ルミナス1
ルミナス3





  「八樹くん、何か大変なことに巻き込まれてるんじゃないの?」
 女が心配そうに八樹を見上げる。
 八樹は半屋に渡すはずだった紅茶の缶をぼんやりと眺めていた。
「八樹くん?」
「ああ、別にそんなことはないよ」
 半屋が飲むはずだった紅茶。しばらく眺めてから、思い切ってプルタブを引き上げた。
 なぜだか普通に飲むことはできなくて、一口ずつ飲み下す。無糖の紅茶を飲みなれていないせいか、ひどく胸につかえて飲みにくかった。
「八樹くん、なんだかおかしいよ。あの人、八樹くんになんか変なこと言ってきてるんじゃないの?」
「半屋君はいい人だよ」
「でも、なんか怖いわ……。八樹くんの高校って、ああいう人もいたのね。私、入れ墨をした人なんかと話したの初めてだわ」
 育ちの良い女は、それでも嫌悪感で顔を歪めることはなかった。
 しかし八樹には女の話すことがいちいち腹立たしく感じる。こんな女だっただろうか。
「半屋君はいい人だよ」
 安心させるような笑顔を作って、優しい声で繰り返す。これだけで、誰も八樹のいらだちに気がつかなくなる。高校の頃の一部の知り合いを除いて。
「そうなの……? そうね、八樹くんは優しいから、ああいう人でも、見捨てないでつきあってあげれるのよね」
 この女は一体何を言っているのだろう、と思いながら八樹は笑顔を崩さずに考える。つまり自分は読み間違えたというわけだ。
 この世界で『普通』であるためには、半屋をほめてはいけなかった。ああいうタイプの人間は別の世界の人間。お情けでつきあってあげたり、『大変なことにまきこまれて』いたりするのはかまわないが、友人であってはいけない。それがこの世界で普通である、ということだ。
(馬鹿馬鹿しい)
 八樹は、目の前で安心しきっている女にほとほと愛想が尽きていたし、自分の手が汚れないなら殺してもいいぐらいだったが、そのことに女は全く気づいていない。
 ただ八樹が作り物の笑顔を浮かべているだけで、誰もが簡単に安心する。
(本当に馬鹿馬鹿しい)


 女のそれなりに洗練された話に適切な返事を返しながら、八樹は半屋のことを考えていた。さっき彼が言った『ダチじゃねぇ』は多分、この女がそれで安心することをわかった上での言葉だったのだろう。
 半屋は人付き合いが苦手で不器用だ。でも、人を拒絶するときだけ、彼は優しい。八樹を拒絶するのも、さっきの言葉も、彼の優しさだと気づいてしまったから、ひどく胸が苦しかった。

 体育会の施設の集まる道の前で女と別れた。結局、女は最後まで八樹のことに気づかないままだった。

 そのまま剣道部の道場に向かう気にはなれず、八樹は人の少ないグラウンドの観客席に腰を下ろした。湿気を含んだ風が、重苦しく身体にあたる。もう夏が近かった。
 捨てられなかった空き缶をもてあそびながら、自分のこの違和感は、もしかするといわゆる五月病なのだろうか、と自嘲まじりに考える。
(薬を飲んで簡単に直ったりしたら、おかしいよね)
 たぶんそんなことは絶対にない。

 半屋に指摘されるまでもなく、自分が不安定な状態にあることは薄々気がついていた。 高校と大学で何が違うのか、明確には分からない。ただ、立つ足場がなくなってしまったような気がする。
 半屋と会っているときだけその喪失感を忘れることができる。
 だからひどく会いたい。今だって。何も話さなくていいから、ただ会っていたい。
 このままの生活を続けながら、逃げるように半屋と会い続けていたら、いつかこの演技ばかりの大学生活に耐えきれなくなるのは分かっている。現に、半屋に会いに行く頻度が上がってきている。
 それに、半屋に会ったからといって何が変わるわけでもない。ただ、一時的に解放された気分になれるだけ。それでも会いたかった。

 気がつくとグラウンドでは競争部の練習が始まっていた。八樹も道場に行かなくてはならない時間だ。
 何も考えがまとまらないままでも、練習で疲れ果てて寝てしまえば明日がやってくる。明日になったら、きっとまた自分は半屋に会いに行くだろう。
(明日が最後かもしれない)
 このままではもう会ってもらえないかもしれない。
 これ以上何も考えたくなくなって、八樹は道場に向かった。



 予定していたところまで行きませんでした。
でも、あまりに間隔があいているのでとりあえずアップ。

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