輪に似ているという理由で、母親の持っている指輪の中でも一番気に入っていたものだった。ぼくはこれから長い道のりを歩いていくうえで、それは一つのお守りのようなものだった。ぼくは小箱を元に戻すと急いで土手へと向かった。
「さあ、行こうやないか」
 待っていたコウちゃんとアキ坊を見つけると、ぼくは腕をグルグル回した。
「ねえ、どっちに向かえばいいの?」
 アキ坊は目の前に横たわる川を見てそうつぶやいた。コウちゃんはあっ、そうかとつぶやき、どっちに行けばいいのかなあと川面に目をこらした。
「川は海に流れて行くんやろ? せやったら川の流れていくほうやないか?」
 ぼくがそう言うと、コウちゃんは知ってるよ、だから川を見てるんだと言い、川は左から右に流れていると答えた。桜並木にはもう花はなく、葉桜になっている。それを仰ぎながら、ぼくら三人は土手の上を川に沿って歩き始めたのだ。
「どれぐらいで海に着くんや?」
 しばらく歩くと大きな橋に当たる。ぼくらはそれより先に行ったことがない。ここから先に行ったとして、どれくらいで海にたどり着くのか見当もつかなかった。コウちゃんはわからないなあとつぶやき、アキ坊の顔を見る。アキ坊は首をかしげてぼくを見る。
「なんや誰もわからんの?」
 呆れてそうつぶやくと、ぼくは土手に腰をおろし、ここから先には行ったことがないから用心しないといけないと話した。アキ坊は何に用心しなくちゃいけないの? とぼくの横にぴょこんとしゃがみ、聞いてくる。そりゃ、アブナイおっちゃんやニイチャンだし、野良犬がおらんとも限らんやないか。ぼくはそう言いながら、随分と弱いことを言っているんじゃないかと思いはじめた。
「コワイのか?」
 すかさずにコウちゃんが聞いてくる。別に怖くないわいと言ったが、母親にあまり遠くに行ってはいけないとキツく注意されていることが頭から離れなかった。ガキ大将なコウちゃんはオレがいるから心配すんな、行こう行こうとせきたてる。アキ坊はコウちゃんの煽りに反応しつつも、ぼくが立ち上がるまで動こうとしない。ぼくはポケットに手を突っ込んで、指輪をぎゅっと握り締めた。
「さあ、行こか。日がくれちゃうで」
 橋は横切るには車が多く、危険だった。ぼくらは土手を降り、下を歩いていくことに決め、また歩き始めた。橋をくぐり抜けるとすぐに道路に並ぶように電車の高架が見えた。ぼくらはそれをみつけるなり足早に駆け寄り、その真下から上を仰いだ。線路が見え、枕木のすき間から空が見える。ぼくらは電車が通るとどんなふうになるのだろうと話し合い、電車が来るのを待った。
 ごおっ。
 いきなりオナカに響くような音がしたかと思うと、けたたましい金属の擦れる音と、振動が耳を支配する。ぼくらはぎゃあぎゃあ騒ぎながら、一生懸命に上を見て、走り抜けていく電車に目をこらした。川面を泳ぐ水鳥は、電車の音も気に止めず、ふらふらと漂っている。
「すごいなあ、あんなに速く走ってるんだなあ」
 コウちゃんは頬を上気させ、また来るかと必死に上を見続ける。アキ坊はすっかりご執心で、すごいすごいと連発した。ぼくもすっかり海なんて忘れてしまい、背伸びをするように上を向いていた。下りの電車が過ぎたあと、今度は三人で土手に上がり、線路の真横で電車が来るのを待った。銀色に輝く車両がものすごい勢いで走りぬける中、その突風によろめきながらも、ぼくら三人は飛び跳ねたり、手を振ったり、わめいたりした。
 その興奮も冷めないうちに、当初の目的である海を目指そうとアキ坊がいいだした。一番はしゃいでいたくせに、醒めるのが早く、ぼくとコウちゃんは未練がましい思いで高架を後に、歩き始めた。
 土手の風景はがらりと変わった。土手はコンクリで出来たブロックがびっしりと埋めこまれ、城の城壁のようになっている。ぼくらの住んでいる側の土手はまだ土で、草が生えていたから、その光景に唖然としていた。土手の周囲の建物も工場ではなく、マンションや一軒家が立ち並び、静かであった。
「ぼくらのところと全然違う」
