はじめてのサロマ挑戦                    2005.06.26 しろ

「ごめんなさい、ダメでした」

収容バスの中から応援してくれた人達にメールを打つ。

70km関門、制限時間15分オーバー。1年かけて準備したサロマへの挑戦は失敗に終わった。



1年前のこと。

富士北麓24時間リレーに参加したとき、TKさんを始めとしてサロマのことを仲間内で楽しそうに話しているのを見た。何であんなに楽しそうに話すんだろう、私にはとても不思議だった。彼らは100km走ったあと、一体何を見て、何を感じたのか。どうしても知りたくてサロマへの参加を決意した。当時の私は走り初めて3ヶ月、月間走行100km足らず、フルどころかハーフすら走ったことがない素人だった。

無謀にも目標をサロマに定めた私は、11月の丹沢湖マラソンで初ハーフ、12月にホノルルで初フル、翌5月にはチャレンジ皇居で50kmの初ウルトラを経験した。地力を上げるため高尾山へ山走りに行き、筋トレや柔軟も欠かさずに行った。この頃には月間走行290km、体重78kg→63kg、体脂肪率28%→14%となっていた。

1年かけてできる限りの準備をした、故障も無く体調だって万全だ。やり残しは何も無い、あとは静かにスタートを待つだけだ。



2005年6月25日。TK夫妻・でんでんさんと北海道へ向かう。その移動中にいろいろなアドバイスを頂く。

「ウルトラマラソンってのは我慢大会だよ、足が痛い−我慢、歩きたい−我慢、もうやめたい−我慢、ただただ我慢」

「選手で血だらけの人がいるんですよ、多分歩道の段差に足を取られたんでしょう。もう筋肉のバネがゼロに近いんで転ぶ体を支えられなかったんでしょうね」

「キロ何分何秒なんてペース設定はあまり意味ないですよ、最後のほうは目茶苦茶になりますから」

すごい世界に来たんだなとしみじみ感じた。車で明日走るコースを回ってもらったら、気が遠くなるほど長い・・・本当に大丈夫なのか、私。



深夜2時過ぎ、起床。でんでんさんと準備を始める。このときのために買ってきたCW−Xを出し、ゼッケンを取り付ける。すれないようにワセリンをたっぷりと塗る。この準備、ホノルルの時と全く一緒。あの時もでんでんさんと同室だった。お互いランナーを続ける限り、でんでんさんとはこれから何度もこんな準備を一緒にしていくんだろうなと感じた。



バスに乗って会場へ。会場には海外の人も多かった、20回の記念大会に加え、国際ウルトラランナーズ協会(IAU)のワールドカップも兼ねているそうだ。ラドクリフのような選手もいてなんとも国際的。

TKさんが「スタートは3人一緒に行きましょう」と提案。「え、前のいい位置から出ないんですか?」「ウルトラは長丁場だから、スタートはのんびりしたもんですよ」

そうか、普通のマラソン大会とはだいぶ違うんだな。



朝5時。スタート。

本当にのんびりしたスタートだった。これから丸1日の長丁場が始まる。

1km地点には「あと99km、ラストスパートだ」の看板もありなんともほのぼのとした気分。「サロマでの前半貯金は、借金ですよ」の言葉を思い出し、街中を走る20kmを多少ゆっくり目に走ったら、ちょっと遅すぎた。大丈夫か。

30km辺りから畑の中のコースになる。エイドで食べるスイカがとても旨い。ケソさんが写真を撮ってくれたり、走りながら色んなランナーと話す。60代らしき男性「熊本から来たんだ、阿蘇スーパーカルデラも走ったぞ」「すごいっすね、それで続けてサロマに来るなんて、家族の方は何か言ってましたか」「ああ、女房は呆れてるよ、アッハッハ」

20代らしき女性「みんなに連れられてきたんだけど、全員8時間台ランナーなのよ」「すごいじゃないですか」「ジョーダンじゃないわよ、アタシがゴールするまでみんなを4時間は待たせるんだからプレッシャーよ」

みんな、それぞれに抱えたドラマがあるようだ。この頃になると道の先に見えるのは地平線だけ。100kmって伊達じゃない。



42km地点に到着。

普通のマラソンならここで終わりなのに、まだ半分も終わっていないなんて。また気が遠くなる。足は・・・あとちょっとは大丈夫か、頑張るしかない。サロマ湖を左手に眺め、いい景色だ。ワッカのある水平線の向こうまで足が持つのかと思いながら走り続けた。

