直線上に配置

24時間リレーマラソンin富士北麓'06 −アゲインチームの場合−

通算7回目となる2006年24時間リレーin富士北麓公園は、色んな意味で厳しかった。これまでで最もテンションが低く、気力が湧かず、自信のない大会だった。しかし、新戦力の活躍により、大きな刺激を受け、終わってみれば、今までで最も思い出深く、爽快な大会になった気がする。

シリアスチーム結成の危機
2006年5月中旬。毎年おこなっている24時間リレーの募集を締め切った。この時点で参加者は24名。1チーム最高12名で結成する24時間リレーin富士北麓では、2チーム編成にするのが妥当な判断と思えた。参加メンバーの構成をみると、入賞を狙うシリアスチーム候補は8名ということでシリアスチーム結成は断念せざるを得ないような状況だった。個人的にも足(股関節)の具合が思わしくなく、『今年はファンランチームで気楽に走ろう』という諦めの気持ちが大きかった。しかしこの状況を一変させたのは、シリアスチームのリーダーネクちゃんだった。『前回の入賞は正直楽だった。今年は久しぶりにギリギリ感を楽しみたい。一緒に10位を目指しませんか?』というメールでの問いかけに心が動かされたのだった。とは言え、この時の状況では、シリアスチームを結成するには3チーム体制にしなければならない。となると最低でも参加者30名、いや途中参加の人や、都合が悪くなる人の出現を想定すれば、出来ることなら32名以上は欲しい。その為には、あと最低10名集めなければならない。残された時間は少ない。今年の24時間リレーマラソンin富士北麓公園は人数集めから苦労の連続だった。

ネクちゃんの言葉に心を動かされ、何とか集めてみようと再募集を開始し、動き出してはみたものの、『内心は無理だよなぁ…』という気持ちが強かった。そんなこともあり、再募集の期間を区切り、期限までに揃わなければ、ファンラン系チーム2チームでのエントリーという条件をつけていた。(かなり弱気…)ネクちゃんからのメールで1名、また1名と増えてはいるが、目標の人数には届きそうにない。迫る期限。増えない参加者。焦る気持ち。24名は超えてしまったので引き戻すことは出来ない。やっぱり辞めておけば… こんな思いまでして集める必要があるのか? 素朴な疑問が湧き上がって来た。そんな状況が動き出したのは駄目もとで送ったメールの返事が戻り始めてからだった。ここ数年日程調整がつかず参加を見送っていたQ太郎さんが仲間2名を引き連れて参加。さらにりっちゃんが仕事の調整がつき参加。そしてネクちゃんは、色々なコネ?を駆使して合計6名もの仲間を連れてきた。これで参加者34名。ちょっと強引な感じもしたが、シリアスチーム候補の参加者も11名揃い、3チーム編成での出場体制がととのった。3チームの内訳は、10位入賞を果敢に狙うシリアスチーム1、女性を主体としたファンランチーム1、男子のみのファンランチーム1。以上合計3チーム。人数が揃ったので早速、エントリー手続きを開始した。

コニカミノルタミックスチーム
6月のある日、ネクちゃんから『つまらない提案ですが…』というタイトルのメールが送られてきた。開いてみると、今回の24時間リレーでは、コニカミノルタ陸上部が大会に参加し、4名の選手が、一般チームに混ざってミックスチームを編成するので、それに応募してみたらどうか?という内容だった。お揃いのユニフォーム支給、エントリー費返還という特典つきだし、超一流ランナーと襷渡しできるなんて凄い!ということで一発返事で快諾し、女子主体のファンランチームで応募することにした。駄目で元々の気持ちで申し込んだが、希望チームが少なかったのか、女性主体というのがうけたのか、それともチームPRが良かったのか、選考理由は分からないが、6月中旬。当選の知らせが届いた。ミックスチームは全部で2チーム選ばれたのだが、もう1チームがビッグマウスというのは因縁か? 何はともあれ、これで入賞を目指すチーム、コニカミノルタと親交を深める女子チーム、男らしさで勝負する?男子チーム。以上3チームの体制がはっきりと決まり、サムズアップとしては、例年通り大会へ向けて一直線という筋書きはできあがった。