 アキ坊はきょろきょろと辺りに目を走らせ、困惑気味につぶやいた。ぼくの目にはすごい高級そうな雰囲気に映り、自分の住んでいる場所がひどく貧相に見えて、段々とみじめになってきた。コウちゃんはさしも興味がないのか、ねこじゃらしをもぎ取って、ぶんぶんと振り回し、川を見ている。水面には細やかなさざ波が見え、春の陽光を反射させていて、長く見ていることが出来ない。白い水鳥がふわりふわりと空を旋回していた。
 川は緩いカーブを描き、右に曲がり始めているのが見えた。ぼくらはちょっと土手に上がり、その先がどうなっているかを確認した。
「あっちにも流れてるよ、コウちゃん」
 アキ坊が指した方を見ると川は確かに二手に分かれている。ぼくらがいる場所からそちらの川を追うことは出来ず、そのまま右に流れる川に沿っていくことになった。そのころになるとぼくらは歩くのに飽きはじめ、微かに赤くなりはじめた空が気になり始めていた。土手を歩く人はまだ多くいたが、みな大人ばかりだ。心細くなり始め、アキ坊の足取りは重くなり、口数も減り始めてくる。コウちゃんの鼻歌も次第に少なくなり、さかんに後ろを振り返っている。ぼくはそんな二人の間にいて、ぐずりはじめたアキ坊をせかしたり、コウちゃんが振り返る度に笑ってみせた。先の見えないあの場所を過ぎれば、ぼくらに多少の希望が見えてくるかもしれない。海とまではいかないだろうけれど、何かがありそうな、そんな期待があった。それでもぼくらの足ではいつまでたってもその先が見えてこない。次第にぼくも疲れてきて、コウちゃんにも笑いかけなくなり、ポケットに手を突っ込んだ。
「ない!」
 ぼくのその突然の声に、少し先を歩いていたコウちゃんはびっくりしたように振り返り、アキ坊は慌ててぼくに走り寄ってきた。
「どうした?」
「ないんや。ぼくのお守りが」
 ポケットの奥までぐっと手を入れ、探って見ても、指輪の感触がなかった。一体いつ落としたのか。ぼくは見当もつかず、服のポケットというポケットに手を突っ込んだ。
「どんなお守り?」
「お母ちゃんの指輪なんや。あれ失くしたのがバレたら怒られる」
「どんなカタチのユビワなんだ?」
 ぼくは慌てながら説明し、道端に落ちてないか探しはじめると、二人も一緒になって探しはじめた。来た道を戻りながら、歩いた場所をくまなく探した。それでも見つからず、ぼくは次第に涙がこみあげてきた。
「とっても高そうなユビワやねん。お母ちゃんが大事に小物入れにいれてたもんなんや。海が見えるまで何かあったら困る思て、持ってきたんや」
 探しながらぼくはうわごとのように怒られる、怒られると半分ベソをかきながらつぶやいた。そのとき、急にアキ坊が泣き始めた。うわんうわん声を張り上げ、地べたに座り込んでしまった。
「どうしたんだよ、アキ坊」
 コウちゃんがアキ坊の腕を引っ張り、立ち上がらせようとしたがダダをこね、泣きやまなかった。それにつられてぼくも泣きそうになってきた。
「トシくんがかわいそうだぁ。お母ちゃんに怒られたらぼくのせいだあ」
 その言葉にぼくは泣くことを止められた。泣くよりも先に、その言葉の意味がわからずにポカンとしてしまったのだ。コウちゃんも意味がわからず、アキ坊を見ていた。
「どうしてアキ坊のせいなんだ?」
「だって、だって、この中じゃぼくが一番弱くてトロいから、トシくんはお母ちゃんの大事なユビワを持ってきてくれたんだあ。ぼくがコワイおっちゃんに連れてかれないように、犬にかまれないように」
 しゃくりあげ、アキ坊はつっかえながらもそうまくしたて、ぼくにごめんなさいと謝りはじめた。
「何ゆうてんねん、アキ坊が悪いわけあらへんやんか。アキ坊が泣くことないんやで。勝手に持ってきたぼくが悪いんや」
 泣きやまないアキ坊の頭をなで、泣かんでええがなとぼくはささやいた。
「やさしいなあ、アキ坊は。ほんまにぼくの大事なトモダチや。せやからもう泣かんといて、な、な?」