50km地点。私の最長距離は皇居50km。ここから先は経験が無い未知の領域だ、一体自分の体にどんな変化が起こるのかと思い走り続けたが、キツイ。緩やかな長い坂なんて歩いているのか走っているのか分からない。次のエイドはまだなのか。

55km地点、レストステーション到着。名物らしいホタテおにぎりを食べながら、荷物を受け取るが使うものは何もない、そのまま開けずに再度預ける。

制限時間がかなり迫っている、キロ8分近くにまでペースが落ちていたことも勘案すると、もう完走は無理だろう。真剣にキツイ、座りたいが、柔軟だけにして走り始める。



60km地点。制限時間数分前に到着。

水を受け取って、屈伸をしている最中に時間になった、「ガチャン」冷たい音と共にゲートが閉められる。

「あ・・・」思わず声が漏れた。まだ後ろには沢山のランナーがいるのだ。彼らを思うと胸が苦しい、次は自分の番と思うと悲壮感すら漂う。

もし、今ランナーが到着して見逃して通させてよと頼んでも、絶対に通してもらえないだろう。その係員の背中からは「どんな例外も認めない」と言わんばかりの強いオーラが出ていた。ホノルルで感じたお祭りのような雰囲気など全くない。これがサロマの厳しさか。

この時間に60km地点にいる者、私も含めて完走は絶望的である。残り時間を考えると体力・気力満タンのもう一人の自分と入れ替わらない限り無理だろう。そのせいか、もうリタイアして収容バスを待っている選手が殆どだった。

私は走り始めた、完走は無理でもいける所まで行こう。もはや周りは2・3人しか走っていなかった。



しかし、62km地点。心が折れた。初めて歩いた。

キツイ、猛烈にキツイ、ここで終わりか。このまま倒れて休むことができたらどんなに楽だろう。いつもならエアコンの効いた部屋でアイスでも食べてるはずなのに。

トボトボと歩いてたら63km地点のエイドに着いた。そこでは収容バス待ちの選手が楽しそうに談笑している。それを見て思った「敗者には敗者の意地がある。70kmまではまだ競技続行中だ、そこまで走ろう」。63kmのエイドから走り出すのは私1人だけだった。周りの人達は「明らかに間に合わないのに何で走るのか」「あいつは制限時間をわかっているのか」と言った視線だった。

65km地点、魔女の森に入る。歩いたことで多少体力は回復したらしく、よろよろと走っていた。もはや前にも後ろにも走っている人は誰もいなかった、観客もおらず自分1人。そんな中、しばらくすると大会ジープが後方からあわられた。追い抜くことをせず私の後をゆっくり付いて来る、どうやらここが最後尾のようだ。何千人も参加しているマラソン大会で最後尾とは情けなく走りながら涙が出てくる。なかなかできないこの経験、いつか笑いながら話せる日がくるのだろうか。



私設エイドの斉藤商店に到着した。片付けが始まっていて、もう食べるものなど殆ど残っていなかったが、凍らせた一口ゼリーをもらってすぐに出発。あと、ちょっと・・・70km地点まであと数キロの所で制限時間を迎える。競技は終わってしまったが最後まで走り続けよう。理由なんかない、もはや意地だ。

その後、大きい橋を渡り対岸に見える道路標識に「常呂町」の文字が、「湧別町 佐呂間町 常呂町」の3町をまたぐこの大会で最後の土地。併せて70km地点が見えた。ああ、終わりだ。もはや足が痛いとかでなく、勝手に動いている。

70km地点到着と同時に係員が制止する「ここから先は走れません、競技中止です。収容バスに乗ってください」 時計は9時間ジャストを示していた。歩道の端に座り込み、ポカンと空を見る。ああ、終わっちまった。

75kmのおしるこ食べられなかったな、ワッカも見れなかった。何もよりも応援してくれた人に申し訳ない、1年頑張ったくらいじゃ歯が立たなかった。みんなのいる場所に行けるように、また1年かけて準備しないと。週末に3時間走入れて、今度来るまでにはサブ4になっておかないとな。

来年また来るよ、サロマは広かったぞ。



おしまい