2005ホノルルマラソン                      T.K

サブスリーへ向かって・・・

起床

 レース当日の朝は2時に起きた。レーススタートはAM5:00。ホノルルマラソンのスタート時刻は早い。まずはこのスタート時間に自分の体調を合わせる必要がある。さらに時差の問題。ホノルルのAM5:00は日本のAM0:00ということで最も眠くなる時間だ。昼夜逆の生活パターンに僅か2日あまりで変えなければならない。それでも今回が7回目と言う事でだいぶ慣れてきた気がする。今回も充分睡眠は取れた。気分は悪くない。これから数時間後に始まる大イベントに向けて、徐々に気持ちも盛り上がってきた。およそ1時間を掛けて、食事、身支度を済ませ、ホテルを3時15分に出発。30分ほどかけてスタート地点のアラモアナ公園へ歩いて移動した。

アラモアナ公園
 スタート地点となるアラモアナ公園には3時40分頃到着した。公園にはもう既に数多くのランナー達が集結し、掛け声などがところどころから聞こえた。チームぴあの集合場所へ到着すると、お揃いのユニフォームを着た仲間達が集まっていた。ストレッチを行い暫くすると、リーダーである寛平ちゃんの登場。エイエイオーの掛け声で気分はさらに盛り上がる。このあとトイレを済ませ、軽くアップを行いスタートラインについた。アップの感触としては、少し身体が重たい感じがしたが、フルマラソンなので特に気にする事は無さそうに思えた。スタート位置は前年と同じくらいだと思っていたのだが・・・

スタート
 AM5:00、轟音と共に花火が打ちあがり、2005年ホノルルマラソンのスタートが切られた。昨年の記憶では、列がすぐに動き出したのに、今年は動き出しが遅い。位置取りが後ろ過ぎたのだろうか・・・ スタートラインまでのロスタイムは1分14秒(前年は24秒)掛かった。サブスリーをグロスで達成する為には、2時間58分台で走らなければならなくなった。スタート前から大きなハンデを背負ってしまった。さらにこのあと大きなロスを伴う。私よりも前にスタート切っているランナーが壁となり、思うようなペースで走れないのだ。歩いている人さえいる。これだけ前からスタートすれば・・・ という判断が甘かったのか? 結局、自分のペースで走り出すまでに相当な時間を要した。自分の走力では、ギリギリのサブスリーが限界。それなのにここで背負ってしまったハンデは大きすぎる。結局5kmを通過するのに24分以上掛かってしまった。さらによくない事は続く。5kmの手前付近で突然の腹痛。ここのところ数日間、便秘気味だったのが原因か、下っ腹付近が圧迫されるような痛みが発生した。この影響も有り、ペースを思うように上げられない。アラモアナ公園に戻り、カラカウア通りを東へ・・・ コースは最も賑やかな場所で、例年なら、気分が最高に盛り上がり、一気にペースアップするべき場所なのに、お腹の苦しさがそれを打ち消し、サブスリーはおろか、自己ベスト、いや完走することですら不安な気持ちになってきた。

カピオラニ公園
ゴール地点のカピオラニ公園は10km地点で一度通過する。サブスリーへのシナリオでは、ここを遅くとも43分以内で通過しなければと思っていた。しかし現実は45分54秒(グロス)。この時点で既に3分近くの遅れを取っていた。3分の遅れを残りの32kmで取り戻すには、1kmを4分10秒以内のペースで走らなければならない。体調が万全であっても厳しいペースなのに今の状況では・・・ このペースを無理に出そうとすれば、気象条件的にも、コース的にも厳しいホノルルでは自滅するのが目に見えていた。”サブスリーは諦めなければならない” これが10km地点で出した結論だった。 ”じゃあ何を目標に走るのか・・・?”この4ヶ月間ひたすらサブスリーという夢を描いて走り続けてきたのに、サブスリーを諦めた今、何をもとめて走れば良いのか? 自己ベスト更新? 昨年の記録更新? 色々と考えてはみたが、どれもモチベーションを高めるだけの原動力にはならない。むしろ身体的状況(腹痛に加え、左足裏のマメ発症による痛み)は完走への意欲すら奪いつつあり、”ここで無理せず、リタイヤしたほうが・・・”という気持ちが湧き上がってきていた。ゴール地点に近いこの場所でリタイヤすれば、今すぐに休める。そんな気持ちに揺り動かされていた。

    
 
ハワイカイ(25km手前)      カハラ住宅入り口(35km過ぎ)     カハラ住宅(残り 5km付近)

