シンガポール6
 シンガポール編6 









 昨夜、『明日の朝、一緒にランニングしない?』と誘われ、半屋はかなり驚きました。一緒にランニングという発想自体謎だと思うのですが、それを半屋に言うとはかなりの度胸です―――のはずですが、当然八樹はごく当たり前のことのように、『どうせなら、ちょっとでいいから一緒に走った方が面白いかな、って思ったんだけど。それに半屋君も体動かした方がいいよ』などと続けました。
 八樹自身、人と一緒にランニングをしたりするタイプではありません。そんな八樹が自分を誘うことにどういう意味があるのか、気づいてないわけではないのですが、やはりどうしても人と一緒に走ったりするのはイヤです。それにトレーニングなんて物は人とペースをあわせてやるものではないでしょう(八樹は半屋にペースをあわせたりはしないだろう、とも思ったのですが)。
『そう? 残念だな』
 心底残念そうに八樹が言って、だから今、この部屋に八樹はいません。
 

 他人と二人きりで一週間。
 たとえそれが八樹だったとしても、半屋には少し不安がありました。どこにも逃げ道はなく本当に二人きりです。八樹が半屋を怒らせても―――半屋が八樹に愛想を尽かされても、どこにも行くことはできません。
 でもそんな決定的な出来事は起こらず、八樹はいつも通り八樹でした。
 始めのうちは少し、観光しなくてはいけないと意気込んでいたせいだったからでしょうか、時々八樹らしくないときがあって、それがなんとなく嫌でした。
 そんなことが嫌で、しかも元に戻って欲しいと思うなんて、もしかしたら自分はおかしくなってきているのかもしれないと思いながら、半屋は煙草を取り出して火をつけ、頭痛を抑えるように顔をしかめて、深いため息をつきました。

 こうやってホテルの何もない部屋に一人いると、どこか所在のない感じがしてきます。吐き出した煙も、誰にも邪魔されることなく空気に混じってゆきます。音も聞こえず、どことなく肌寒く、半屋は吸いかけの煙草をもみ消し、新しい煙草に火をつけました。

 突然、がちゃがちゃと鍵を開ける音が響きました。
「あ、半屋君起きてたんだ。おはよう」
 少し息を切らしながら、八樹はタオルを探しています。
「走ってみるとこの国ってものすごく狭いよね。
 でもやっぱり半屋君と走りたかったなぁ。色々面白いもの見つけたんだけどね、一人で見てるとなんかもったいないって言うか…つまらないって言うか…」
 そして八樹は浴室へ消えていきました。八樹のシャワーの音が部屋を満たしていきます。部屋の空気が一気に変わったような気がしました。そして半屋はいつの間にかまた眠りに落ちていきました。

 
 シャワーから出ると、半屋は気持ちよさそうに眠っています。さっき見たときはかなりはっきり起きていたように見えたのですが、もしかするとまだ寝ぼけていたのかもしれない、と八樹は思いました。
「半屋君」
 小さな声で呼びかけると、突然ぱっちりと半屋の目が開いたので八樹は少し驚きました。半屋は目が大きいので、それがいきなり現れるとびっくりします。
「…で?」
 何の脈絡もないその言葉が、『で、今日の予定は何なんだ?』の略だと気づける自分が、そして、八樹に問いかけてくれる半屋がかなり嬉しいです。
「もう今日で終わりなんだよね…。もっとずっとこうやっていたいのにな」
「…で」
「うん。だからね、今日はおみやげを買わなくちゃいけないんだけど、それだけじゃなくて、なにか記念になる物を買いたいなって思って。こうやってここに来て、半屋君と二人でいれて、俺は本当に嬉しかったから、見たら思い出せるような記念の物が欲しいんだけど…」
 半屋がうさんくさそうに八樹を見ています。
「てめぇみたいなのが三角ペナントとか買うんだな」
「え? そんなもの買わないよ。修学旅行の時も買ってなかっただろ。
 …そうじゃなくて、俺、始めは少し不安があったんだよね。ずっと人と二人でいるのは初めてだし、半屋君がちゃんと旅行を楽しんでくれるかとか、俺のこといやになったりしないかなとか色々」
 八樹が一回話を止めると、半屋は目線で続きを促してくれます。
「誰でも楽しい観光地に行って、それに楽しまされてたら逆に気づけなかったかもしれないけど…半屋君と二人で旅行できて良かったなって思うから」
「…。何買うつもりなんだ?」
「まだ決めてない。今日、一緒に探してもらっていい?」
 半屋は視線をさまよわせ、『勝手にしろ』と言いました。