上がらぬモチベーション
しかし、個人的にはモヤモヤしていた。それは股関節の具合があまり良くなかったからだ。入賞を目指して24時間リレーに出場するにはそれなりの覚悟が必要だ。急なのぼり坂を息を切らせて駆け上がる苦しみ、急な下り坂で足の故障への不安を抱えながら走る恐怖。そんなことを24時間の間に20回以上も繰り返す。しかも10位入賞という困難な目標に向かって常に緊張感を抱えなければならず、そのため1周足りとも気を抜く事はできない。そのうえ、例え自分のチームが過去最高の周回数を記録しても、それを上回るチームが10チームいれば入賞できないという不安もつきまとう。2003年、2004年はあと僅かのことろで入賞を逃がし11位に甘んじた。悔しさ、虚しさ、脱力感・・・ 入賞を目指して走って、結果を手に入れることが出来なかったとき、このレースは本当に辛い思いをしなければならない。2005年は念願の入賞を果たした。メンバーはサムズ・アップにおける完成系とも言えるような最強チームだった。3年越しの夢が叶い、その良い思い出を残したかったので、絶対に入賞できると言う確信をもてるようなメンバー構成で、尚且つ自分自身も完璧な状態でなければ出たくないというのが本音だった。しかし今年のメンバーは、去年に比べれば大きく劣る。そのうえ自分の状態も良くないし、このあと控えるサロマ湖100kmウルトラマラソンでどんなダメージを残すのか?そんなことを考えると、とても24時間リレーの事なんて考えられる状況ではなかった。あの苦しいレースを走るイメージが湧いてこない。替われる人がいれば替わって欲しい。ファンランチームで気楽に走って、入賞争いの行方を外から見守りたい。そんな心境だった。

6月末、サロマ湖100kmウルトラマラソンが終わった。足の状態は予想していたほど酷い状況にはならず、何とか走れる目処はついた。しかし依然として股関節の不安は拭いされず、大会までに強化走を行えるほどの状態では無かった。ウルトラの疲労を抜く。それが唯一出来る精一杯の努力だった。毎日のジョグは30分以内のペースを極力抑えたものに留め、体重が増えないよう食事に気を使った。しかし気持ちは煮え切らない。大会1週間前合同の練習会を開催した。皇居1周ジョグのあと、スピード強化を目的としたドリル数本。その後 皇居1周5分/km→4分/kmへのビルドアップ。4分/kmまではついていけたが、それ以上にペースアップしたときについていけなくなった。募る不安。そして状況は悪化する。練習会の翌日、右足の甲に痛みが出た。靴を履くだけで痛んだ。患部は左足と比べ、明らかに腫れていた。幸いにも数日で腫れは引いたが、痛みは続いていた。そのため、練習会以降全く走ることができなかった。替われる人がいるなら替わりたかったが、メンバー登録の期日は過ぎ、その望みも消えた。もう逃げられない。

覚悟をきめて・・・
もうどんな状況だろうと出なければならない。大会前日になり、ようやく覚悟を決めた。出ると決めたら、必ず入賞するんだと自分を信じ込ませなければいけない。まずは戦力分析。出場チームを見渡し、ライバルになりそうなチームをチェック。今年は学生チームが少なそうに感じた。また過去の入賞常連チームの名前が幾つか消えている。チャンスはあるかも? 次に自分のチームのメンバーを見渡した。去年に比べれば明らかに劣るが2年前と比べたらどうか?新戦力の様子がわからないが、予想通りの走りをしてくれたら、同等もしくはそれ以上の戦闘能力があるかもしれない。そんな感じがしてきた。『入賞できる!』 覚悟をきめたら、根拠のない自信が湧いてきた。去年の入賞メンバーが中心になって、新メンバーを引っ張っていけば何とかなる。やると決めたからには、もう言い訳は良そう。足の状態が悪いこともメンバーには隠そう。ここにきて、今更、チームのテンションを下げるような事を言っても仕方が無い。このレースで一番大事なことは諦めないことだ。

