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半屋と会わなくなって十日以上がすぎた。なにも変わりなく日々はすぎていく。周囲に合わせて曖昧に笑って流されてゆけば、なにも考えることなく時間は過ぎてゆく。 (なんだ大したことないじゃないか……) なにか取り返しのつかない失敗をした。失敗を取り返そうにも半屋との連絡手段は断たれている。それに会ったとしてもただ拒絶されるだけだ。 そうして八樹はあきらめたのだった。あきらめるのは思ったより簡単で、もう半屋と会いたいと思うこともない。 ただ、自分の歩く一歩一歩に現実感がなく、話している自分、笑っている自分がひどく遠いものに感じる。動いている自分と別なところに自分がいて、すべてのことに目を閉ざしているような、そういう感覚がずっとつきまとっていた。 「八樹おまえ、高校、明稜だったよな?」 そんなある日、用具の準備をしているとき、部の仲間がそんなことを話しかけてきた。 「そうだけど」 「八樹テメーなんで昨日の合コンこなかったんだよ。レベル高かったぜー。年上ばっかだったけどさぁ」 昨日、剣道部一年とどこかの女子大とで合コンがあったらしい。八樹のいる大学は名前が売れているから、合コンの話がよく持ち込まれる。結局あのあとすぐあの女と分かれた八樹にも近頃声がかかるようになった。 「で、その合コンで明稜出身の女がいたんだけどさ、明稜ってアレなんだって? 明稜帝とかいうのがいるんだって?」 どうも昨日の合コンではその話題で盛り上がったらしく、部員たちは次々に八樹に話しかけてくる。 「ああ、いたよ」 明稜高校。明稜帝。四天王。なにもかもが今は遠い。 「すげーよなー。明稜帝だもんなー。それで、その下に四天王とか言うのがいて学科を仕切ってるとか言ってたぜ? すげー学校なんだな」 「すっげー美人で、整列してお出迎えしてたんだとか言ってたけどそうなのか?」 「おまえの科って四天王とかっていうの、いたわけ?」 どう答えていいのか、距離感がつかめない。たとえばここで自分がその四天王の一人だったといってみれば何かが変わるのだろうか。 「うん、まぁいたよ」 「怖かったんだろ? 体育科仕切ってるんだもんなぁ」 「そうだね、まぁ怖かったかな」 結局、八樹は人に要求されるとおりの話をする方を選んだ。四天王だの明稜帝だのの話を一般生徒の立場からおもしろおかしく話す。今自分に要求されている役割はそれだけで、あえて自分をさらけ出す必要などまったくない。 これを楽しいと感じなくてはならないのだ。今の自分にはこれしかない。そうは思うのだが、自分が分離したような感覚はいつまでもなくならなかった。 (あれは……) その翌日、大学の帰りの駅で見慣れた後ろ姿を見かけた。混雑するターミナル駅の中にあっても独特の髪型と姿勢の良さで周囲から際だって見える。梧桐だった。 八樹の大学と梧桐の大学は離れてはいるが、乗り換える駅は同じだ。住んでいる場所もそれほど離れていない。だから偶然会ったとしてもおかしくはないのだが、町中で梧桐に偶然会うというのははじめてで、八樹は戸惑った。 (あ……) 八樹がどうしたらよいかわからないでいるうちに梧桐は遠ざかってゆく。八樹に気づく様子はない。 (声、かけないと……) いろいろあったが梧桐とは中学来の友人のはずだ。高校時代は親しくつきあっていたといってもいい。しかし、体がすくんで動かない。以前、半屋の仕事先を訊きに行ったときは感じなかったが、ひどい威圧感を感じる。 (だめだ……!) 悩んでいるうちに消えてくれればいい。見なかったことにしてしまえばいい。一瞬でもそう感じてしまった自分が嫌だった。高校の頃はこんなことはなかった。気軽に声をかけられた。 おかしい。なにがいけないのだろう。突然会ったからか。それとも。 「梧桐君!」 迷いを振り切るように出した声は、不自然に大きくなった。 ずいぶんと離れてしまった梧桐が、その声にゆっくりと振り向く。 「久しぶりだね。今帰り?」 なれなれしい言葉が上滑りしているような気がする。まるで舞台の上に立っているかのようだ。 こういうとき、普通の友人ならどう話を続けるべきなのだろう。まったく分からない。 梧桐は返事をするわけでもなく、そんな八樹をただ見ていた。 「梧桐君もう晩ご飯食べた? 近くに安くて量の多い店があるんだけど、行かないかい?」 持っている知識を総動員して、ようやく『久しぶりにあった仲の良い友人』らしい会話を見つけた。多分相当不自然なしゃべり方になってしまったはずだが、梧桐はそんな八樹の態度に不審な顔も見せず、 「よかろう」 とだけ言った。 店へ向かう道では、店のことを話した。料理が出てくるまでは料理のことを話した。料理が出てきてからは、ひたすら食べてなにも話さなかった。 