レース続行の意味
結局リタイヤという選択肢は選ばなかった。いや選ばなかったというよりも走り続ける意味がどこかにあるのではないかと考え続けていたから、リタイヤできなかったのかもしれない。”走り続ける意味”は、見つかったような、見つからなかったような? あの瞬間、それは明確ではなかったが、今思えば、”ここがホノルルだから・・・”という事に尽きる。アロハスピリッツ(助け合いの精神)が溢れるこの場所で走る事を諦めるということは出来なかったんだと思う。ホノルルマラソンにはタイムなど関係なくただひたすらゴールを目指す人達が沢山いる。そしてそれらの人を皆が祝福する。レース後、フィニッシャーズTシャツを着て街を歩けば、何人もの人に”Congratulation!”と声を掛けられる。ここでは2時間台で走る人も、4時間掛かる人も、8時間掛かる人も、ゴールすれば皆、勝者と成り得るのだ。私の参加したチームぴあでは多くの人が初マラソンをここで経験し、テントに戻ってきたとき、感動の涙を流す。”チーム全員が完走”これがチームぴあの目標だった。ふと気がついたらダイヤモンドヘッドの坂を駆け上がっていた。ランナーとしてレースを続ける意味は、もうないのかもしれないが、人間として完走する価値はあるように思えた。だから走り続けたんだ。きっと。。。

ゴール
いきなりゴールかよ? と思われるかもしれないが、書くべき事が見当たらない。10km地点を過ぎて、ダイヤモンドヘッドの坂を上がり、少しでもよいタイムを出そうとベストは尽くした。腹痛は小康状態を保ち周期的に襲ってくる痛みを堪えれば何とかなる目処はたった。左足裏のマメはハーフ地点を通過したあと、ヌルッとした感覚があったのであのときに破れていたんだと思う。(レース後靴下は血に染まっていた)痛みはかなり感じていたが、目標を失ったあともここまで走り続けさせてくれたホノルルの雰囲気はその痛みですら、リタイヤするための理由にさせてはくれなかった。10km地点でラップを取ったあとは、ぼんやりしていて25km地点までラップをとっていなかった。25kmの通過は1時間52分13秒。30km通過が2時間14分36秒、35km通過が2時間37分14秒、40km通過が3時間00分41秒だった。40kmの通過タイムをみるまでは自分がどれくらいのペースで走っているのか興味すら沸かなかった。”サブスリーでなければ意味が無い。”これがランナーとしての心境だった。しかし40kmの通過タイムを見た時気持ちが少し動いた。”残りの2.195kmを9分台で走れば前年の記録は超えられる!”たった1秒でも前年の記録を超えれば、それは進歩じゃないか!そう気持ちを切り替えて走った。痛みも忘れて夢中で走った。結局ゴールタイムはグロスで3時間10分25秒、ネットで3時間9分11秒となり、ネットでは1分21秒早く走ることができた。しかしその喜びは湧いては来ず、ゴール後に自分の中から湧き出てきたのは悔し涙だった。帽子で顔を覆いしばらく立ち止まっていた。この4ヶ月思い描いていたホノルルのゴールと現実はあまりにも大きくかけ離れていた。悔し涙が止まらなかった。

     
何とかゴール!! いやー辛かったぁ・・・

泣いたカラスが・・・
この失意のドン底から救ってくれたのは、チームぴあのスタッフが発した一言だった。ようやく気持ちを沈めて、ぴあのスタッフと顔を合わせ、テントに誘導してもらう途中だった。”チームぴあで2番ですよ! 1番の人は30分前くらいにゴールしました。”この一言で急に気持ちが明るくなった。30分くらい前にゴールしたのは、うさぎ2さん。それに続いての2番目となれば、”サムズのワンツーフィニッシュじゃん””またあの輝くステージで表彰されるんじゃん”と思ったら心に掛かっていた雨雲が消え去り、晴れ間がでてきた。結局、サブスリーは達成できず、2006年は納豆克服への道を歩む事になるが、今の気分は比較的明るく、それはチームぴあで表彰された事や、前年のタイムより1分以上早く走れたこと、前年よりも気象条件が悪かったことなど、レースが終わった後に判明した事実が大きく影響していると思われ、そう考えると、10km地点でレースを断念せずに走り続けて本当に良かったなぁ、あそこで辞めていたら真っ暗なホノルルで終わってしまったなぁと今更ながら思う訳で・・・

何はともあれ、2005年のホノルルマラソンは終わった。記録自体は平凡だったが、中身は平凡ではなかった。恐らくこれまでのホノルルマラソンで最も印象に残るレースのひとつになると思う。それくらい精神的にキツいレースだった。でも何かひとつ人間的に成長したような気がしないでもない??? この気持ちを大事にして、次のレースでサブスリーを達成したいと思う。



    
   
左足に出来た巨大なマメと血染めの五本指ソックス


−終わり−

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