スタート前
大会当日は晴天に恵まれた。いや恵まれたという表現は、うちのチームにとっては間違っていたかもしれない。気温が高すぎて、激しい体力の消耗が予想されたからだ。どのチームも条件は一緒だが、経験者主体のメンバー構成ならそれも良いが、初出場のメンバーが多い今年は、ペース間隔を掴めないうちに暑さにやられて潰れてしまう選手が現れないか心配だった。スタート前のミーティングで初めて顔をあわせる人もいた。入賞を勝ち取ろうと言う意気込みよりも、これから何が始まるの?という緊張感のほうが勝っていたように思えた。そこで一言、『このレースは入賞を目指して逃がしたときは本当に悔しい。そんな思いをしないよう、ベストを尽くそう。絶対に入賞しよう!』と告げた。そしてこの一言を発する事で、自分自身が抱えている不安を心の奥に仕舞い込んだ。

イバラの道へ
7月15日午前10時、24時間リレーのスタートが切られた。経験者を軸に組んだローテーションで襷リレーは進んだ。1時間を経過した時点での順位は驚きの6位。確かにここまでのペースは良く、平均ラップが1周6分前後ではあったが、6位というのは出来過ぎだった。その後1時間が経過して7位。依然として好位置をキープ。3時間後も7位、4時間後、いったん8位に落ちたが、6時間後には再び7位に復活。これまでにないパターンに戸惑った。入賞を目指すチームを編成するようになってからは、常に10位前後の順位を推移し、常に上位チームをみて走っていたのに、今年は去年より戦力的に劣るメンバーであるにも関わらず7位という好位置をキープ。前よりも後ろのチームが気になるポジションが戸惑いを生み出した。順位を守る苦しさを知っているメンバーにとっては早い時間帯での7位という好位置は重荷以外のなにものでもなかった。さらに6位〜11位までが僅差で競りあっていたというのも辛い状況だった。チームの状態はというと、前半酷暑の中でのハイペースが祟ったせいか、ペースは早くも下降線を辿っており、この先、ペースアップする条件は殆ど見当たらなかった。他のチームのペースが下がらない限り、この順位を維持するのは難しい。それが常連メンバーの一致した見解。このうえは、とにかく我慢。我慢して入賞圏内を争っているチームが1つでも多く脱落することを願う。それが唯一の希望だった。

スタートから7時間が経過。順位は9位。僅差の入賞争いの中で順位が下がり始めた。6位までは射程圏内であるものの、それよりも下位のチームが気になっていた。ここまでの私のラップは、5:47,5:54,6:03,6:00,5:54,6:07。6回の出番があった。脚の具合は特に問題なく、心配していた右足甲の痛みもさほど気にならずに済んでいた。今回は3足のシューズを準備し、序盤はセーフティータイプのシューズを選んでいた。普段はLSD〜1km5分程度の走りこみに使用しているシューズなので、1km4分を切るペースになると若干シューズの中で足が遊び、ロスを感じるが、下り坂の衝撃を考えると、まだこのシューズで我慢したほうが良いように思えた。夜間に一段階、軽いシューズに変更し、翌朝からはさらに軽いシューズに変更する予定だったが、シューズを替えることで、右足甲の痛みが出ないか?その点が気がかりだった。

五里霧中。。。
スタートから8時間が経過。順位は9位。この1時間の中でも目まぐるしく順位は変わっっていた。チームの平均ラップは、6分21秒となり、序盤に比べると20秒近く落ち始めていた。初参加のメンバーや足に故障を抱えるメンバーが前半のハイペース&高温により消耗が激しくなってきているようだった。6位〜11位の入賞圏内を争そうチームは殆どが社会人の市民ランナーチームで、メンバー間の走力にバラツキがあり、PCでラップを監視していると1周5分前半で走る選手もいれば7分台が記録される選手もおり、走っている選手によって激しく順位が入れ替わると言うせめぎ合いが続いていた。1時間後、いや僅か10分後の順位でさえ想像がつかない、一寸先は闇?そんな状況だった。

スタートから9時間が経過。時刻にするとPM7:00。日が落ち、徐々に暗くなり始めていた。この時間帯から注意しなければいけないのが、ペース感覚の狂い。周囲が暗くなってくると、普段よりも速く走っているような錯覚に陥る。"凄く良いペースで走れているのにさほど苦しくない。快調だ"そんな感覚になり始めたら要注意。襷を渡して、ラップをチェックすると10秒から20秒遅くなっているなんてことが起こる。こうなってきたら、平坦路や下り坂では勇気を出してペースアップしないといけない。目から伝わる感覚ではなく心肺への負荷の掛かり具合で走らなければならない。順位は6位。しかし常に6位と言うわけではなく6位〜9位を常に彷徨っていたので、緊張感は続いていた。

