その日、八樹は朝から幸せでした。今日は半屋工さんプロデュースの一日なのです。つきあいだしてからそれなりに長いのですが、こんなことは初めてです。さすがに買い物につきあったりすることはあったのですが、半屋から誘われるよりもなんとなく行きたそうにしているところを先回りして八樹が誘うことの方が多かったのです。
八樹はしまりのない顔をしていたらしく、ホテルのジムで昨日も一緒だった外人に声をかけられました。いい加減馴れてきたせいか圧倒的な幸せパワーのせいか、無難に受け答えができました。
ごく軽いトレーニングをこなして、ホテルの部屋に帰ると、半屋はすでにシャワーを浴びていて、テレビを眺めながらタバコを吸っていました。
(ちゃんと起きてくれたんだ…)
でもあまりそれに感動した様子を見せてしまうと、半屋の機嫌が悪くなることを知っているので、喜びをぐっと押さえて
「半屋君、おはよう」
と言うにとどめました。
半屋はさっきから居心地の悪さを感じていました。
なんだか八樹がものすごい勘違いをしているような気がするのです。
八樹は見ている方が気恥ずかしくなるような、子供のように期待に満ちあふれた様子をしています。朝食(悲しいことにカップラーメンです)を食べながらも、時々半屋の方を伺っています。
(…んなんじゃねーのに…)
ほんのちょっとした思いつきというか、ほとんど逃避行動のようなものなので、そんなに期待されると、いっそ止めてしまおうかと思ってしまいます。しかし本当に行くならそろそろ出発しないといけません。
半屋は無言でカップラーメンをすすりながら深いため息をつきました。
カップラーメンを食べている最中もその後お茶を入れた後も、半屋はずっと無言でした。なんとなく雰囲気的に「止める」と言い出しそうな気配を察した八樹は、さっさと支度をすませて「じゃ、行こうか」と立ち上がりました。
それで踏ん切りがついたらしく、半屋は八樹の少し前を歩き出しました。
タクシーに乗れば行き先がわかるだろう、と思っていた八樹は半屋がタクシーを無視して歩き出したのでかなりあわてました。一体どこに行くのでしょう。半屋が行き先を言いたがっていないのはわかるのですが、目的がわからずに歩くのは不安です。
「ね…どこ行くの?」
八樹はたまらずに聞いてしまいました。しかし「駅」と短く返されただけでした。
二人は少し歩いて、シンガポールのメインストリートであるオーチャードロードに出ました。三十メートルはある熱帯雨林の大きな木が道の両側に植えられていて、熱帯の激しい日差しを遮っています。
しかし八樹はどうも落ち着きません。半屋が予定を立ててくれたのは嬉しいのですが、それより目的がわからないという不安が気持ちを占めてしまいます。
八樹が話さないので、ほとんど会話がないままに地下鉄の駅に着きました。駅はビジネスマンで混んでいます。ビジネススーツの中華系の人々がきびきびと歩いている様子は一瞬「ここどこだっけ?」と思うほど日本そっくりです。
「どこまで買うの?」
「一番高いヤツ」
切符売り場でも目的地はわかりませんでした。でもとりあえず地下鉄で遠くまで行くらしい、ということはわかったので八樹の気持ちは少し落ち着きました。
地下鉄も清潔で綺麗で最先端なものでした。ホームにもドアがついていて、地下鉄が到着したときだけ開く形式になっていますし、切符は繰り返し利用できるプラスティックカードです。
全体的に『古さを切り捨てた日本』みたいな国だな、と八樹は思いました。キレイキレイで少し息が詰まる人工的な…―――楽しい旅行中です。そんなことを考えてはいけません。
半屋が選んだ地下鉄は東行きの路線でした。八樹の記憶にある限り、その方角には観光に適した場所は何もないはずです。しかも半屋は一度もガイドブックを読んでいません。
(海…ならあるらしいけど…)
しかしお互い水着はもってきていません。
謎は深まるばかりでしたが、始めて乗る地元民用の交通機関は新鮮でした。
地下鉄だというのに携帯が通じるようになっているらしく、車内で大声で携帯を使っています。
また中心部から離れるに従い、乗っている人のローカル色が強くなってきました。少しずつ変化してゆく客層や、細々とした発見を半屋に話すと、相変わらず聞いているのかわからない態度で話を聞いてくれます。行き先がわからず不安ではあるのですが、それでも昨日などとは別の楽しさがあるような、不思議な感覚を味わいました。
一方、半屋はたぶん失敗したな、と思っていました。もちろんそんなこと八樹に言ったりはしませんし、失敗を取り戻そうとも思わないのですが、失敗したなという気持ちは微妙に持っていました。
終点が近づくにつれ、それまでいろいろ話していた八樹がまた落ち着かなくなってきたのです。どうも八樹は目的がわからない行動が苦手のようです。考えてみればいつも八樹は目的を持って動いていたような気がしないでもありません。だから半屋は少し失敗したなと思っていました。
