| 朝が来た。 この日は一限から必修の第二外国語が入っていたが、八樹はそれに出ないことにした。いくらさぼるのが仕事ともいえる大学生とはいえ、必修の授業には出なくてはならない。しかも二外は少人数授業で、その出席管理は高校より厳しいくらいだ。 それでも八樹は大学に行く気分になれなかった。 ベッドの上で片膝を抱えるように座ったまま、昨日の半屋の言葉を思い出す。半屋は覚悟を決めろと言っていた。しかし、元々決めなくてはならない覚悟など無いのだ。ただ流されるように今の状況になってしまっただけで。 今の状況を捨てたら半屋が会ってくれるというのなら、捨てたって全然かまわない。優等生の自分にはもうなんの未練もないはずなのに、気がつくと優等生を演じている。人に望まれるままに流されて、抜け出す方法が分からない。 このまま半屋に会わなくなって、確かにあったはずの自分が見えなくなって、そのまま流されて行くしかないのだろうか。 どうして自分だけが変わってしまったのだろう。 例えば他の四天王達。例えば明稜帝だった梧桐。その称号をなくしても、彼らは変わらない。ただ八樹だけが変わった。 称号だけだったら、今でも持ってはいるのだ。インターハイ優勝者という、誰にでも通用する称号を持ってはいる。 大学の剣道部の部員も社会的地位の高い者が多い剣道部のOB達も、久しぶりに入った有望な新人を手放しで賛美している。 それなのに何かが足りない。 自分が自分である、という確かな感覚がない。 思考は同じところを回るばかりだし、自分のことを考えるのは苦手だ。こんなことを考えているぐらいなら、半屋の顔を見に行きたい。そうすれば、高校の時に感じていたあの感覚が戻ってくる。なら考えているより会いに行った方がいい。 ずいぶん前から半屋に対する感覚は麻痺していて、彼には迷惑をかけても大丈夫だ、と思っているような気がする。 それはもしかすると半屋のいうとおり、彼に勝ったことがあるせいなのかもしれないが、八樹自身よくわからない。よくわかりはしないのだが、迷惑をかけても大丈夫だなんて思うことのできる人間はいまのところ半屋しかいないような気もする。 両親は八樹が顔を殴られたときも、塾の講習だと偽りたびたび金を請求しても、なにも気がつかなかった。友人といえる人間もいないわけではないが、彼らに迷惑をかけるようなつきあい方はしたくない。 それなのに半屋には迷惑をかけてばかりいる。 「いい加減潮時なのかもしれないな」 誰もいない部屋の中でつぶやいた。口に出してみないと決心がつかないような気がしたのだ。 自分で言ったその言葉は妙に正しかったが、感情はそれを否定しようとする。迷惑ばかりかけているのだから、しかも友人でもないのだから、いい加減こんなことはやめなくてはいけない。来るなと言われたのだから、行ってはいけない。わかってはいるのだけど、今、この瞬間でも半屋に会っていたかった。 半屋の良さというのはひどくわかりにくく、彼に勝ったことがある人間ぐらいじゃないとわからないかもしれない、と思う。 人付き合いを拒否するかのような半屋の言動は、いつも攻撃的だ。触れたら切れそうな外見と攻撃的な言動に隠されて、半屋工という人間は見えにくくなっている。見えたとしても、そこにいるのは厭世的でひねくれた人間だ。別に話が面白いわけでもない。 それでも彼には彼にしかない良さがある。人の外見に惑わされず人の本質を見る目と揺るぎない強さ。それは梧桐の持つものとよく似ているが、どこか違う。 わかるのは自分を含め少人数しかいないのだから、自分は半屋に会いに行ってもいいはずだ。そういう気もする。 今からいけば10時の休みに間に合う。八樹は「来るな」と言われていることも、必修の授業のことも忘れることにして、半屋の修業先に向かった。 ところがいつもいる路地に半屋はいなかった。半屋がいてもいなくても路地は同じように静かだっが、少し胸がざわついた。なんだか嫌な予感がする。 「八樹っていうのはにーちゃんのことだろ?」 そういった後、半屋の先輩である人の良さそうな大工は口ごもった。 