祖父と小説
小説のようなものを書くようになって十年。作家になろうと本腰を入れはじめて五年経つ。それだけやっていても未だに文章もまずいままだし、ひらめきだけで書ききるという力技も治っていない。
ましてや哲学や思想なんてご大層なものもないし、文学論なんていうものも持ち合わせていやしない。全くそれで良く小説が書けるものだと言われてもしかたがない。自分でも呆れている。
歌は下手だし、楽器もできない。絵は描いていたけど挫折した。
一番向いているのはサラリーマンで、パートのおばちゃんや事務の女子社員の愚痴を聞き、励ますこと。親戚の先見の明のあるおばさんに、
「多分あなたは会社の社長の器だわ」といわしめた僕である。
芸術や文学に向いてはいないらしい。僕もそう思うことがしょっちゅうある。
最初の五年は観念を追いつづけた。哲学と理想にひたすらあこがれ、精神世界で遊化していた。それをもどかしいほどの思いでただ書きなぐった。見るも無残な小説ばかりであった。
世間様に人並に揉まれ、きつい現実にぶつかっていささかすれっからしになったせいもあろうか、いつしか僕の中では観念も哲学も夢もどうでも良くなっていた。
それでも僕は小説を書いた。才能なきものがしがみついても無駄だと思われるこの文学の世界にかじりついていた。
もう少しで何かが見えそうだ。そう思っていた。僕が知りたいことがあと少しで見える。そんな時にある一人の人物で僕はその何かが見え、全てが結実した。
少し曲がった背中をしゃんと伸ばした姿はまるで二本足で立ち上がった猿のような滑稽さを持っていた。でもその歩く速度は速く、とても老人の歩調とは思えないほどしゃきっとしていた。
僕の母方の祖父。若い頃は博打に溺れ、借金で家族を苦しめ、嫉妬深く、癇癪持ちな祖父であった。そう言ってもそれは途切れ途切れに母や祖母から聞いた話でしかない。
僕の知る祖父は確かに癇癪持ちであったが宝くじを楽しみにしていたカクシャクとしたじいさんであった。
僕は幼い頃、記憶もない頃に父を亡くした。物心がついた頃には父はおらず、家の中の男といえば兄と祖父だけだった。
祖父は僕を溺愛してくれた。野球場につれていってくれたし、母に内緒で小遣いもくれた。本来なら祖父には叔父さんがいて、その息子、僕にとっては従兄が可愛がられるはずなのだが、一緒に住んでいないせいもあってか僕ら兄弟を可愛がってくれた。つかず離れず、僕と祖父は家族の誰よりも距離が短かった。
18才の時、母が腎臓を患い、入院をした年、僕は高校を卒業しアルバイトをしていた。通信教育の大学に入り、その夏にスクーリングに行っていた。スクーリングが終わったその日、元気だった祖父はいきなり倒れた。母が退院したその次の日だ。ほっとして気がゆるんだせいもあるのだろう。脳溢血だった。
祖父が亡くなったのは年の瀬も押し迫ったころだ。
ボケて僕の名前もわからず、自由にならない体に癇癪を起こして看護婦を困らせ、個室に移され、一人静かに息を引き取った。仕事から戻ってきて僕はその知らせを聞いて一人で病院に向かった。病院の遺体安置室は寒く、暗かった。そこにぽつんと祖父は横たわり、母も祖母も叔父さんも兄も泣いていた。
祖父は寝ているようにおだやかな表情で口を開けていて、生前の祖父の寝顔そのままだった。
その荘厳な姿に僕は圧倒された。
人が死ぬということはこれほどまでに凄いのか。
やけに冷静な意識が働き、僕は声も出なかった。そして肌で感じ、理解した。人の死は恐ろしいものでもなく、悲しいものでもない、と。
その人がどう生きてきたのか。その人が幸福であったか否かは死してはじめてわかる。
確かに祖父は博打に溺れて借金をした。借金取りから逃げるために母は祖母と風呂場に息をひそめて隠れた。遅く帰ってきた祖母を意味もない嫉妬で包丁をもって追いかけたこともした。癇癪を起こして親戚に迷惑もかけた。
けれど、いいじゃないか。
たった数年間ではあったのかも知れないが、祖父は人として生き、そして人として死んだのだ。そしてここで、僕の目の前に横たわっているのだ。
そこには観念も考えるだけの哲学もない。
そこには真実と、生きた哲学があったのだ。
僕はそのことに感謝した。その時に涙が後から後から溢れてきた。
けして悲しみだけの涙じゃなかったのだ。あの時流した涙は。
葬儀が終わってすぐに僕はレポート用紙2枚の小説、というか原案を書きなぐった。
それが「ファイアバード」という作品だ。それはいつしか机の引き出しに眠り、僕は現実に打ちひしがれながらさまざまな思いが醸成されていった。否すれっからしになっていったというほうが正しいのかも知れない。そして改めて引き出しを開けた。
「ファイアバード」はさまざまな形に姿を変え、その後二回書き直した。書く度に自分のいたらなさに舌打ちし、アタマをかきむしった。ようやく書きたいことを書けたその作品を僕は新人賞に応募した。そして今その「ファイアバード」は「いつも一緒に」となった。
確かにあの作品は若い僕が書くにはあまりに感傷的にとられるだろう。それは僕の技術のいたらなさと思索することができないオツムの悪さもアダになっている。しかし小説も読まない祖父から僕は小説の一から十までを教えられたといっても過言じゃない。
祖父が亡くなってもうすぐ十年になろうとしている。あの時思った死への恐怖はなくなったといえば嘘だ。僕は今でも死ぬのは恐い。幸福とは何かをつかんだといってもそれをどう表現していいか見当もつかず、いらぬ迷路に迷いこんでいる。
実生活で僕はだらしない男になりはて、祖父が生きていたらさぞかし嘆いていることだろう。そう思いながら僕はまた筆を取ってつまらない事を書きつづけている。あの時祖父が垣間見せてくれた生と死、そしてその肌で感じた哲学を信じて。
BACK