地下鉄はいつの間にか地上を走っていました。車窓から東京郊外のベッドタウンのような、まるで特徴のない風景が見えます。
「降りる」
半屋がそう言って立ち上がると、八樹はほっとしたような、より戸惑っているような瞳をして後からついてきました。
半屋が示した駅は本当に何の変哲もない駅でした。駅の周りは整備され、ショッピングセンターがあります。そして見渡す限り公団住宅が広がっていました。
「どこ、ここ…?」
変哲がないどころではありません。ここはまるで日本です。駅の雰囲気もビルや公団住宅の建て方も無個性で、郊外の計画都市そのものでした。
「駅だろ」
しかし半屋の答えは素っ気なく、八樹はある疑いを抱きました。
「…半屋君。行く場所って決まってるの?」
不安と苛立ちを押し込めた声で訊いても、半屋はなにも返事をしません。
「俺は、君が行きたいところがあるんだと思って楽しみにしてたのに…!」
ずっと不安を感じていた八樹の感情は爆発しました。なのに半屋は「うるせぇ」とつぶやくだけです。
一瞬、激しい感情が体を突き抜けましたが、かろうじて押さえました。
少し冷静になってみれば、半屋ははじめからどこに行くとも言っていませんでした。たぶん、電車に乗って気が向いたところで降りてみよう、という思いつきだったのでしょう。きっと自分があまりにも期待しているから、退くに退けなくなってこんな場所まで来てしまったのだ、と八樹は思いました。
「帰ろうか。電車に乗るのもそれなりに面白かったし」
半屋は八樹を見上げ、なにかを迷っているようでした。なんかかわいいよなーなどと呑気なことを思えるまで気持ちが切り替わってきた時、
「少し歩く」
と言って半屋が歩き出しました。
歩いても歩いてもなにも面白味のない風景が広がっているだけでした。公団住宅の一階はピロティになっていて、寝間着とか雑誌とかごちゃごちゃしたものを売っている小売店がちょこちょことあります。子供が三輪車に乗って遊んでいます。本当にごく普通の風景です。
「メシ」
「…え?」
公団の別の棟のピロティには小汚い食べ物屋が連なっていました。作りつけのオレンジ色のプラスティックのテーブルがいくつもあり、生活感にあふれる格好をしたおじさんやおばさんが麺やチャーハンを食べています。
「…ここで?」
半屋は頷きましたが、八樹はできることなら別なところに行きたいと思いました。非常に衛生に気を配る国なので、安全だということはわかっているのですが、この生々しい生活感がなんとなくいやでした。
これまた作りつけのの白いプラスティックのイスに座るのもいやで、呆然と立ちつくしていると、半屋が飲み物を買って戻ってきました。
仕方がないのでイスに座ります。覚悟を決めるしかなさそうです。
「やる」
半屋が差し出した飲み物は、黄色い中に黄色いつぶつぶがふよふよと浮いている見たことのない飲み物でした。
(―――勘弁してくれよ…)
日本でだって生活感があったり、小汚かったりする場所は苦手なのです。
半屋は無言でその飲み物を飲んでいます。せっかく半屋が買ってくれた物です。いくら飲みたくなくても飲むしかありません。
(―――っすっぱい)
そのジュースはかなり酸っぱいものでした。しかし、一度飲み出すと止めることができませんでした。体がそれを要求しているのです。
結局一気に飲み干してしまい、八樹は自分が暑さに負けて疲れていたのだということに気づかされました。
「つまんねーんだよ」
ジュースを飲み終わり、人心地ついたとき、半屋がぼそりと言いました。
「なにが? この旅行が?!」
「…ちがう」
半屋は口べたで語彙が多くありません。だから八樹はいつも丁寧に話を聞きます。半屋が何か話してくれる、なんてことは滅多にないので、どんな話だろうと宝物をもらったように嬉しくなってきます。
半屋の言おうとしていることはとても微妙なことで、八樹は何回も意味を取り違えてしまいました。
半屋の言葉を一つ一つすくい上げて考えてみると、人工的な観光地はつまらないから行きたくない、ということのようです。
「昨日、つまらなかった?」
「…んなんじゃねぇ」
でもそれは八樹も何となく感じていたことでした。
今まで見たところはどこもかしこもまるでディズニーランドのように綺麗でした。ゴミは一つも落ちておらず、すべての場所が客を楽しませるということに手抜きをしていません。楽しいのです。楽しいのですが―――二人で来ている意味があまりないような楽しさなのです。
考えてみれば、今、どうでもいいようなこの場所にいるほうが、半屋と二人でいるという実感があります。もちろん半屋はそんなことを言ったりはしませんでしたが。
