生徒会室には行ってみたものの、さらにわからないことが増えただけだ。結局、『その人』の手がかりさえつかめない。身勝手だとも思うのだが、ただ会いたくて仕方がない。その人のことを忘れてしまったのは自分なのに、それでも会いたくて―――この状況から救い出して欲しかった。
「八樹君」
学校からの帰り道の雑踏の中呼び止められた。そこにいたのは今まで見たことのない人で、また一から説明し直しかと思うと八樹は少しうんざりした。
「どう? 元気?」
気安く話しかけてきたその人は、透けるような肌を持つ、とても美しい女性で、もしかしたら、という気になる。
(誰かに似てる……?)
でも誰だか思い出せない。それももしかしたら、という可能性を呼び起こすものだった。
「ちょっとお茶でも飲んでかない?」
「あの、でも俺……」
「知ってるよ。記憶喪失なんだろ。別に構いはしない」
少しはすっぱな話し方をするその人は八樹を無理矢理喫茶店に引きずっていった。
「すみません。お名前は?」
「マキ」
「まきさんですか」
いきなり名前だということはもしかするとかなり親しい間柄なんじゃないだろうか。まぁそういう名字の先生も八樹の高校にはいるわけだから、名前だとは限らないが。
喫茶店に入って一緒にコーヒーを飲んでも何も会話が出てこない。八樹はマキという女性のことを知らないのだから当然だ。しかしいたわるわけでも面白がっているわけでもないマキの態度は、逆に自分との距離の近さを感じさせた。
「で、元気なの?」
「一応は」
とりあえず身体は元気だ。
「ふーん」
そういいながらマキはタバコに火をつけた。
(あ……)
この香りはあの香りと同じだ。
「まきさんは…もしかすると俺の恋人ですか?」
八樹は気がつくとそう尋ねていた。言ったとたん、自分がかなり間抜けなことを言ったことに気づいた。
「なんでそう思うの?」
しかしマキはその間抜けさに気づいた様子はない。本当にこの人は自分の恋人なのかもしれない。
「タバコの香りが同じだ」
それにこういう場合、『なんでそう思うの』という聞き方は妙だ。八樹はますます確信を強めた。しかし、それにしてはこの目の前の人に対して思っていたほどの焦燥感が湧かない。
「マイルドセブンだよ。誰でも吸ってる」
「違う。いままで誰が吸っているのを見ても何も思わなかった。本当にまきさんじゃ無いんですか?」
「知らないよ、そんなことは」
どっちとも取れる答え。
絶対にこの人は『友人』ではない。自分への接し方でそれはわかる。だから押さえていたものが止まらなかった。
「俺には誰か…誰かいたはずなんです。その人がいてくれるだけで、それだけで良かったはずなんだ……」
「なんでそう思うわけ?」
マキは何かを試すかのように八樹をじっと見据えている。
「なんでって……。わかるんです。その人が俺の側にいた。そんなことは当たり前のように感じれるのに…」
言葉がうまくまとまらない。とにかく八樹には決定的に何かが足りなくて、それが誰かだってことはわかっていて、会いたくてたまらなかった。
「会いたいんです。どうしても。…知っているなら会わせてください」
「ダメだよ」
『その人』と同じ香りをさせながら、マキは冷たく言い放った。
「今の八樹君は誰でもいいんだよ。八樹君をわかってくれて甘やかしてくれて甘えられて……そういう人間なら誰でもね。あんたがあの子のことを大事にしてたのはわかったよ。でも今のあんたじゃダメだ」
「記憶がないからですか?」
「簡単に言うとそうだね」
「でもそれは……」
「そうだね。仕方がないことだ。でもさ、そんな簡単なことじゃないんだよ。
―――八樹君はさ、昔の痛みとかこだわりとかいろいろ持っていて、だからこそあの子だったわけでね。前のあんたはあの子を大事にしてくれてたから、あんたの中にもその名残が残ってるんだろうけど……今の八樹君は誰でもいいんだよ。あの子と同じようなことしてくれる子だったら、誰でもね。もし八樹君が今のままだったらね、別な子を探した方がいい。―――探せるよ、今のあんただったら」
「どうしてその人がいるのに、他の人を探さなきゃいけないんですか…?」
当然ともいえる八樹の問いにマキは深く息を吐き、軽く首を振った。
「だって、八樹君は強くないじゃないか」
「強くない……?」
「今の剣道のレベルがどうなのかは知らないよ。そうじゃなくて、今のあんたは『強さ』を目指してないしね。あの子とあんたは根本的な価値観が同じだったからね……」
マキの言うことは八樹にはよくわからなかった。八樹は強い。すでに部活で負けることはない。しかし……。
(前、半屋君にも同じようなこと言われたな……)
勝つ気がないなら負けろと、そう言われた。勝つ気ならあるつもりだった。もしかすると自分には何か欠けているのだろうか。
