へぼんな話になりがちなものの一つに『原作ファンタジー』があります。どういうのかというと、設定は原作そのまんまなのに、壮大になるタイプの話です。
たとえば『実は魔界の第10王子な八樹』とか『人には見えないものが見えている半屋』(←微妙に萌えです(笑))とか『後醍醐天皇の生まれ変わりな梧桐』とか、そういうやつです。 私の昔のネタ帳を見ると、こういう話の設定ばっか書いてあるのですが、近頃めっきり見なくなりましたねぇ〜。私も前よりは書かなくなったし。 時代遅れなんだと言われればそれまでですが、私はこのタイプの話が大好きです。設定つくるだけで燃えるよな〜。
この手の話って普通のパラレルより制約が多いんですよ。なので、そこを飛び越えるときにへぼんパワーが生まれるのです。というか、飛び越えようとするとうっかりへぼんになってしまうのです(笑)
たとえばさっきの『見えないものが見えている半屋』の設定で話を作ってみましょう。 パラレルだったら、ひねりはいらないんですよ。半屋は霊感体質で、毎回幼なじみのゴーストバスター梧桐さんに助けてもらったり、色情霊に体をのったられて大変なことになったりしてればいいわけですが(笑)、原作のあの半屋がというところを強調すると、制約が生まれます。
まず誰かに助けてもらうというのは、あの性格にならないのでアウト。ついでに、たとえ悪霊であっても、知らない人のために霊と闘うというのもアウトだと思います。 逆に青木レベルであれば、というか青木・梧桐・姉・真木・小西・後輩・御幸・伊織であれば(伊織と御幸は微妙)、影に隠れて死ぬまで闘いそうというか、死にそうだよな。 しかも半屋には『幼い頃人々から疎まれていた』というナイス設定があります。 これを考慮に入れて霊感話をつくると、
霊が見えるせいで両親やまわりの人々から疎まれている半屋工(10歳)。「お前の瞳は薄気味悪い」などと言われ、姉だけがたった一人の味方
とか、設定がどんどんできていきます。 しかもあの、どーしよーもなくやる気のない性格です。それも考慮に入れて話を続けましょう。
半屋にとっては霊が見えるのが当たり前なので、半屋は霊に無関心です。ついでに人から疎まれ続けたせいで、自分という存在にも無関心です。 そんな半屋なので、道ばたに霊が寝転がっていても、よけることもなく歩き、霊に襲われようとさわられようと無視し続けます。もちろんうざいときは追い払いますが、それだけです。 そんなことを繰り返していたので、半屋少年の生命力は、まさにつきかけようとしていました。それでも半屋は自分自身には関心がないままです。生きていようと死んでいようとどうでもいいのです。 そんな時、半屋は生命力あふれる少年、梧桐勢十郎と出会います。そして物語はうごき始めるのでした。
―――さて。こうやってプロットを立てていて気づいたのですが、こういう原作ファンタジーというのは原作での穴を埋めようとすればするほどへぼんに近づきますね(笑) しかも原作との区別がつきにくくなるのもポイント。だって、こうやっている間に半屋が霊感体質っていうのは原作上も有りなような気がしてきたもんな(笑) 色々説明がつくからね(笑)
へぼへぼな話ですが続けましょう。
今までは原作上の穴(なんで半屋はあそこまで性格が妙なのか。家族がいるっぽいし姉には大切にされているのに、という穴)を埋めていたのですが、今度はさらに大きな穴を埋めてみたいと思います。大きな穴。もちろんそれはカップリング。是非とも飛び越えたい穴なので、大きくジャンプしてみましょう(笑)
梧桐さんはケンカの最中に、自分が触れると半屋の生気が戻るということに気づきました(ほら、だんだんへぼに磨きがかかってきたよ(笑))。 ある日、半屋はたちの悪い霊におそわれ、ついに生命力がほとんどなくなって倒れ込んでしまいます。そこにたまたま通りかかった梧桐さん。まったく色のない半屋を抱き起こしますが、すでに手遅れです。 半屋とケンカするのも、それによって半屋が生気をとりもどすのも、いつのまにか梧桐さんにとってかけがえのないものになっていました。梧桐さんは躊躇せずに半屋に人工呼吸(笑)をして自分の生気を分け与えます。