そう思ったせいなのか、半屋からもらったジュースで気持ちがさっぱりしたせいなのか、いままでのいらついた気持ちがいつの間にか消えていました。
もしかするとちゃんとした観光をしなくてはダメだという義務感にとらわれていたのかもしれません。
半屋と二人で小汚い食べ物屋を回って、頼む物を決めました。小さな食べ物屋はそれぞれ専門店になっていて、頼むと外のテーブルまで持ってきてくれるというシステムになっているようです。メニューは漢字と英語で書かれているのでまったくわからないわけではないのですが、イメージはつかめません。
八樹は焼鴨飯と書かれたものとさっきのジュースを頼み、半屋はナシゴレンのセットを頼みました。さっきのジュースは酸柑汁というもので、お店の人がその場で絞ってくれるので滓が入っていただけだ、ということがわかりました。
(しかもこのジュースが一番高いし…)
半屋は八樹が疲れているのに気づいて、わざわざ酸柑汁を買ってくれたらしいのです。本当に自分もまだまだだな、と八樹は深く反省しました。
どうやらふっきれてしまったらしく、八樹は水を得た魚のように生き生きとしだしました。
「これおいしいよ。食べたら? あ、半屋君のはおいしい?」
とてもさっきまで嫌がっていた人間には見えません。
ご飯に合う北京ダックといった味の焼鴨飯と半屋が食べていたナシゴレンを交換したりしているうちに、八樹はすっかり元のペースをとりもどしてきました。
「スーパーに行ってみない?」
「はぁ?」
「せっかく住宅街に来てるんだからスーパー見てみようよ」
オーチャードロード近辺(ホテルのそば)にはスーパーが三軒あるのですが、それらは伊勢丹と高島屋とそごうの中にあるのです。場所柄日本製品ばかりで、この国で本当に使われている物などまるでわからないスーパーでした。
さっきまでとは違い、八樹の方が先に歩き出します。
「あ、見て。洗濯物の乾し方が違う」
とか
「近くで見てみると全部の部屋に格子がついてるんだねー」
などとどうでもいいようなことを話しながらスーパーのありそうなところを適当に見当をつけて歩き回りました。
見当違いで色々間違えた場所に行ったりしながらも、どうにかスーパーを見つけました。
見たことのない毒々しい果物や、よくわからないおかしなどがいっぱい売られています。ところどころに日本製品もあるのですが、どれも現地の人が本当に買っているものばかりなのでしょう。
「ヤクルトってえらいんだね」
「あ?」
「ほら、ヤクルト。どのスーパーでもかなり面積取ってるんだよ」
そんな風にゆっくりと歩いていたら、あっという間に時間が過ぎていきました。
八樹が高速道路を越えたあたりに海があるはずだ、というので歩いていくことにしました。ところが歩いても歩いてもつきません。
「なかなかつかないね。地図だとすぐに見えたのに」
でももう八樹は目的地を目指して焦ったりすることはありませんでした。誰も歩いていない道を二人でゆっくりと歩きます。外は蒸し暑く、旅行者じゃなければ歩いたりしない気温でしたが、それでもゆっくりと歩きました。
せっかくの砂浜だというのに、海にも人はいませんでした。乳白色の砂が混じった海は透明度が無く、濁ったパステルグリーンでした。沖には大きなタンカーが何隻も泊まっています。
なにかたまらない気持ちになって、八樹は半屋を抱きしめました。
「…にしてんだよ。離せ」
「やだ」
八樹は抱きしめる腕にさらに力を込めました。
「痛ぇ」
「痛くなければいい?」
「離せっつてんだ、バカ」
口ではそう言っても半屋は動かずにいてくれました。
ここにこうやって二人でいることが嬉しくて、半屋にすがりくように力を込めても、もう抗議の声はありませんでした。
どれだけそうしていたでしょうか。しばらくして、半屋が身じろいで八樹のあごにかるく口づけをしてきたので、八樹はようやく気づいて半屋の体を放しました。
半屋はかなり痛そうな様子でしたが何も言わず、砂浜に腰をかけてタバコを吸い始めました。
空の色が変わり始めるまで、見捨てられたように人のこない海岸で過ごしました。
そうやって四日目がすぎていきました。
シンガポールの名誉回復をして置かなくては(笑) 楽しいですよー! 人工的なものを楽しめる人間なら! 英知を尽くした観光地がたくさん!居心地もいいしね! でも二回目ぐらいの時に飽きちゃって(笑) いや、友達もいないところに一ヶ月もいたので。仕方がないのでウインドサーフィンを習いに行きました。そのとき見つけたごく普通の町が今回のベースなのです。 ちなみにヤクルトは「益多」と書きまして、そのネーミングが中国人に受けるらしく(縁起がいいからね)本当に至るところで売っています。
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