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半屋は雑踏の中に置き忘れられたような階段に座ってタバコを吸っていた。新しい修業先にはもともと挨拶に行くだけの予定だったし、長居をしたいような場所でもなかった。彼らから向けられた嫌悪と反発と畏怖と好奇が入り交じった目は幼い頃から慣れ親しんだもので、いまさらどうということもない。それよりも、もう会うこともないだろう八樹のことが妙に引っかかっていた。 八樹は馬鹿だ。梧桐も馬鹿だとは思うが、あれとはまた質の違った馬鹿だ。 梧桐は自分の行動をわかっている上で馬鹿をやるので大馬鹿だが、八樹の場合は、自分がなにを考えているのかわかっていないまま行動するので本物の馬鹿だ。それなのに自分をよく見せる方法にたけているから始末におえない。 半屋は深く煙を吸い込んで、ビルの間からのぞく小さな空を眺めていた。五月の気持ち悪いほど晴れた空だった。 なにも気を使わないで話した言葉がそのまま通じるのは、姉と、認めたくはないが梧桐だけだ。そのほかの人間には通じない。別にだからといってどうということもないのだが。 ただ、話が通じないのに理解しようとした人間が今まで二人いた。半屋がどんなひどい言葉を投げつけても、笑って受け流して、自分の話を続ける人間が二人だけいた。 『半屋さんみたいな生き方にあこがれてたんです』 今でも思い出すあの銀色の髪。……そして八樹。 あの後輩と八樹とは違う。八樹は勝ったことがあると思っているせいで、半屋を馬鹿にしているから、投げつける言葉が効かないだけだ。その上自分勝手な男だから、こっちの都合も考えずにべらべらとしゃべれるのだ。きっとそうだ。 それでも、そんな人間はいままでたった二人だけだった。 雑踏を見下ろす階段に腰をかけたまま、半屋はまだ吸い終わってないタバコを捨て、新しいタバコを口にした。タバコはそれほど好きではない。ただニコチンによって覚醒したり、切れると欲しくなるというその単純さが嫌いではなかった。 彼を気にするもののいない雑踏を眺めながら、半屋はまた八樹のことを考える。ただ、そのことに彼自身気づいてはいなかった。 卒業してから初めて梧桐に呼び出されたとき、半屋は何となくそこに八樹がいるだろうと思っていた。しかし、いたのは大学で作った下僕だとかいう見たことがない人間たちだけで、八樹の姿はなかった。 芸能活動を始めつつある御幸や、父親を説得して福祉関係の大学に入ったという嘉神がいないのはわかるのだが、別にこれといったことをしていない八樹はいるだろうと、何となく思っていたのだ。八樹は梧桐に呼び出されたらなにをおいても来るだろう。それは半屋も知っていることだった。 しかし、だからといって梧桐になぜ八樹がいないのかを聞く気にはならなかった。仲間だなんだというのは梧桐が勝手に言っていただけの話で、半屋には関係ない。 だいたい梧桐からの呼び出しで、八樹や嘉神や御幸のことを思いだしたこと自体、自分が弱くなったようで嫌だった。 数日前、また梧桐に呼び出されると、いつのまにかできていた大学内の梧桐の部屋の中に受験生のはずの青木がいて、当たり前のように梧桐の仕事を手伝っていた。梧桐が無理矢理呼び出したのかと思えばそうではなく、自分から来たのだという。 その上、青木は梧桐の大学を受験する予定らしい。しかも。 「クリフさんもそろそろ卒業できるらしいです」 いつも梧桐に殴られていた金持ちの外人も、飛び級をして梧桐のところに帰ってくるのだという。 それを聞いて八樹のことを思い出した。近頃八樹は頻繁に半屋の仕事場に現れるようになっていた。 はじめは青木やローヤーとかいう外人も八樹と同じように「梧桐の作った明稜高校」にとらわれているのかと思ったが、見ているとどうも違うようだ。目の前の青木には八樹のような過去にすがりつく弱さが感じられない。 きびきびと仕事をこなす青木を見ているうちに半屋には八樹に足りないものがなんなのか、ようやくわかった。