2003富士北麓24時間リレーマラソン 『北麓の悲劇???』
                 −サムズ・アップサンライズチーム−


サムズ・アップにとって1年で最も暑い1日となる富士北麓24時間リレーがやってきた。今年も昨年と同じ3チーム体制での出場となったが、参加人数は7名も減って29人。11人,9人,9人というやや厳しい人数でのエントリーとなった。チーム名は、アンケートにより、サンライズ,サンセット,ミッドナイトとなった。意味的には、日が沈み、真夜中になり、日が再び昇っても走りつづけているという事?メンバー構成は、サンライズは入賞を目指す意気込み充分?のイケイケチーム。サンセットは、それなりの経験を持ったランナーを集めた熟練チーム。ミッドナイトは、初心者,初級者を集めたフレッシュなチーム。といった感じで、この3チームで今年も、暑い、熱い、富士北麓公園を24時間にわたって走りつづけることになる。

    
    

私の所属したのは、サンライズチーム。4回目となる富士北麓だが、入賞を目指すようなチームに属するのは、実は今回が初めて。この時期はサロマ湖100kmの疲れが抜けず、スピードが出づらいというのは、分かっていたが、今回はメンバー的にみて(人数的にみても)、入れる隙間がありそうだったので、混ぜて貰う事にした。今回のサンライズチームは、リーダーがネクチャン。富士北麓は今回が4回目となる(皆勤賞)。その他に若さ弾ける快速ランナーのたかさん。速くて強いひろみさん。ここのところ色んな面で?成長著しい純米酒さん、確実に進化し続けているでんでんむしさん、経験豊富なHANZAさん、ネクチャンの永遠のライバル?やまはさん、最近仕事が忙しくお疲れ気味のMAMORUさん、今回は大抜擢(?)の曙さん、これに私を加えた10名でスタート。もう1名ひあーるさんは、夜から加わる。

      

サンライズチームのオープニングランナーは何と私。アンカーは初出場の時に経験したが、オープニングランは今回が初めて。最初って周りがみんな飛ばすから速いペースに巻き込まれそうで恐いなー!!と思っていたら、やはり・・・ 7月19日(土)正午、いつものお祭り雰囲気の中、サムズにとって4回目となる富士北麓24時間リレーのスタートが切られた。 

スタートはやはり、凄まじかった。とにかくみんな飛ばす。100m競走じゃないかって言うくらいのスピードで走っていく。これに巻き込まれ無いように!と思うのだが、入賞を目指すチームにいる以上、あまり後ろにいたのでは、その後の士気に関わるので、遅れ過ぎないよう頑張って走った。先頭から20番目くらいの位置をキープして最初の上り坂へ・・・ 雨上がりのせいか、ややスリップしながら坂を駆け上がり、呼吸を整えて、2つ目の坂へ・・・ 2つ目の坂を越えると、緩い下り勾配を走って、やがて訪れる急な下り坂に備える。体育館横を過ぎると急な下り坂が始まる。ブレーキを掛けるとかえって足にダメージが残りそうなんで、ストライドを広げ過ぎないように気をつけ、リズム良く下り降りる。ここで勢いがつくので、競技場裏のストレートは気持ち良くスピードが出る。でもこの1周目はオーバーペースだったので、息が上がり気味。気持ち良くは無かった。競技場に入るとすぐにリレーゾーンとなる。襷を外して、ひろみさんに襷を渡した。タイムは5分44秒。結局この周回が今大会の自己ファーステストラップとなった。

サンライズチームの作戦は、最初の1巡は1人1周で交代。2巡目からは、一人2周交替で繋ぐ事になっていた。スタート時に揃っていた10名全員が走り終わった時点で8位。これは予想以上の成績だった。今回のメンバーは、戦力的に昨年の入賞チームより少し劣っているのでは?という戦前の予想があった。大砲が不在で、人数的に一人少ない。さらにメンバーの調子も自分を含めて、やや疲労残りという感じがあり、入賞を狙う!とはいっても果たしてどこまで通用するか? 相手関係もあることだし、どこまでモチベーションをキープして走りつづけられるのか?という課題のほうが大きかった。最後まで入賞を狙えるような位置にいることができれば、チャンスあり!と踏んでいたが、ひょっとすると早々に入賞は諦めなければならないような事態に陥ってしまうという事も充分考えられた。それが1巡して8位。(一時は7位) これは想像を遥かに超えた順位だった。しかしこの好スタートが、このあとメンバーの一人一人をじわじわと苦しめる事になる。

