受話器を握りしめて、僕はしばらく呆然としていた。
『なんだよ。用がねぇなら切るぞ』
「……なんで?」
『は? てめぇとする話なんてないんだよ』
「そうじゃない。なんで………!!」
僕の中に渦巻いているのは、激しい怒りだった。生まれてから一度も感じたことのないほどの、激しい怒り。でも、それが理不尽なものであることもわかっていて、僕はその怒りを押し殺した。
『何がいいたいんだ、てめぇは』
「裕太、その声………」
『ああ。声変わりしたんだよ』
電話越しに聞こえる、少し誇らしげな聞き覚えのない声。
「なんで…」
『なんでって、声変わりなんだから当たり前だろ。しばらく声が出にくくて、どうなんのかって思ったけど』
僕はこめかみに血が集まって、脈打つのを感じた。目の焦点も合わない。
なんで、裕太。僕の知らないところで変わってしまうなんて。君が変わってゆく過程を、僕が知らないなんて。
伸びやかな君の声がかすれてゆくのを、声が出にくくて苦しんでいるのを、何一つ僕が知らないなんて。
『おい』
「裕太」
『なんだよ』
「………なんでもないよ」
受話器をきつく握りしめて、普段通りの声を出す。
『もう切るからな。意味もなく電話してくんじゃねぇよ』
僕を嫌っている、知らない声の男。もうあの裕太は、高く、甘い声で僕を呼んでくれた裕太は、どこにもいないんだ。
「うん、切っていいよ」
僕に黙って変わってしまうなんて。ひどいよ、裕太。僕は、僕は君の中で、もうそれだけの存在でしかないの?
『なんだよ。何かあったのか』
僕のことを嫌いなくせに、心配なんてしないで欲しい。嫌うならもっと徹底的に嫌ってくれればいい。そうしたら、きっと、僕も君をあきらめられる。
「何もないよ。元気でね、裕太」
『ああ。………兄貴もな』
裕太が聞き覚えのない声で小さくそう言って、電話が切られた。
僕は受話器を持ったまま、呆然としていた。できることなら泣いてしまいたいと思ったのに、涙はでてこない。
見知らぬ人が知っている裕太の成長の過程を、僕は知ることが出来ない。
これから大人になってゆく裕太。のびてゆく身長も、変わってゆく体躯も、僕はその過程を見ることができない。
裕太は、もう、僕のものじゃない。
今まで認めたくなかったその事実が、僕につきつけられる。
裕太が聖ルドルフに行くことになった時、僕は少し距離を置いた方が、僕の裕太が帰ってくるような気がして、さほど危機感を感じていなかった。裕太は今反抗期で、それが終わればきっと元通りになる。そう思っていたから、寂しかったけれど、裕太がいなくても耐えられた。
でも、裕太は僕のいないところで変わっていくのだ。いずれ僕のことなど、ほとんど思い出さなくなる。
そんなのは厭だ。僕を置いて変わってゆくなんて、裕太が僕のものじゃないなんて、僕が裕太の中でどうでもいいものになってしまうなんて、そんなのは厭なんだ。
君の声が変わってゆくのを聞きたかった。かすれて、苦しそうな声の君の側にいたかった。
なんで、そこにいるのが僕じゃないんだ。僕だけが、君の側にいることができたのに。君を、ずっと見ていたのは僕なのに、なんで僕が君の側にいることができないんだ。
僕は大きく息を吸った。意識的に呼吸をしないと、酸素が足りなくなってゆく。
「周助ー。お風呂よー」
階下から姉の声がした。
「今行くよ」
もう一度大きく息を吸って、僕はいつもの僕に戻った。
「裕太、声変わりしたみたいだよ」
湯上がりの姉に声をかける。
「あら。じゃあ今度電話してみないと」
姉は嬉しそうにそう言うと、母の元へ報告に行った。
こういう時は、喜ぶものなのだ。僕は姉の態度からそれを学んだ。今度裕太に電話をかける時は、裕太の成長を喜ばなくてはいけない。そう思いながら僕はバスルームに向かった。
シャワーを頭から浴びながら、まだ耳慣れない裕太の声を思い出した。
『ああ。………兄貴もな』
その声の中にある、わずかな僕への想いを繰り返し探し出す。知らぬ間に涙がこぼれていた。
裕太が声変わりしたのは青学にいる間のような気がするのですが、一応平均は中二だったと思うので、それに近い中一の終わり頃って感じで。
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