「俺には教えるな、って半屋君が言ったんですね」 「いや、そういうわけじゃ」 児島というその半屋の先輩はそれ以上言わなかったが、たぶん半屋がそう言ったのだろうということは容易に想像がついた。 八樹が半屋の修業先に行くと、休み時間なのにいつもの場所に半屋がいなかった。すでになじみになっている児島に事情を聞くと、半屋はもともとこの仕事場では、仕事の雰囲気や実際の修行の元となる基礎を教わっていただけだったそうだ。 昨日の夕方、半屋の実際の修業先の頭領がやってきて、これならいつでも来ていい、との許可を出したのだという。 「それはよかったですよね」 そのことについてはなにも思わなかったが、一応社交辞令として言った八樹に、児島は「にーちゃんはいい友達だよなぁ」と言いながら少し困ったような顔をした。そして、八樹が半屋の新しい修業先を尋ねると、児島は困ったような表情のまま、「八樹っていうのはにーちゃんのことだろ?」と言ったのだった。 「そうですか……」 なにを考えたらいいのかがわからない。それでも口は勝手に動くし、顔はそれなりの表情を作ってくれる。気がついたら「いろいろご迷惑をおかけしてすみませんでした」とお辞儀をして、その場所を去ろうとしているところだった。 「お茶でも入れるから、飲んで行ってよ」 すぐに帰りたかったのだが、児島は八樹を引き留めた。さすがに無下に断るわけにもいかない。本当は逃げ出してしまいたかったが。 児島は奥の方でお湯を沸かし始めた。他の大工たちは固まって雑談をしている。八樹は居心地が悪くて仕方がなかった。 「八樹くん、ちょっと」 突然、お茶を入れているとばかり思っていた児島が電話の子機を持って現れた。 「電話、半屋からだから」 ああ、だから児島は自分を引き留めたのだろうな、と考える。頭がうまく回らず、電話にでたくなかった。 「八樹くん、いいのか?」 「いえ、出ます」 保留を解除して子機を受け取る。しばらくなにも話すことができないでいると 『児島さん?』 と、いぶかしげな半屋の声が受話器から流れてきた。 「半屋君、今どこにいるの?」 『……八樹か』 受話器越しに聞いても、半屋の声は冷たかった。 「ねぇ半屋君、どこにいるのか教えてよ」 半屋はなにも言わない。 「半屋君、逃げるつもりなんだ?」 負けず嫌いな彼を刺激するような言葉を選ぶ。ひどくみっともないことをしているような気がした。 『もうくるな、と言った』 「だから逃げてないって? それはおかしいよ」 考えるよりも先に言葉が出る。こんな風に追いつめるような話し方がしたいわけではないのに止まらなかった。他の人間に対してだったら、きっと別な話し方ができるはずなのに。 「たとえば俺が今の生活を捨てたら、半屋君は会ってくれるの?」 『馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ』 「だって俺が半端だって言ったのは君だろ? それだったら大学の方を捨てる。そうしたら半屋君は会ってくれるの?」 『くだらねぇ』 「そうかな?」 『ンなことしたって何にもなんねぇよ』 「そうかもね」 確かにそんなことをしても何の発展もなさそうだが、今よりはマシだという気がした。 「でも半屋君に会いたいよ。じゃないと駄目になりそうな気がするんだ。半屋君だって分かってるんだろ……!」 電話では遠くて半屋が何を考えているのかが分からない。それでもここで手放してしまったら終わりなのは分かっているから、なりふり構っていられなかった。 『……てめぇがダメなのは、オレには関係ねぇ』 しばらくして、感情の読めない静かな声で半屋が言った。 「冷たいね」 八樹がそう言うと、妙な間が空いた。いつもの無言とは違う妙な間の後、自嘲するようなかすかな笑い声が聞こえた。 取り返しのつかない失敗をしてしまった気がする。なんだかはわからないけれど、うるさいぐらいに自分の血液の流れる音が聞こえた。 「半屋く……」 『じゃあ、な』 八樹がなにかを言い終わる前に電話は切れ、受話器から空しい音だけが聞こえ続けた。 |