2巡目からは予定通り1人2周というローテーションに入った。2周走るという意識があるので、当然やや抑え目になるが、目標は2周で13分(1周6分30秒)ということで結構きびしい。でも2周交替でこのペースを維持できれば、目標周回数220周は超えられるので、充分入賞圏内に食いこめるというリーダーなりの計算があった。2周のうち、最初の1周は抑えている意識があるので割と楽に走れる。1周目の上り坂は苦にせず、こなせるのだが、辛くなるのは2周目の上り坂から・・・
1周目の下りでペースアップして、その勢いで2周目に突入するので、坂の手前でかなり心拍数が高くなっている。その状態で上り坂に入るので、心拍数はさらに高くなる。その上、この周回で交替できるという意識があるので、苦しくても頑張ってしまう。2周交替ローテーションに入ってから最初の3巡までは13分以内で走れていたが、4巡目になって疲れが溜まってきているのを実感すると、ラップは13分20秒まで急激に落ちた。

この時点で夜7時を過ぎており、日が落ちて暗くなってきたので、スピードの錯覚(*1)がおきていたのは事実だ。(暗くなると周りの景色が速く過ぎ去っているような感じになり、速く走っているような感覚はあるのに、実際は思ったほどスピードが出ていない)しかしそれだけではなく疲れが出始めていたのも間違い無かった。それは私だけではなく、他のメンバーも同様で、殆どのメンバーが13分を維持できなくなってきた。この時点で順位は12位。8位でスタートしてから2周交替のフォーメーションに移行して徐々に順位が落ちてきた。それでもまだ入賞を狙える位置にいたのだが、何しろ予想外の高い順位からスタートしていたので、順位がひとつ落ちることが心に重くのしかかり、何としても順位を維持しなければという追いこまれた雰囲気が漂い始めた。

昨年は20位前後から始まり、徐々に順位を上げていき、夜明け直前に10位に突入するという尻上がりの展開だった。今年も勝負は夜明けからだ!と言う意識はあるのだが、昨年の様に、ネクチャン、バーモンスさんが夜になれば合流すると言うような明るい材料は無い。今年は夜にひあーるさんが合流するものの、夜明けと同時にMAMORUさんが会場を去らなければならないという事で、大きな上積みは見こめないので、この順位を大きく下げてしまったら、入賞狙いのレースは終わってしまう。そんな考えが余計に雰囲気を重くしていた。

2周交替の4巡目が終了して、時刻は午後9時30分。ここでリーダーはひとつの決断を下した。ここまで守ってきた2周交替のローテーションに見きりをつけて、このあとは1周交替のローテーションに戻すと言う事だった。午後11時を過ぎると、チームを2つに分ける夜間ローテーションに入るが、その前に、ひとふんばりして、ペースを上げ、順位を10位以内に一度戻して、高いモチベーションを保ったまま、夜間ローテーションに入るというのが狙いだった。実際、このローテーションに変えてから、ペースは蘇ってきた。1周6分30秒平均のペースが戻ってきたのだ。ただ誤算だったのは、かなり頑張ってペースを吊り上げたにも関わらず順位が変わらない事だった。

1周交替のローテーションを2巡。これで10位以内に食いこむ筈だった。しかし順位は変わらない。上位チームとの差は殆ど変わっていなかった。時刻は11時過ぎ。この数時間の奮闘が虚しく終わり、夜間ローテーションへと突入していった。私,ひろみさん,やまはさん,純米酒さん,でんでんむしさん,たかさんの6名は競技場を去り、翌早朝3時まで4時間の休憩に入る。トラックを去る時、残ったメンバーに声を掛けたが、その時の気持ちは、『次に出番が周ってくる時は入賞圏外に落ちているかも?』という重苦しさを漂わせたものだった。