「じゃあその人は、俺が強くないから会いに来てくれない……んですか?」
「そうじゃないよ。もっと簡単な話だ。―――今のあんたなら誰でも選べるだろ? わざわざあの子じゃなくてもね。価値観が同じである必要も、あんたのことをわかっている必要もない。それに今なら八樹君は誰にでも素直に接することが出来る…。あの子はそれがわかってるから―――……そうだ、あんたはどこまでわかってる?」
マキの話は重く、八樹は真実を知るよりもこのままここを逃げ出したい、と思った。耳をふさいで逃げ出して、『その人』に会う夢を見続けていたい。しかし、その一方でそんな事はできないと思っている自分も確かにいた。
「多分、年上か……他に恋人がいた人で……俺と恋人になるなんて思っていなかったんだ思います―――。それでも俺を見てくれた。優しい人なんだと……」
「男だよ」
「え?」
「男だ」
「からかってるんですか? ―――こんなときに?」
「からかうわけないだろ? ……ということは八樹君はそういう趣味があるわけじゃないんだね」
「当たり前でしょう」
八樹にはマキがふざけているようにしか聞こえなかった。自分にはどう考えてもそんな趣味はないのだ。マキは深いため息を一つついてから話を続けた。
「やっぱりあんたには他に選択肢がなかっただけなんだよ。あんたの過去があんたの選択を狭めていたんだ。だから―――もういいだろう?」
マキはまるで自分の子供を見ているかのような、いたわるような表情で八樹を見ている。身内にも感じなかった親しさを感じて、八樹は戸惑った。
「八樹君だっていずれは気がつくだろう。そして八樹君はもしかしたらあの子で満足できるかもしれない。今のあんたは誰でもいいわけだからね。―――でも……あの子はダメなんだ。あの子自身は気づいてないけどね……今の八樹君じゃ絶対ダメなんだよ。
―――今のあんたなら、過去のない今の八樹君なら、別の人間を選べる。だから……」
八樹はそれに頷くことは出来なかった。八樹は『その人』に会いたいのだ。八樹の中に空いている穴は誰だかはわからないけれど、たった一人の人の形をしていて、他の人で代わりになるものではない。
「あの子、今、ちょっとまいっちゃっててね。もしかしたらあんたを選ぶかもしれない。外見も中身も同じだしね。今はまだどうにか理解してるけど、かなりまいっちゃってるから、あんたのところに来るかもしれない。そしたら拒絶してくれないかな。今のあんたじゃ絶対にダメなんだ」
……それでも、マキのその言葉が無視できるようなものではないことも、もうわかっていた。
『その人』は確かに実在していて…八樹が今の現実から逃避するために逃げ込む妄想などではなく、確かに実在している人で…だからマキの言っていることは多分本当のことだ。今の八樹では駄目だということも、すべて。
しばらくして、マキは喫茶店の壁に掛けられた時計に目を向けた。
「…っと。そろそろ時間だ。だんなが帰ってくる」
「結婚してるんですか」
「そ。だからあんたの恋人とやらじゃない」
そう言うとマキは立ち上がった。
「きついことを言ったけどね、あたしは八樹君が好きだったよ。だから、あんたのためにも―――あの子のことは忘れた方がいい。八樹君がつらい思いをするだけだ」
マキは伝票を掴むと、有無を言わせずさっさと支払いを済ませてしまい、風のように喫茶店から消えていった。
結婚している『まき』という人。もしかしたら『まき』というのは名前じゃなくて名字なんじゃないか。それはほとんど確信だった。
あの人が真木という名字の人だったら、たぶん教師の真木の妻なのだろう。とすると……。
(半屋君だ。まちがいない)
自分に対して一番おかしな態度をとった人。きっと彼からもマキと同じ香りがするはずだ。
(ああ、そうか……)
目覚めたときの一番はじめの記憶。誰かを呼ぶあの心配そうな声。あれは半屋だったのだ。
八樹の脳裏をいままでの彼の様子がフラッシュバックしていった。時々見せる泣きそうな顔。突然の怒り。それはすべて自分に対する不器用な愛情から来ているものだったのだ。
わけもわからず殴られて人々に「よかったね」といわれた。あれもきっと。八樹がいないことに耐えきれなくなって、元に戻そうとしていただけなのだ。殴られた箇所は、始めぶつけた箇所と同じだった。
気がついてしまうと愛しくて愛しくてたまらない。今ままで欠けていたはずの穴はもうすでになく、そこにしっくりと半屋の存在がおさまっていた。もうさっきまでの欠けていた自分が思い出せないほどに、自分の心の中に半屋の存在を感じた。
今すぐ抱きしめて「俺はここにいるから」と囁きたいのに。
―――『拒絶してやってくれないかな』
その言葉はあまりに重く響いた。
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