 今、二人は中華街にいます。ホテルのコンシェルジェさんに相談したところ、ここなら色々あるのではということでした。中華街はシンガポールの大半を占める中華系の人々の中でもまさに中国的な人々があつまる場所です。

 「これだろ」
 半屋が指さした物はマーライオンの置物でした。
「半屋君…」
「じゃ、あれだな」
 それはマーライオンとラッフルズ卿が浮き出している銀色のどっしりとしたマグカップでした。
「ならあれ」
 半屋は派手派手しくマーライオンが描かれたTシャツを指しています。
「半屋君が着てくれるなら考えるけど… そうか。半屋君との旅行の思い出なんだから、なんか半屋君に関係してたほうがいいな」   
 八樹は一人で納得して、マーライオングッズのあふれるけばけばしい土産物屋を足早に出ていきました。

 中華街には中国系の品ばかり集めたデパートがあります。効き目の怪しい漢方薬、中国茶などからチャイナ服、民芸品から雑貨や楽器にいたるまでの中国グッズをそろえたデパートです。
「半屋君。お姉さんへのおみやげ買ったの?」
「買ってねぇ」
「俺は家族と剣道部とクラスメイトと…結構たくさんあるな。半屋君は?」
「…」
「あんまり嵩張らないものにしないといけないだろうね」
 八樹はそう言い続けていましたが、目はあちらこちらをさまよい、何かを探しています。

「なかなか見つからないね…」
 そんなことを言ったとき、綺麗な細工を施した箸が八樹の目に留まりました
「これいいかも。ご飯食べながら思い出せるし。あ、半屋君もこれ使ってよ。……うん。そうだ。そうしよう」
 何かを決意するようにそう言って、八樹はその綺麗な細工の箸を買いましたが、なぜか半屋には別の種類の箸を買いました。
「はい。半屋君、これ使ってね。でさ、えーと、なんで違う種類買ったかわかる?」
「?」
「一緒に暮らさない?ってことなんだけど…」
「やだ」
 半屋は即答しました。
「そう…」
 八樹は見る間に落ち込んでいきます。どうも結構真剣な話だったようです。
 反射的に断ってしまった半屋は、やばいかなと思いました。でも今のままの方がいいです。今みたいに八樹が誘う時だけ会っている方が、色々わかりやすくてすみます。
 全然わかっていない八樹は、かなり深刻に落ち込んでいます。なので半屋は八樹の手からその箸を奪い取りました。
「これはもらっといてやる」
「…うん。ありがとう」
 八樹は笑いましたが、その笑みが作り物であることは半屋にはすぐわかります。
「…べつに…」
「わかってるから大丈夫。俺が勝手に言ったのに…ごめんね」
「謝んな」
「うん…」
 八樹はしばらく手の中にある今買ったばかりの箸を眺めた後、不意に顔を上げました。
「じゃあさ、半屋君。大学卒業するまでちゃんとつきあってたら、一緒に暮らそう?」
 急に期間が延長されたのと、さっきの八樹の落ち込みぶりのせいで、気がつくと半屋はしっかりうなづいてしまいました。