そして私個人は、休憩前の最後の1周で深刻なダメージを右膝に負ってしまった。それは下り坂を駆け降りようとしていた時だった。右ひざの裏側に突然ピリッと電気が走った。その後は、着地するたびにヒザ裏から腰にかけて電気が走り続けた。競技場に入る時には右ひざを庇いながらでないと、走れなくなっていた。ラップは前周に比べて18秒も落ちた。襷を渡した後、しばらくは痺れたような感じが残っていた。それでも4時間休んだら、何とかなるかも?という淡い期待を抱いて、休憩に入ったのだったが・・・

仮眠は車の中でとった。シャワーを浴びる時間も惜しんで、寝る事に賭けた。少しでも長く横になっていたら回復するかも・・・ 回復してくれー!と願いながら寝た。そして午前2時30分。アラームの音で目がさめた。こわごわと右膝を動かしてみた。痛みは消えたように感じたが、階段を昇ったときに、それは気のせいだと分かった。力を入れて着地すると、やはり痛む。休んだ事で、筋肉も固くなっていた。テントで入念にストレッチを行い、ひざにテーピングを施し、出番に備えた。

正直言ってこの時、走りつづけているメンバーからその時の状況を聞くのは恐かった。入賞圏内に食いこんでいるとなれば、その順位を維持できるよう、痛みをこらえてでも走らなければならないし、圏外に去ったとなれば、この4時間、自分たちが休んでいた事が申し訳無く感じてくる。どちらにしても状況を聞くのは辛かった。でも個人的な体調からすれば、後者であって欲しかった。入賞圏外に去ったので、ここから先は楽しく走ろうという雰囲気になってくれれば、無理をせずにゆっくりと走れるからだ。でも期待した答えではなかった。午前3時、この時点で順位は11位。10位との差は約1周。入賞圏内と言えるポジションを堂々と維持していたのだった。さらにここから投入されるメンバーは休養充分。それまでのメンバーと比べると、安定して6分台を出せるメンバーが揃っていたので、次に第一グループが合流する7時過ぎには、是が非でも10位に突入していなければならない。その使命を受けて第2グループの反撃が始まった。

先頭は私。襷を受けて走り出したが、右膝の痛みは休憩前より、さらに増しており、スピードを出す事ができない。かろうじて走れるスピードで周回したが、ラップは自己最悪の7分46秒。これではチームの足を引っ張る一方で、とても追撃なんて雰囲気にはなれない。次の周回は痛みを覚悟して走り、7分9秒。どうしても下り坂でペースダウンしてしまうので、タイムが悪い。3,4回目は上り坂を目一杯の速度で駆けあがった。その結果6分53-58秒まで来たが、他のメンバーと比べるとこれではまだ戦力になっていない。5回目以降は上り坂のダッシュに加えて、下り坂では右足をかばい、左足を使って出きる限りのスピードで下った。そしてようやく6分30秒台のタイムが出るようになった。チーム順位の方は、最初は全く差がつまらなかったのだが、午前6時を過ぎ、明るくなり始めた頃から徐々にタイム差が縮まり、午前7時を過ぎて、休憩組が合流し始めると、差が数分となって、いよいよ射程圏に捉えた。

午前7時30分頃(スタートから19時間30分)、ついに入賞圏内の10位に突入した。その後、徐々に差を広げて行き9時前(残り3時間)には後続に2周以上の差をつけ10位の座は、ほぼ確定的に思えた。私は、9時少し前に走った時、右足をかばっていたせいで、左足のスネに強い痛みが走り6分台で走るのが困難になり一時戦線から離脱。あと1,2回、無理の無いペースで走らせて貰おうと虫の良い事を考えながら、朝食を食べ始めていた。そんな時だった。DJのお姉さんから『現在12位のビッグマウスチーム隠しダマ投入!入賞圏内狙う!!』というアナウンスが流れたのは… この時は嘘だろぅ!3周以上も離れているのに残り3時間を切って逆転なんて出きるわけ無いだろう!と思っていた。しかし、この考えが間違いだった事に気づく。