 アキ坊の泣き声が静まりだすと、コウちゃんはシャツの裾でアキ坊の顔中を濡らした涙と鼻水をぬぐってやり、電車の高架のところが一番アヤシイといって、そこまで戻ろうと言った。そこに戻るあいだも三人で地面を見ながら、落ちてないか探した。周囲は暗くなりはじめ、目をこらしてもみつけにくい状況になってきた。ぼくは疲れ果て、もうどうでもいいようになってきた。
 結局、高架の周囲でもみつけることは出来なかった。疲れた三人は土手にしゃがみこみ、無言でネオンを映し、ゆらゆら流れる川面をみつめていた。
「コウちゃん、ごめんな」
「何が?」
「ぼくのせいで海は見れんし、つまらんことしてしもて」
 コウちゃんはニコッと笑い、別にいいじゃないか、海にはまた別の日に行こうよと答え、それよりもユビワ、どうするんだ? と心配そうにぼくの顔を覗きこんだ。ぼくはないもんは仕方ない、謝るしかないと答え、小さく笑い返した。
「もう夕飯やな、アキ坊帰ろ」
 アキ坊を促すと、ぼくらは家路に向かった。
「ぼくお祈りしてるからね、トシくんが怒られないように一杯お祈りしておくね」
 それぞれの家に戻ろうとしたとき、アキ坊はぼくにそう言った。コウちゃんもオレも祈ってるよ、心配すんなと言って笑った。
「ちゃんと祈ってくれよな、期待してるで」
 ぼくはアキ坊の頬をそっと撫でるとありがとうと言って家に入った。外はもうすっかり暗くなり、みそ汁の匂いが鼻をくすぐっていた。

 あの日、ユビワを失くしたことをぼくは言えなかった。すぐにバレてしまうだろうと思ったが、母は一度も指輪のことを口に出すことはなく、二十年がたってしまった。あの日のささやかな冒険に次はなく、二度と三人で海を目指して歩くことはなかった。
「なあ、海までまた歩こうな」
 コウちゃんはある日そう言っていたが両親の離婚で引っ越してしまった。それからしばらくしてアキ坊も少し離れた所に引っ越してしまい、疎遠になってしまった。
 中学を卒業するころにはぼくらは間違った方向に向かっていたことに気がついた。下流を目指していたつもりだったが、ぼくらは上流をめざしていたのだ。あのとき右に流れているように見えたのは目の錯覚だったのかもしれない。あれほど時間をかけて歩いた距離も、それほどの長さでもなかった。高校に入ってからぼくはあの道筋を歩いたことがあった。それはわずか三十分の出来事だった。そのあっけなさに苦笑しつつも、あの時の情景を思い浮かべた。大学に進んでから、ぼくは時折その道筋をあてもなく歩いた。そしてその度に胸の中で、ある光景が浮かび上がるようになっていった。それは深い、ひっそりとした森の奥から、こんこんと湧き上がり、澄んだ清流が流れていく光景だ。そしてあのとき上流を目指したことは間違いじゃなかったという想念が去来してくるのだった。そして最後には必ず、あのコウちゃんの笑顔と、泣いてくれたあのやさしいアキ坊が浮かんでくるのだった。
 風の噂でコウちゃんは高校を中退してやくざの事務所に入り、鉄砲玉でその短い生涯を終えた。海が好きで、最後まで海の見える場所で暮らしたいと言っていたそうだ。アキ坊は二部の高校を卒業して父親の跡をつぎ、今では立派な社長となり、二児の良き父親になっている。ぼくはいまだ独身で、しがないサラリーマンをしていて、出世も出来ないでいる。それでもアキ坊とたまに会うと居酒屋で一杯飲み、あの時の事ばかり話し合う。そして決まってぼくはアキ坊が泣いたことを、アキ坊はぼくが指輪をなくしておろおろしていたのをおもしろおかしく女将に話す。同じことを何度も聞いているのに嫌な顔せず、最後まで聞き、笑い、コウちゃんの名前を出すと泣いた。

 今でもぼくは胸に思い描く。山奥の湧き水が小さい川を形成し、やがて水かさを増して大河となり、海に流れ込むさまを。その度にあの川沿いを、上流目指して無性に歩きたくなる。その水を形成する原子の中に宿されているであろう想いが頭に勝手に思い描かれ、それを共有したとき、ぼくの中から勇気が湧いてくる。そしてちっぽけな自分を奮い立たせ、祈りのように強く念じる。
 水かさを増し、大河となり、やがて大海へ、と。

(了)



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