気持ちが醒めてしまっても学校の友人は大切にしなくてはならない。結局八樹はその後も友人達と『友人』としてつきあっている。曖昧な笑みを浮かべながら、自分の真意を隠して『友人』づきあいをするのは、やってみるととても簡単なことだった。
友人達の態度、家族の反応、それら体験していくうちに、だんだん以前の自分と今の自分の区別が曖昧になっていくのがわかる。記憶は戻らないのに、徐々に以前の自分が今の自分となじんでゆく。
(……会いたい)
だから、会いたくてたまらない。以前の自分が満たされていたということが実感できるから、失ったものの大きさに耐えられなくなる。
(会いたいのに、なんで―――)
なんでその人はここにいてくれないのだろう。
このソファーに残されていた香りもあの空虚な部屋も、きっと全部その人のものだ。共に暮らしていたのだろう。それなのに。
目覚めてから今まで、八樹は自分が人間が嫌いだということに気づかなかった。八樹に見えていた世界は明るく、記憶など無くても楽しく生きていけるだろうと思った。
でもそれは、以前幸せだった自分の名残にすぎない。その人を失ったことにさえ気づいていなかったから、その人がいたときと同じように幸せでいることができただけだ。
一度気がついてしまうとその存在はあまりに大きく、八樹の中にすべての色を失った穴がぽっかりと開いるようだった。
(なんで―――…)
きっとただの恋人などではない。生涯でたった一人だと決めた人だったはずなのに。
近頃ようやくわかってきたのだが、自分は人間が嫌いだし、本来人を好きになったりもしない。
それでも好きになった人。いつでも一緒にいたいと思っていたはずの人。自分はただの恋愛感情だけで同居をしようだなんて思える人間じゃないから、きっとすごく大切な人だったはずなのに。
八樹は気づかないうちに自分の肩を抱いていた。
その人のぬくもりを手触りを、自分は確かに覚えているような気がするのに、思いだせると思ったそばから消え失せてゆく。
ひどくもどかしい。思い出せない自分にいらだって仕方がなかった。
目覚めたときに知らない人間から恋人だといわれたら、きっと自分は拒絶していただろう。相手を信用することもできないまま曖昧に恋人の振りをして、それ以上のことは何も気づかないままだったはずだ。
その人はそんな自分のこともわかっていたのだろうか。
『……つ……』
そのときふと何かが八樹の中をかすめていった。
(―――……?)
確かそれは目覚めたときの記憶だ。はっきりとは覚えていないが、この世でたった一人と決めた人間を失う恐怖に塗りつぶされた声を、自分はひどくうらやましいと思っていた。
きっとそんな存在だったはずなのに。離れては生きていけない誓っていたはずなのに。それでも忘れてしまった自分を、その人はどう思っているのだろう。
傷ついていてくれればいい―――始めに思ったのはそんなことで、八樹は自分の身勝手さに苦笑した。
どんな人だかはわからないけど、せめてその人が今、幸せでありますように…―――そう願う気持ちは確かに真剣な気持ちではあるけれど。
傷ついていてくれたらいい。傷ついていてくれるのなら、俺はきっと安心できる。俺はこんなにも耐えられないのだから、せめてあなたも傷ついていて―――。八樹はもう香りの消えたソファーに身をゆだねながら、そんなことを願ってしまう身勝手な自分を笑った。
その人はどんな人なのだろう。記憶を失った自分に会いに来てもくれない薄情な人。
きっと俺と恋愛をするなんて考えてもいなかった人だろう。俺は俺の外側だけを見ている人を好きになったりすることはないから。
そして俺の内側に気づいてそれを好きになるような物好きな人間も嫌いだから。
もしかすると八樹の顔も性格も嫌いだという人かもしれない。それでも八樹と暮らすことを選んでくれた。そういう人かもしれない。
こんな状態の自分を見捨てた薄情な人のはずなのに、どうしてもそうは思い切れない。きっと本当は優しい人のはずだ。
そして多分―――傷ついていてくれている。
どんな人かはわからないのに、なんとなく浮かんでくるものが自分の中には確かに残っていて、八樹は安心した。
どんな人だろう、と考えると少し心が慰められる。でもそんなことよりただ会いたい。ここにその人がいたのを知っているから。自分の心の中にその人の存在が大きく残っているのがわかるから。いますぐ会いたい。
早く会いたい。君のおかげで変わることのできた俺が崩れてしまう前に。早く、早く会いたい。今、すぐに。そうしなければ―――。
|
|