さて。ここからが問題です。いや、ちゃんとプロットは考えついたんだけど……。ええと、乗り越える穴が原作上の穴&カップリングというダブルでくるのでへぼんになるのです、と先に断っておこう(笑)
そんなことを繰り返しているうちに梧桐と半屋は中一になりました。梧桐と交流するうちに徐々に人間らしくなってきた半屋。しかし、それが災いしてしまいます。 ある日、半屋は梧桐さんの家のそばでたちの悪い霊を見つけ、無意識的にそれを追い払おうとしてしまいます。梧桐の家のそばだから追い払おうとか意識上で思ったら半屋ではありません(笑)あくまで無意識がポイント。 しかし、それによって半屋はついに死んでしまいます。 家のそばで死んでいる半屋をみつけた梧桐さん。いくら人工呼吸をくりかえしても半屋は復活しません。 自分の生気のすべてを分け与えるため、肌と肌を重ね、人工呼吸をくりかえす梧桐さん。 その体勢が悪かったのか、自分の生気を分け与えるもうひとつの方法に思い至ります。というか既にそうせずにはいられない状況です。 生気をわけあたえる神聖な儀式(←逃げてみました(笑))を行うと、半屋の肌が紅潮し、ようやく生気が戻ってきました。半屋は生き返ったのです。
さて、生き返った半屋は梧桐さんの一部が体内に入ったせいで(つっこみはあとでまとめてやります(笑))、霊を見ることがなくなってしまいました。 一方、梧桐さんのほうにはいくらそれで半屋が復活したとはいえ、やましい思いが消えません。しかも半屋は死んでいたので、それをまったく覚えていません。やましさ倍増です。 その上、半屋が生気を失うこともなくなった(霊が見えなくなったから)ので、梧桐さんが半屋にかまう理由がなくなってしまいます。 半屋の前から姿を消す梧桐さん。中一の夏のことでした。
さて。どこからいきましょうか(笑) もちろん、私はたとえプロットでも梧桐さん死×話なんて書くつもりはなかったのですが、気がつくと書いていたのは、原作とカップリングを一挙に解決してしまおうという野望のせいですね。原作上の謎「なんで梧桐さんは半屋をあんな状態で放っておいたのか」と「梧半はじめて」と「霊感体質」を一挙に処理しようとしたら、こんなことに(笑) なんでしょう、穴を飛び越えたというより、化け物においたてられている最中に目の前に橋が!って感覚ですねぇ。その橋がどんな危ない橋であっても、そこに橋がある以上わたってしまうのです。迂回して他の安全な橋を渡ろうなんて発想はなくなるのです。 だって目の前に解決策があるんです。梧半の初めても原作上の謎も一気に解決した上に今回の設定「霊感体質」を活かせる解決策が! というわけで、この手のへぼんはどうも今まで書いてきた「萌えへぼん」とはタイプが違うような気がしてきましたね。萌えへぼんは萌え萌えと話がつっぱしるのですが、原作ファンタジーは追い立てられる(笑) さて。本当はこの原作ファンタジーのために用意していたプロットは転生話だったのですが、それは次の機会にとっていて霊感体質で話を進めましょう。
次はもし八樹が霊感体質だったら、です。 まず、八樹が霊感体質というだけで、世界観が決まってしまいます。どういうことかというと、原作八樹で霊感体質という場合、霊が八樹を襲ってはまずいのです。いや、まずくはないかもしれないけど、私はイヤだ。 八樹はやはり小さい頃いじめられっこだったというところがミソです。人間にいじめられている上に霊にも襲われているというのでは焦点がぶれていやな感じです。なので、この世界では霊は存在しても人を襲わない、とした方が簡単なのです。