不安=希望×2
スタートから10時間が経過。順位は依然として6位。好位置である事は間違いないのだが、"このままゴールできたら最高"という希望より、"入賞圏内から滑り落ちたら最悪"という不安のほうが勝っていた。11位以下のチームを諦めさせることが一番大事なのだが、僅差での争いという事で、諦めるはずは無い。下位のチームは上だけを見て走れば良いので気分的には楽だろう。過去のサムズアップがそうであったように… 10時間が経過し、時刻が午後8時をすぎると、夜間のローテーションに入る。ここからは11名の選手を3チームに分け、交代で仮眠する。どのチームも4時間程度は休めるようにローテーションは組んであり、その為に3〜4人で1時間15分〜1時間20分を受け持つ事になっているのだが、これがかなりキツイ。私は最初に登場するAチームに所属。Aチームは受け持ちの1時間20分の出走後、Bチーム(2時間30分)、Cチーム(1時間20分)の出走時間中に仮眠をとり、その後もう一度、1時間1時間20分を受け持つ。

夜間ローテーション
夜間ローテーションに突入した。これから短時間で3本走らなければならない。先の事を考え1本目は抑え目に入って6分23秒。(ちょっと抑えすぎたか?)2本目は坂を登り終えた後、ペースアップして6分9秒(上出来)3本目は目一杯走ったが6分15秒(限界か?) 全体としてはまずまずだった。脚に張りは感じていたが、故障は発生していなかった。Aチームとしては1巡目の平均ラップが6分30秒、2本目6分41秒、3本目6分53秒という感じでなんとか7分台突入は免れた。順位のほうは、上下しながらも、依然として12時間終了時点ではかろうじて6位をキープ。

先制攻撃実らず。。。
続くBチームは1時間15分の受け持ちを2セット続けて行うため、一人5本〜6本走ることになる。もっとも辛いチームではあるが、メンバーは精鋭を揃えてあるので、ここで平均ラップをあげて、11位以下のチームを引き離す作戦だった。引き離すことができれば後続のチームには諦めの気持ちが生まれる。ポイント、ポイントで平均ラップを吊り上げて、経験の少ない下位のチームに圧力をかける。上位との差を詰めようと必死になっているチームは差が広がり始めれば、そこまでの辛さも手伝い、もう諦めようか?という気分になってくる。諦めたら最期。もう2度と入賞ラインには届かない。これがもっとも効果的な作戦なのだ。 Bチームは6分19秒〜6分30秒の平均ラップを刻み、好順位をキープした。しかし下位のチームが思ったほど離れなかった。誤算だった。そして、この頃から低迷していた、あるチームの猛追が開始され、入賞争いはさらに激しくなっていった。

深夜になり猛追を始めたのは早稲田の学生チーム。日中は人数不足?により下位を低迷していたのだが、夜間になり人数が揃い始めると、1周5分台の好ラップを連発。一気に入賞圏内に滑り込んできた。早稲田の猛追は、衰えを全く見せず、あっという間に5位争いにまで上昇。入賞ラインを遥かに超え、優勝争いにまで絡もうかという勢いだった。そしてこれにより、入賞争いが繰り下がり、7位〜12位へと変化した。

