2003年しまなみ海道100kmウルトラ遠足           曙

第1章・参加動機
 私は、昨年の渡良瀬遊水地マラソンで、初のフルを完走後、2003年の目標に、ウルトラ挑戦を決めた。
それは、自分が、マラソンを始めたのが、高校生の校内マラソン(12キロ)からで、ちょうど10年となるし、
25歳という節目として、自分自身の限界に挑むという意味で良いだろうと思った。
そして、3月の荒川市民マラソンで、何とか5時間を切り、出場を決心した。
  
第2章・荒川から先のレース状況
 荒川終了後は、右足のマメが潰れ、皮も剥がれてしまった。練習会は、2度参加したが、怪我のダメージは
大きかった。そして、4月13日のかすみがうらマラソンは、暑さと体調不良により17キロ地点で、初めての
のドロップアウトを経験した。その後は、体調は、何とかなったものの、横浜駅伝は、4区から3区に区間変更。
東京シティロードレースと山中湖は、手堅くまとめるレースが出来ました。
 
第3章・出発まで・・・
 ウルトラになると、今までとは異なり、準備も慎重になる。まず、シューズだ。A社のサロマ?にしました。
チタンネックも買い、ソックスも新しくしました。リュックに見えるんですが、チューブに水が1.5リットル入る
そんなリュックを買いました。(全てアートスポーツ・御徒町にて)全部で、25000円程です。
その他にも、塩、アミノバイタル、ヴァーム500×3を購入しました。

第4章・6月6日
 朝は、4時に起き、食事を簡単に済ませ、5時、自宅を出発した。6時30分羽田空港に到着し、ひあーるさんと合流。
7時10分、広島に向け出発した。8時半に到着し、バスで、福山に移動。10時には、福山に到着した。 
まず、スタート地点となる、福山城を簡単に見学し、昼食を済ませたが、受付まで、1時間半、受付会場で、新聞を読み
ながらいねむりをしてました。受付を済ませ、2人は、ダイエーで朝食の買出しをし、3時には、宿舎に到着しました。
 夕方には、ウルトラ前夜祭に参加し、10時には、消灯。いよいよ明日、初めてのウルトラ挑戦となるのです。

第5章・6月7日
 朝は、3時に起床。おにぎり、牛乳、ドーナツを口にし、荷物を中間用とゴール用に分け、出発した。スタート地点で
私は、思いがけない人にお会いしました。3年前に、私は、千歳・日航国際マラソンのツアーで一緒だった町谷夫妻
とお会いする事が出来ました。ご夫妻は、東京の千代田走遊会に所属されており、皇居で練習されているとの事です。
物凄く嬉しかった。
 
スタート〜20キロまで 
 5時、しまなみ海道100キロが始まった。5キロまでは、ひあーるさんと並走し、40分とまずまずといったところだ。
5キロ過ぎに、ひあーるさんに「先に行って」と声を掛け、先に行かせた。10キロは、1時間15分。ここから、トンネル
が5箇所あり、しかも、トラックが通るため、排気ガスによって、呼吸が苦しくなりそうになった。20キロの尾道大橋下
で2時間30分。設定より、10分早かった。そして本当のしまなみ海道が始まる。

20キロ〜40キロまで
 尾道大橋を渡り終えると25キロ。4分の1となる。ここまで3時間。ペースが上がりすぎたと思う。まあ、中間地点で、
7時間以内で行けば上等だろうと思った。30キロの因島大橋で、階段の為歩き出したが、やっぱり、無理があったと思う。
そして、気温の上昇。スタミナが消耗し始めてきた。35キロのエイドで、オレンジジュースを2杯飲み、頭から冷水を
かぶった。38キロで、背負ってたヴァームが丁度なくなり、コンビニで、ポカリ1.5リットルを購入した。
40キロでは、5時間10分で通過。

40キロ〜50キロまで
 いよいよ、未知の領域を意味する生口橋を越え、46.5キロで6時間20分。中間地点まで、3.5キロ。最低でも、
中間地点までは、元気でいたいと思った。そして、中間地点、6時間50分で入った。ほぼ目標通りだったが、足の
ダメージは、限界が近づいてきた。

50キロ〜60キロまで
 いよいよ、後半戦。あと9時間ではあるが、足の痛みと暑さで、走る気力がなくなってきた。ペースもガタ落ちに、ついには
歩くので精一杯になった。55キロで、7時間50分。完走もギリギリの状態になった。生口島が長い!!なんせ、14キロも
走らなくてはならないのだから。

60キロ〜77キロ(遂に体力の限界・ドロップアウト!!)
 62.6キロのエイドで時間内に完走は、絶望となった。しかし、出来る限り戦い抜くことが、自分の課せられた使命である。
歩いてでも行こうという気持ちで前へ進んだ。もう、時計より、何キロまでやれるかということだけ考えた。71.4キロの
伯方島の休憩地点で、マッサージを受け、スタッフから、「時間を考えれば、限界でしょう。」と、棄権勧告を言い渡された。
でも、次の島までは、行きたいと思い、出発した。この時17時半。あと3時間半しかなかった。
 次の大島までは、行けたが、もう限界。自分も、「ここまでやり切ったのだから悔いはなし。」と感じた。そして、運命の
77キロ地点。時は18時26分29秒。スタートから13時間26分29秒。スタッフに「ドロップアウトします」
「ファイナルアンサー」と告げた。そうしたら、トコロテンがきました。
 そして、別のランナーもここで終えたため、一緒に今治城に向かった。
午後7時、今治城に到着。ひあーるさんは、30分前に完走した。ひあーるさんに、「痛みに耐えてよく頑張った、感動した
おめでとう!!」と言うと、「ありがとう」と照れ笑い。自分は、77キロまでだったと言うと、「よく頑張った」と言ってくれた。
その後、大会実行委員長で、ウルトラマラソンのオーソリティー・海宝道義さんと握手した。海宝さんは、「また、がんばれ」
とはげましてくださいました。
入浴後、宿舎に入り。ネクタイマンさんに報告した。ネクタイマンさんも「よく頑張った、お疲れさま」と労いの言葉をして下さい
ました。ちなみに、部屋は、初日、ツインだったが、この日は、シングルだった。その訳は、最終章で語る。   
こうして、大会は、終わったが、本当の痛みは、ここから始まった。

最終章・6月8日     
 夜中2時ごろ、何故か、涙が止まらなかった。それだけ感動したのだろう。悔しさより、戦い抜いた涙だった。朝、6時起床。
しかし、体の痛みは、すごかったが、マッサージを前日に入念にしたため、それ程でもなかった。それに引き換え、ひあーるさん
は、何度も、「イテテテ・・・」を連発した。その為、部屋をシングルにしたとも。
朝食を済ませ、9時に出発。松山・道後温泉に向かった。ここでも、ひあーるさんは、入浴する際や階段の昇り降りも、
「イテテテ・・・」を連発していた。私は、「痛い」を口にしなかったし、歩くのも、しっかりしていました。
道後温泉は、100年以上前からの伝統のある温泉で、良かったし、普通の温泉とは、ぜんぜん違うなと感じました。 
 その後、昼食後、松山空港に向かい、お土産を何点か購入。14時半に出発。15時40分に羽田空港に到着・解散。
17時20分自宅到着となった。

編集後記   
 今回100キロに挑戦し、残念ながら77キロで棄権しましたが、やってみて、やれば出来るんだという気持ちになりました。  
 支えてくださったスタッフにも感謝したい。
 もう一度、フルマラソン、ハーフマラソンで磨きをあげてから、再度挑戦していきたいと思います。

                       
  


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