 八樹が上に行きたいというのでつきあったのはいいのですが、彼は宝石のショーケースから動こうとしません。中華系のデパートなので、ショーケースの大半は翡翠です。高い物から安い物までありとあらゆる翡翠がそろっています。
「やっぱり翡翠が多いね。中国の人、翡翠好きらしいからねー」
 見慣れていない半屋には高い物も安い物もそのへんで壷などにされている石みたいにしか見えません。しかし八樹は熱心に見入ってます。
「ね、これ、絶対半屋君に似合うよ!」
「ンでこんなちいせぇのにこんな高いんだ?」
「いい石なんだろ? でも絶対似合う あのさ、これ買ったらもらってくれる?」
「いらねー。自分のもん買えよ」
「だってこれ絶対半屋君に似合うよ。それに自分のものより半屋君のピアスの方がよく見るし」
 半屋の肌も瞳も明るい色をしています。だからこの翡翠はとても似合うだろうと八樹は思いました。それに上質の翡翠を日本で見かけることは少なから記念になりますし、半屋には気づかれにくい上質なものが似合うと思います。
「それに、今約束したし…何かしたいんだよね」
 その『約束』が既に記憶の底に埋没してしまった半屋には、八樹が何のことを言っているのか本気でわかりませんでした。
 ああわかってないんだな、と八樹は気づきましたが、別になにもフォローはしませんでした。本当に忘れてしまったわけはないのでしょう。それよりさっき頷いてくれたことが嬉しくてしかたがありません。
「やっぱりこれに呼ばれてる気がするなー。すごく欲しいけど、半屋君がつけてくれなきゃ意味がないし」
 八樹は絶対このピアスを半屋に贈るつもりでした。どんなこそくな手段を使って丸め込んででも、半屋を納得させようと決意したときのことです。
「オレはいらねー」
「うん」
「でもてめぇが欲しいんなら買やぁいいし、つけてぇならつけりゃあいい」
「え? えーと、それって半屋君の耳に、ってこと?」
「つけたいときにつけりゃあいいし、外したいときに外せばいい。勝手にしろ」
 少しムッとした顔で半屋はそう続けました。
「じゃ、じゃあ買うから!」
 半屋は自分が何を言っているのか気づいていないようです。
 ただ、『半屋のピアスの方がよく見る』という八樹の言葉に納得し、買った人間が買った物をどうしようと勝手だろうと思っているだけのようです。
 さっきみたいにきちんと理解しているときはちゃんと断るのに、無意識では八樹の存在をみとめてくれているのです。本当に嬉しくて、八樹はそのピアスを買った早々に半屋をお手洗いに連れ込みました。
「俺がつけていいんだよね」
「てめぇのなんだから勝手にしろって言ってんだろ」
 まだ気づいていないままの半屋は、同じ事を何遍言わすんだ、といった表情で八樹を見ています。
 八樹は半屋の耳に並んだピアスを一つ取り、今買ったばかりのピアスをうやうやしくつけました。
「やっぱりすごく似合うね!」
 はしゃいでいる八樹を見て、半屋は居心地悪そうにしています。あまりはしゃぎすぎて外すとか返すとか言われたら困るので、八樹はぐっと気持ちを抑えました。



 そして次の日。ついにこの思い出深いシンガポールを離れ、成田空港に到着しました。
「出たくないなー。もうちょっとここにいようよ、半屋君」
 税関の出口で八樹がごねています。
 八樹の親が車で迎えに来ているので、成田でお別れです。
 税関の手前でごちゃごちゃやっていると、荷物を調べられかねません。半屋はごねている八樹をひっぱって税関を抜けました。荷物は調べられずにすみました。
 
 隣で半屋がさっさと親に電話をしろと睨みをきかせています。名残惜しい八樹はできるかぎりその時間を引き延ばそうとしているのですが、そろそろ限界のようです。
「またすぐ会おうね」
「当分いい」
「…半屋君」
 こんな反射的な言葉にいちいちめげていたら半屋とつきあってはいけません。たぶん本心ではないはずだと気を取り直して八樹は誘い続けます。
「また明日ね」
「…」
「明日までは練習休みだから、俺」
「バーカ」
 半屋はそう言うと、さっさと成田空港駅に歩いていきました。
「後で電話するから!」
 半屋は振り返りません。でもその耳には小さな翡翠のピアスが綺麗な色を放っていました。
 






というわけでシンガポール編終了ですー。シンガポールの良さ…出なかったような気がしますね(大笑) なんでこの人々はこんなにいちゃいちゃしていたのでしょうか?
 なんといってもごはんがおいしいので、気軽な気持ちで行くときにはとてもナイスな国です。観光地は人工的ですけどその分すごい気合いが入っていますし。買い物もしやすいし、地元の人々が生活しているところに行っても怖くないし。

 次回があればオールキャラで上海の予定です。





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