下位チームの逆襲
Bチーム約2時間30分のローテーションが終了し、Cチームに襷が渡された。このCチームは爆発的なタイムは出ないが安定性を重視して組まれたメンバーで、翌朝からのスクランブル体制に入る前のセットアップ的な役割を担っている。Bチームによる引き離し作戦が成功すれば、下位のチームに諦めの気持ちが生まれ、こちらのペースが多少落ちても差はつまらないという読みだったのだが、引き離し作戦が不発に終わり、下位チームの鼻息は荒い。さらにこちらはメンバーが1名足らず3名編成と言うことで苦戦が予想された。こちらのペースが落ち、追い上げるチームがペースを維持したら差は詰まる。差が詰まれば益々勢いは増す。勝負の流れは悪かった。それでもこの時間帯をなんとか、しのいでくれれば、たとえ順位を下げても、Cチーム以外のメンバーで取り返すことはできる。 Cチームは"全てを出し尽くしてもよいから、この時間帯を支えてくれー!"という非情な、悪い言い方をすれば、捨て駒のようなチームとなった。そしてCチームはその期待にこたえ満身創痍の状態でありながらも、必死に耐え、Aチームへ襷を繋いだ。順位は9位。悪く無い。この状況では大健闘といえる走りだった。しかし、悪くは無いがライバルチームも頑張っていた。6チームでの入賞争いは、2チームが抜け出し、1チームが脱落。入賞争いは9位〜11位となり、4/6の入賞確立が、2/3になった。ずば抜けたチームがいないため、優勝争いのレベルとしては低いのだが、10位争いとなると例年通りの厳しさだった。

Aチームは仮眠のあとなので、注意を払わなければいけない。というのは、仮眠して筋肉が固まっているからだ。入念なストレッチを行い出番に備えた。1本目は体の硬さを感じつつ、無理をせずに走り6:18(まずまず)、2本目に入る前にアクシデントが起こった。同じチームの純米くんが股関節を痛めスローダウン。ラップが9分近くに落ちてしまったのだ。しかしこれも24時間リレーでは起こりうるアクシデント。このまま走らせるわけにはいかないので1本休んでもらう事にした。そんな状況で迎えた2本目。何とか取り返そうとするものの、降り出した雨が強く、スリップによる転倒の恐怖心から下り坂を飛ばせず、6:20、3本目は夜間ローテーション最後ということで上り坂でペースアップし6:15。Aチームの平均ラップとしては、アクシデントのあった1本目が7:05。2本目が6:34。純米君が復活した3本目は、6:51で終了。純米君は3本目必死に頑張ったが、やはり思うように走れず、これを最後に戦線から離脱した。ここからはサバイバル、走れる力の残っているもので襷を繋ぐ。これ以降は10名で襷を繋がなければならない。Aチームのローテーションが終わり、再びCチームに襷を渡した。順位は8位。夜間ローテ最後の出番となるCチームが10位以内を堅守してくれれば、入賞への道が開けてくる。

闇の中から一筋の光が・・・
スタートから17時間後、Cチームの走りが始まった。満身創痍のCチームに不測の事態が起こったら直ちに出動できるようAチームはテントで待機していたが、自分自身の余裕も殆どなく、ギリギリの状態に陥っていたので、内心は『頼む、頑張ってくれー、出来るだけ出番を減らしてくれー』という弱気が支配していた。そしてこのあと私にとって、この24時間リレー最大の転機が訪れた。

Cチーム2回目のローテーションが終わろうとしているとき、Aチームで一緒に襷渡しをしていた新戦力のオージさんがテントへ戻ってきて、『Cチームやばいっすよ。助けにいきましょうよ』と深刻な顔で語りかけてきたのだ。どうすべきか迷った。自分の状態も決してよくない。AM4時過ぎから予定しているスクランブル体制に入る前に少しでも体調を整えておきたかったからだ。迷って返事に窮していると、『11位に落ちちゃいましたよ。俺、絶対入賞したいっすよ。』のひとこと。これが心に響いた。この言葉を発したのが初参加のオージさんだったのが衝撃的だった。そしてこの瞬間にスイッチが入り、『よし行くか』と告げると、オージさんは、『俺、先にいってます!』と言って足早にテントを出て行ったのだった。このとき何故だか入賞を確信した。初参加のメンバーがこれだけ気合が入っていて、負けるはずはない。そう思えてきたのだと思う。

トラックでは、Cチーム3回目のローテーションが始まろうとしていた。確かにラップは落ちていた。1巡目7:19、2巡目7:30。走り終わったあと、トラックの上にへたり込むメンバー。"限界"そう感じた。 Aチームのメンバーなら、抑えて走ってもまだ7分以内で走れる余力はある。交替する決心をした。Cチームは4巡の予定だったが、3巡で切り上げて、そこからスクランブルに突入するという決断を下した。予定ではBチームの復帰を待ってスクランブルに入る予定だったが、もし間に合わなければAチームから入ろうと提案。同じAチームのオージさん、エスパシオさんも快諾。チームがひとつにまとまった気がした。