そして、梧桐が八樹を呼びださない理由も。 つまり八樹は高校の途中からすでにダメだったのだ。しかし梧桐の作った明稜という特殊な世界の中にいたせいで、ダメだということに気づいていなかった。 梧桐の作った偽りの『仲間』の中にいて、四天王だ何だとおだてられて。自分のことがわからない馬鹿はすでに自分がダメになっていることに気づいていなかったのだ。 だから八樹は自分のところに来たのだろう、と半屋は思った。 『俺のことを分かってくれるのは半屋君だけなのに』 八樹はよくわからないことを言っていたが、そんなことではなく、梧桐の作り出した明稜の残滓を求めているならば、他の人間では駄目だというだけの話だ。 梧桐がいて、梧桐が『仲間』として扱ったからこそ半屋と八樹は『仲間』だった。梧桐がいなければ話すこともなかっただろう。 だから半屋と会って話すだけで、八樹は梧桐の作りだした空間を感じ取ることができるのだ。梧桐がいなくても仲間になることができただろう他の人間や、ましてや八樹を呼び出さなくなった梧桐では駄目なのだ。 (ホントの大馬鹿野郎だな) 梧桐の作った明稜の幻想を見続けていれば、八樹は自分がダメだということを直視せずにすむ。 梧桐はきっと初めから気づいていた。だから切り離したのだろう。 八樹がダメな理由。それは八樹自身が気づかなくてはならない性質のものだ。しかし、このまま梧桐の明稜に捕らわれたままなら決して気づかない。 拒絶するのなんて簡単なことだ。それにあの男はプライドが高いから、拒絶したら二度と来ないはずだ。 高校時代、仲が良かったわけではない。それどころか元々は敵だった。そんな男がたびたび訪れてくるのをそのままにしておいたことの方が間違いなのだ。 そう思い八樹を拒絶したのだが、八樹は激しくごねた。半屋がいなくなれば幻影を見るのが難しくなる。だからだろう、必死にすがりついてきた。 半屋はどうしたらよいのか分からず、とにかく傷つける言葉を探し、どうせ自分からは会いにいけないのだろう梧桐の名を出しもして、振り切っても振り切っても、八樹はひかなかった。一番の弱みをえぐり出し、本気で怒らせたというのに、ひこうとしなかった。 結局。 『半屋君、逃げるつもりなんだ?』 確かに半屋は逃げたのだが、最良の道があったからそれを選択しただけだ。勝負ではないのだから、逃げる逃げないは関係ない。しかし、そんな馬鹿にしたような言葉を言いながらも、八樹が必死なのは何となく分かった。 『今の生活を捨てたら、半屋君は会ってくれるの?』 あいかわらずの大馬鹿だ、と半屋は思う。なにも考えてないから、こんなくだらないセリフが吐けるのだ。 それでも。 もう二度と会うことはないのだから、せめて最後に八樹がダメなのには理由があることを教えてやろうと、ふと思った。 内容は本人が気がつかなければしょうがないが、明確な理由があるのだ、ということだけは教えてやった方がいいかもしれない。それぐらいしてやったとしてもおかしくはないだろう。ふと、そういう気持ちになったのだった。 『てめぇがダメなのは、オレには関係ねぇ』 その後、話を続けようと思っていたのだが。 『冷たいね』 八樹はそう返してきた。 自分の話し方が悪かったのだ、ということには気づいたが、訂正するような気にはなれなかった。半屋の話は通じない。そういうことだ。 無駄な親切心なんて出すものじゃない。半屋は軽く笑って電話を切った。受話器から八樹の声が聞こえたが、そんなことはどうでもよかった。 たぶんもう八樹と会うことはないだろう。何かの機会に会うことがあっても、きっと話すこともない。別にそれでかまわない。 気がつくと、手にしていたタバコはほとんど口を付けないまま、長い灰と化していた。 (行くか) タバコを踏みつぶしながら立ち上がる。行くあてなどないが、いつまでもここにいても仕方がない。 半屋は軽く体を伸ばしてから歩き出した。それきり八樹のことを考えることはなかった。 |