いじめられっこの八樹宗長は霊感体質で霊が見える子供でした。霊は八樹を襲ってきたりはしませんが、八樹はただそこに霊がいるというだけでいつもおびえています。八樹は「いいこ」なので、霊の存在を人に言ったりしたことはありません。ただ恐ろしいのです。 八樹をいじめる子供に落ち武者の霊がついていたことがあって、八樹はその霊がいじめっこを襲えばいいのにと思っていましたが、怖い落ち武者でさえ人を襲いません。 そうやって鬱屈した八樹に決定的な出来事が起こります。 梧桐さんと出会ったのです。 ただでさえ歪みつつあった八樹は、梧桐さんと出会って完全に歪んでしまいます。練習を積み重ね、強くなる八樹。しかし鬱屈はさらに深まっています。「もう俺は君たちなんて怖くないんだよ」 八樹はそう言い、木刀をもって霊をたたきこわしてゆきます。 破壊の魅力にとりつかれた八樹。壊しても反応のない霊を壊すだけでは飽きたらず、人間を壊してみたくなります。人間を、そう、梧桐勢十郎を。
さて。今回は原作上の穴を飛び越えておらず、霊以外は原作に沿っているので比較的ゆるやかに話が進んでいます。 このまま八梧や梧八にすれば、原作ファンタジーではあってもそれほどへぼん化しないですむかもしれません。 だかしかし。 ここは自分の萌えを乗せなくてはならないへぼんのコーナー。 この展開で八半に持っていくのです(笑)
さらに、ここで「俺に壊されてくれる半屋君にどきどき」みたいなネタにもって行けばそれもそれで簡単なのですが、それはすでに同人で書いているので(笑)その橋をわたるのも止めると、話は一気にへぼんへ傾きます。
梧桐を壊すという欲望にとりつかれた八樹。それだけではなく人間に対する破壊衝動も持ち続けています。一挙に解決するために、梧桐を呼び出すためと自分の中でいいわけをしつつ、いろんな人間を壊してゆきます。 その中に半屋がいました。 梧桐が大切にしている半屋なので、徹底的に壊します。生まれて初めて満足のゆくまで壊しきり、八樹はまるで麻薬をすったような陶酔を覚えます。 そして半屋の血を浴びたあと、霊が自分を避けてゆくのがわかりました。 そう。半屋の血は聖なる力を持っており、しかも麻薬のように深い陶酔をもたらすものだったのです。
―――さて。 途中まではそこそこまともだった割に最後で大きくジャンプしましたね(笑) なぜ急に「聖なる力」で「血が麻薬」にまで飛んでしまったのか。実は隠されている設定があります。最後の部分にその設定を足してみましょう。
そう。半屋の血は聖なる力を持っており、しかも麻薬のように深い陶酔をもたらすものだったのです。人々は無意識のうちに半屋の血を求め、だから半屋はさまざまな人に襲われるのでした。
わかりました? 別に、半屋がしょっちゅう襲われて血を出していることなんかに理由をつける必要はないのですが、そこにまで理由をつけてしまうとすごいことになるのです。 というか別に理由をつけようとしているわけではないのですが、原作に沿って話を作っていると、気がつくと原作から理由付けを持ってきてしまうんです。そしてそれがへぼんを生む(笑) この場合、「じゃあ梧桐さんも半屋の魔性の血(←いったい…)を求めてるって言いたいわけ?」とつっこまれるところですが、ここでの一番よい解決手段は梧桐さんを無視することです(笑) これ以上この話を続けると、完璧私の趣味の世界に行ってしまう上に原作と離れてしまいそうので(あと使えそうなのは二条編ですね。なぜ八樹は半屋の血を求めなくなってしまったのか、とか大げさに使ってみるわけです(笑))、このあたりでやめましょう。
原作ファンタジーでかつキャラがもともと××だった系の話をしてきたわけですが、こういうタイプだと越えようとする穴が大きければ大きいほどへぼんになりやすい、と結論づけれそうな気がします。 原作ファンタジー共通の問題点は、せっかくなので転生ものかなんかのあとに指摘しようと思います♪
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