スクランブル突入
AM4:19、スクランブル体制に突入。早朝4時から勝負をかけるというのは、無謀にも思えるが、昨年からスタート時間が10時に変更(ゴールも10時)されたことにより、早く仕掛けないと脚を余して逃げ切り許すという事態にもなりかねない。そこで去年から取ってきた”夜討ち朝駆け”作戦を今年も実施した。夜間ローテの”夜討ち”は不発に終わったが、今度こそは勝負を決める。Bチーム(精鋭部隊)からスタートしたスクランブルだが、個人的にはオージさんの一言が心に響いて、ここまで抑え続けてきた闘志に火がつき、心身ともに充実していた。ここまで来たら怪我を恐れず燃え尽きよう!という決心が生まれた。この時点で順位は11位。10位(埼玉県警)とは1分、9位(山梨県庁?)とは3分程度の差だった。スクランブルの1巡目は、Bチーム+Aチームの7名で編成。平均ラップは6:26。1巡しても順位は変わらなかったが、これまで9位だった山梨県庁が10位に転落し、10位の埼玉県警が9位に浮上した。タイム差は、9位の埼玉県警と1分ちょっと、10位の山梨県庁とは数十秒差に迫った。”絶対に捕まえる”そんな雰囲気でチームは盛り上がっていた。スクランブル2巡目はCチームが加入。平均ラップは6:32に落ちたが、順位は10位に浮上。こうなったらあとは11位に落ちた山梨県庁が諦めるように勝負を掛けねばならない。ここからはタイムに伸び悩んでいるメンバーを一人づつはずし、平均ラップの引き上げに取り掛かった。その結果スクランブル3巡目は平均ラップが6:20に上がり、9位の埼玉県警を捉えた。奇襲攻撃成功セリ・・・

自分のラップはと言うと、スクランブル1巡目が6:24(体が動かず)、2巡目は6:10、3巡目は、6:05。5分台までもうひと押しというところまで来てはいたが、脚の限界も近づいていた。スクランブルに突入して替えたシューズの影響かここに来て右足甲の痛みがあらわれたのだ。残り3時間。頼むから持ってくれー。

埼玉県警との激しいバトル
スタートから21時間が経過。順位は9位。埼玉県警との接戦(9位争い)が続いていた。こちらが6分前後のタイムを連発し9位に浮上すると、相手は時折5分台の選手を繰り出して対抗。スクランブル4巡目は、平均ラップを6:15に上げたが差は広がらず。秒単位での争いは続いた。相手は警察。日常では一歩引いてしまう相手だがここでは引けない。突っ張りとおしてひとつでも上の順位を確保したいところだが、相手も引いてはくれなかった。こちらが勝負を掛けた事に応ずるかのように速い選手を繰り出してきた。一方で11位に下がった山梨県庁は急激に失速し始め、いつの間にか1周以上の差がついていた。"11位のチームに諦めて貰う"という作戦は機能し始めた様子で、10位の確保に成功した余裕から、埼玉県警とのバトルを苦しみながらも楽しむ余裕?が生まれてきたような気がした。

スタートから22時間が経過。スクランブル5巡目に突入。順位は相変わらず9位と10位を行ったり来たり。埼玉県警は入賞の常連チームということで一歩も引かない。こちらも引けない気持ちは一緒だが、余力はなくなってきていた。5巡目の平均ラップは6:17に落ち、メンバーを絞った6巡目も6:18と伸び悩んだ。私自身も4巡目からタイムが伸びず、6:11、6:09、6:16となり5分台から遠ざかった。さらに軽量シューズを履いて臨んではいたのだが、乳酸がたまりまくり、いつ攣ってもおかしくないという状態に達していた。

限界、最期の粘り・・・
スタートから23時間が経過。埼玉県警にじりじりと離され始めた。スクランブルメンバーの体力も限界に達していた。11位とは、ほぼ2周差がつき入賞圏内は確定。あとは1つでも上の順位を狙いたいところではあったが、その差は3分近くに開いていた。トラックの上に座り込んでお互いの顔を見つめて走れるメンバーを探す。そんな状態に陥った。

