優しく自分の体に回っている、欲しくて欲しくてたまらなかった腕を、ゆっくりと外す。
「半屋君……」
欲しかったのはこの人だ。
ぎりぎりの渇きにも似た焦燥で、この人を求めていた。
なのに。
『でも……あの子はダメなんだ。あの子自身は気づいてないけどね……今の八樹君じゃ絶対ダメなんだよ』
あの喫茶店で、半屋の姉はそう言った。
それがなぜなのか、理由はまだわからない。
「八樹……?」
半屋は透明な瞳のまま八樹を見上げている。
理由はわからない。それでもそれが事実だということだけは痛いほどにわかった。
この人は自分を見てくれている。昔の自分ではなく、今の自分をそのまま。でも、だから―――
『今の八樹君じゃダメなんだ』
なんでなのだろう。
今の自分を見てくれている。でもそれがなぜか苦しい。
なんでだろう。なぜかひどく居心地が悪い。望んでいた場所にいるはずなのに。
「見回り…行こうか?」
「……? ああ」」
今、目の前にやらなくてはならない事があって良かった。
こんなに欲しいのに、手に入っているかもしれないのに、何をしたらいいのかがわからない。
八樹は割り当てられた校舎に向かう。
少し早足になっているかもしれなかった。
目の前にいる人は自分が求めて止まなかった人だ。でも何か見えない壁のようなものが立ちふさがって前に進めない。
何をして、何を言って、どう接していいのかさえわからない。
これが記憶がないということなのだ。ようやく八樹は実感する。
自分の中に何もない。
愛しい人に話す言葉さえも。
記憶がなくても『友人』たちとはうまく接することができた。
始めはぎこちない時もあったし、今でも時々わからないことがある。そのたびに少し取り残されたような気分にはなるが、今のようにどこに身を置いていいのかわからない感覚は味わったことがない。
欲しかったのはこの人なのに。
欠けたものが埋まるような、欲しかった感覚は訪れない。
目の前にいるのに、まだ出会えていないような気がする。彼が誰だかわからずに、ただ渇望だけがあったときと同じ感覚を味わう。
「ねぇ…君は…。
あのさ、俺の家に空いてる部屋があるんだけど、あれは…」
八樹と半屋は担当となった校舎を見回っていた。
見回りを名分に視線をさまよわせて、聞きたいことも直接聞けない。
「オレの部屋だった。
―――戻った方がいいのか?」
八樹が言えなかった言葉を半屋がひきとってくれた。
なぜだろう。
一言話すごとに自分が劣っているような、みじめな気分になる。
失っていたはずの恋人が戻ってきてくれて、なにも憂うことなどないと思ったのに。
「……うん。そうしてもらえるなら…」
本当に自分がそれを望んでいるのかもわからない。
でも、手に入れたい。恋人になってしまいたい。
そうしたら、何かが間違ってしまったことも、まだ消えない渇望も消えてゆくのだろうか。
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