    

暫らくして記録速報を見てみたら、1周5分前後の脅威のペースで追い上げているチームがあったのだ。それも1周や2周の単発的なものではなく、常に5分台前半を叩き出している。この時のサンライズチームは目一杯頑張って、6分前後で走れるのが数名と言った感じだったので、1周走る度に、1分以上の差が縮まっていく。ビッグマウスチームは、1時間で11-12周、わがチームは、9-10周というわけで1時間で2周も差が縮まってしまうのだ。元々差は、3〜4周あったと思われるが、残り時間から計算すると捉えられるのは避けられない状況だった。

    

計算上は残り1時間くらいのところで捕まる。どんなに頑張っても、朝から投入された快速ランナーの前には成す術が無い。こちらは20時間以上走りつづけてヘトヘト。最後の力を振り絞って1秒というタイムを縮めるのが精一杯。一方相手はこれまで休養充分の新戦力。しかも超市民ランナー級。トップを走るチームですら5分30秒前後のラップしか出せてないという状況で、時折4分台を出すというのだから、もう手の打ちようが無い。それでも粘った。必死に食らいついた。ネクちゃんも、ひろみさんも、その他のメンバーも… 特にたかさんは夜間、足の調子が悪くて走れなかったこともあり、頻繁に出走して猛追に耐えようとしていた。みんな、どんなに頑張っても捕まることは分かっているのに、必死になって走っていた。そんな姿をみて、掛ける言葉すら失った。自分はこの時点で戦力外。せめて襷を受けて走ることが出来れば、少しは気が紛れたかもしれないが、それすらも出来ない。表現のしようが無い複雑な気持ちでいっぱいだった。

    

そしてついにその時が訪れた。ビッグマウスチームにリーダーのネクチャン自身が抜かれたのだ。並ぶ余地すらないほどのスピードで交して行ったという。走り終えたネクチャンと握手をかわした。諦めようにも諦められない悪夢の2時間が終わった。その時、熱いものがこみ上げてきた。感動ではなく悔しさから来たものだった。最後の最後で戦力になれなかった悔しさ、最後の最後で逆転された悔しさ、24時間身体を削って走ってきたのに、報われなかった悔しさ。色んな悔しさが混じっていた。筋違いではあるかもしれないが相手チームへの怒りもあった。たった数時間走っただけの快速ランナーに、24時間死に物狂いで走って掴みかけたカップを横取りされたという、筋違いの恨みもあった。

    

7月20日(日)正午、2003年の富士北麓24時間リレーは幕を閉じた。24時間お互いの健闘を称え合うハイタッチがいつまでも続いていた。いつもなら、心から感動してその列に加わっているのに、その時、心はそこに無かった。走り終えたという充実感より、悔しさのほうが大きかった。口では、『入賞だけが富士北麓じゃない。』なんて言って、何とか自分の気持ちを鎮めようとしたのだが、何をしても、何を言っても悔しさは消えなかった。レースが終わって何日か経ち、冷静になっても悔しさはおさまらない。でも悔しさの中身は少しづつ変わってきたように思う。

自分があともう少し頑張っていれば!あと1周は10位の座を守れていたかも… 寝起きの1周目に無理をしてでも、6分台で走れていたら、さらに1周は持ちこたえたんじゃないか? 逆転されたのは、終盤の僅か数時間だったが、そこまでにもっともっと自分を追いこんでいたら…

相手の作戦については、何を言っても仕方ない。ルール上、何ら悪い事をしていないのだから。。。 自分たちがもう1段高いところへ駆けあがるしかない。(まずは自分自身が・・・)来年は、チーム名をサムズアップリベンジに変えて、富士北麓に忘れてきた入賞カップを取りもどしに行く。2003年北麓の悲劇を忘れずに・・・ 

    

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