久しぶりに会う梧桐の威圧感は圧倒的で、のどが渇いて仕方がない。 (こんな感じ、昔も感じてたな……) 自分がまだ強くなかった頃。梧桐に会うたびに威圧感を感じ、梧桐と会うのも話すのも嫌でたまらなかった。 そういえばあの威圧感は、梧桐を倒すと決めてから感じなくなったような気がする。 「もう食わんのか」 梧桐は大食いだ。まだ次々と料理は運ばれてきていて、体育会所属の八樹でもさすがにこれ以上は食べられない。 「梧桐君、相変わらずだね……」 自分の口からその言葉が出てきたことに安心する。梧桐の行動を相変わらずと感じることが出来る。まだ、呑まれてしまっているわけではない。 「ねぇ梧桐君。君は明稜帝じゃなくなってから、何か変わった?」 「オレはオレだ。変わるはずがなかろう」 「そうだろうね」 答えは予想通りだった。梧桐は絶対に変わらない。いつでも圧倒的に強く、自分に自信を持ち続けている。 なぜ自分は駄目なのだろう。高校時代は確かに梧桐に近づけたような気がしていたのに。 梧桐だったら何か知っているのだろうか。いつでも全てを知っているように振る舞っていた梧桐ならば答えを知っているかもしれない。しかし、八樹は梧桐に直接梧桐に答えを求める気にはなれなかった。そこまで割り切れてはいない。 「そういえば半屋君にね、『お前が駄目なのはオレには関係ない』って言われちゃったよ」 八樹には自嘲気味にそう切り出すことが精一杯だった。 「そうであろう。あのサルには関係ない」 梧桐は八樹の意図が分かったのかわからなかったのか、ちゃかすこともせず普通に答えた。 しかし八樹にはその梧桐の言葉が少し引っかかった。半屋が言った言葉と表面上は同じなのだが、意味が異なるような気がする。 「半屋君には関係ない?」 梧桐は鷹揚にうなづいた。 「もしかして、何かあるってこと? 何か原因があるってことなのかい? ―――梧桐君は知ってるの?」 「高校の頃の自分を良く思いだしてみることだな。貴様はそこまでまぬけではなかった」 「うん。それは分かるんだけど……」 高校時代の方が良かった。自分は自分に自信を持っていた。こんな足場のない不安定さを感じたことはなく、誰にでも―――圧倒的な威圧感を持つ梧桐に対してさえも臆することはなかった。あれはなぜだったのだろう。もしかすると自分は逃げ込むことに必死で、原因をあまり考えていなかったのではないか。 (……あっ……) 半屋もそれを言おうとしていたのかもしれない。半屋は会話が苦手だから―――いや、棘のある言葉でしか他人と話したことがないから、ああいう言い方になっただけだったのだろう。 八樹は自分の感情に振り回されて、ようやく会話をしようとしてくれた半屋を無視してしまったのだ。 「八樹」 気がつくと、追加に追加を重ねた食事も平らげた梧桐が八樹を見ている。 「あの状況で声をかけてきたのは、きさまが初めてだ」 梧桐にしては小さな声だった。 (あの状況?) 「梧桐君、もしかして気づいてた?」 「オレに分からんことはない」 顔が赤らむのを感じる。梧桐に声をかけれなくて迷っていたとき、梧桐はそれに気づいていたらしい。 あの時、梧桐は普段通りの早さで歩いていた。全ては八樹の判断にかかっていたのだ。 (もしかして……) もしかすると、梧桐はそうやって友人を失ってきたのかもしれない。 梧桐のような威圧感を持つ強い人間と対等な友人で居続けることはとても難しい。同じ学校であるという枠の中にいればともかく、それを失ってしまうと気持ちが負けてしまうのだ。 現に八樹の知っている『中学時代の梧桐の友人』達は梧桐とそのまま友人でいることが出来なかった。 八樹は梧桐のことをそういう風に考えるのは初めてだった。 梧桐が駅で降りるとき、八樹は少しムリをして 「じゃあ、またね」 と言ってみた。まだ気持ちが負けているのか、高校時代のように自然に言葉は出てこない。でもムリをしてでも言ってみようと思った。 今まで抱えていたものが少しずつ形を取り始めているのを感じる。 (やっぱり半屋君に会いたいなぁ……) 呼吸をするように自然にそう思った。明稜だの四天王だのそういう話を抜きにしても半屋に会いたい。 ごちゃごちゃしてまだ形になっていない思考をそのままさらけ出せるのは、半屋に対してだけなのだ。 なぜだかは自分でも明確にはわからない。半屋に勝ったことがあるせいかもしれないし、半屋とは友人でないからかもしれない。友人に対してはどうしても構えてしまう。 多分八樹を正しく理解しているのであろう梧桐には、そんなみっともないところを見せたくはないし、そういうつきあいでいいのだと思えた。 会わなければ自分が駄目になってしまうかのような飢餓感はもう薄れていた。そうではなくて、自分で自分の考えを知りたいから、そして自分で自分の道を選びたいからこそ半屋に会いたい。そう思った。 |