残り時間45分。リレーゾーンは15分前に閉鎖されるので、30分以内にアンカーに襷を渡さねばならない。平均ラップ6分以内の選手なら5名走れるが、今の状況では不可能。4名なら少し余裕があるという事で、かなり辛い状態ではあったが、今回初出場のとみやまさんと夜から合流したひあーるさんに出番を依頼。そして中軸メンバーでキャプテンのネクちゃん、最速ラップのタカさん、アンカーOTAさんへと襷を渡し9位浮上の僅かな望みを託すという作戦に決まった。私はスクランブルの6巡目の下り坂で太もも裏側に違和感が発生。痛みはないものの、もう1本走ったらパンクしてしまいそうだったので、出走を辞退させてもらった。これにより、合計周回数21周、平均ラップ6:08で2006年の24時間リレーを走り終えた。

入賞へ向けてのラストローテーションが始まった。会場は近づくフィナーレに向かって一気に盛り上がってきた。コース沿いには人垣が出来はじめ、徐々にコース幅を狭くしていく。そのなかを疾走していくランナーに声援が飛び、パフォーマンスをするランナーには笑いと拍手が巻き起こる。24時間リレ−独特の盛り上がりが始まった。時折、強く降る雨が、過酷な状況をのりこえてきたランナーを輝かしく演出する。競技場裏の直線にはサムズのメンバーが続々と集結し、幟、チアスティック、うちわで応援。去年はアンカーを任された為、応援の輪に入ることが出来なかったが、今年はもう"お役ご免"なので、応援団の中に入って、終わり行く24時間リレーを満喫した。

アンカーのOTAさんが襷を受け取り1周目が終了。2周目に突入したときにタカさん、ネクちゃんと競技場出口へ幟を持って移動しアンカーOTAさんを待ち構えた。OTAさんの3周目はコース途中で24時間が終了する。24時間経過後は、襷を持っていないランナーもコースを走行できるので、幟を掲げて一緒にウイニングランしようということになった。

フィナーレ
残り時間まであと3分。競技場出口にOTAさんが現れた。まだ24時間は経過していないが、3分間ではどんなに速いランナーでも1周するのは不可能。ということでちょっと早めのウイニングランを開始。この周回はもう計測されないのでゆっくりと走る。レース中何度も苦しめられた心臓破りの坂をのぼりきったところで24時間が経過。長い長いレースが終わった。結局追い上げは実らず10位のままだったが、2年連続通算3度目の入賞カップを手にする事ができた。24時間のカウントダウンは、場所が場所だっただけに盛り上がりには少々欠けたが、この4年間一緒に走ってきたネクちゃん、タカさん、そして今回初出場でチームの入賞に大きく貢献したOTAさんとその瞬間を迎えられたのは嬉しかった。コース警備のボラティアにお疲れ様と声を掛けられ、走っているランナー同士健闘をたたえあい、ゆっくりと周回していく。野球場の周りを走り、急な坂をゆっくりとおりると、名物チーム浦安RCのお出迎え。さらに直線へ向くと2重、3重の人垣が出来ていた。そしてサムズの応援隊と合流。コニカミノルタの選手達も加わって総勢40名近くでの大行進が始まった。最高に気分がよかった。こんなに辛いレースは初めてだった。逃げ出したい気持ちもあった。チームとしての戦力的な不安。自分自身への不安。いろんなものに包まれてモヤモヤした状態での出場だったのでこんな結果を掴めるなんて思っていなかった。支えてくれたのは、この4年間一緒に走った常連メンバーそれに新らしいメンバー達。それからコニカミノルタ女組や男組のメンバーが応援してくれたのも大きかった。

新たなスタートラインへ
今回メンバー集めを行ったときは、これが最後と密かに決めていた。チーム全体の雰囲気をそう感じたからだった。でも今回の盛り上がりを肌で感じて、そうじゃないと気づいた。自分の中で勝手にそう思い込んでいるだけだと…この大会を楽しみにしているメンバーは沢山いる。今回出れなくても、来年こそは!と思っている人もいる。それに今回初参加したメンバーの必死な姿や楽しそうな姿をみていたら、初めてこの大会に出たときの事を思い出した。そしてまた走りたいという気持ちが湧き上がってきた。初参加のメンバーが、24時間リレーの楽しさを忘れかけていた自分に新鮮な風を吹き込んでくれたようだ。テントの片付けが終わり閑散としている競技場をみつめながら、『来年もまた来るのかな? きっと来るんだろうな』 そんな気持ちになっていた。

あとがき
今回の24時間リレーin富士北麓公園は、まれにみる接戦だったようだ。優勝チームのHonda−RCは昨年22位からジャンプアップ。全くのノーマックだった。(マークしてたからと言ってどうなるもんでもないが…) ちなみに周回数は238周(23:57:39)。昨年のサムズアップは、同じく238周でタイムが23:56:24だったので、昨年の8位を下回る成績という事で、優勝チームのレベルはかなり低かった模様。優勝チームと10位との差が15周というのも珍しい僅差で、昨年は40周、一昨年は37周だった。優勝チームのレベルはこのように低かったのだが、入賞ラインはというと、昨年227周、一昨年226周、3年前218周ということで、今年のサムズアップが記録した223周と比べてもさほど差はないので入賞ラインのレベルは決して低かったわけではない。サムズアップの記録223周は3年前だと8位、一昨年なら12位、昨年なら11位に相当する記録でどの年に出ても入賞圏内を争そう相当な苦戦を強いられていたように思う。ちなみに今回チーム目標としていた周回数230周を達成していたら、4位に食い込んでいた事になる。

気になるコニカミノルタミックスチームはどうであったかというと、こちらは終始賑やかで、楽しそうに走っていた。特に女性陣は、コニカミノルタの選手達の格好良さに魅了されたようで、会えば笑顔。選手の走る姿を見つめる顔は、すっかり鼻の下が伸びていた? 格好良いデザインのTシャツ、ランシャツ、帽子をプレゼントされ、陸上界のスター達と襷渡しができたという事で夢のような24時間になったとの事だ。レース終了後にはサイン入りの色紙まで貰っちゃって、羨ましい。。。

最後に、このレースと直接関係はないが、心に響くメッセージがあったので紹介します。
JRA KEIBA is My LIFEより引用)

競馬が教えてくれたこと
どんな時代でも花は咲く。ここにいるのは笑うため。
耐えてきたのは今日のため。汗は輝くため。涙は強くなるため。
運命を変えられるか。歴史を変えられるか。
誰にでもそのときは来る。華やかにデビューしよう。
群れを飛ぶ出せ。興奮をスピードに。歓声を追い風に。
生まれ変わるときはくる。未来は自分の中にある。

スタートは平等に与えられる。一人で戦うのではない。
自分を信じよう プレッシャーを楽しもう。
逃げ切るか。最後に差すか。
生き方は選べる。ゴールは選べる。
一瞬一瞬を全力で戦え。その先に世界がある。
その先に自分がいる。夢見ることは戦い続けることだ。


興味のある方はHPをご参照ください。超格好良いMovie&BGMを観れます。
このメッセージ、ランナーにも通じるような???

参考までに・・・
2006年24時間リレーin富士北麓公園上位の成績
1 Honda−RC    238 23:57:39 22位(2005年)
2 シティランナー嵐   232 23:56:12 9位(2005年)
3 早大同テスト期間?  231 23:56:09  −
4 Baby Stars 230 23:59:54 12位(2005年)
5 メイセイスポーツ   229 23:58:12  −
6 アールツー      229 23:59:12 6位(2005年)
7 県柏☆VAAMIX  227 23:54:38 4位(2005年)
8 Team Alice 224 23:54:02 14位(2005年)
9 埼玉県警走友会    224 23:59:21 6位(2004年)
10 サムズアップアゲイン 223 23:56:58 8位(2005年)
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11 山梨県庁駅伝クラブ  221 23:55:33 15位(2005年)
12 富士宮市役所     213 23:57:50 −
54 サムズアップ男組   179 23:54:55 45位(2005年)
※ サムズアップドリーム 173 23:50:12 156周(2005年)

※オープン参加の為、順位はなし